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私は玄関に急いだ。
音弥の学校は今の時期にはもう自由登校になってるはずだし、音弥が新しい自宅に帰省したとしてもおかしな話じゃない。
ただ、私は何も聞いていない。
それだけが引っ掛かった。
もしかして、サマースクールやワークショップにここから通うつもりなのだろうか?
それとも、ただ単に引っ越した家を見てみたかったとか?
…………いや、それならそれで、音弥なら必ず連絡を入れるはず。
それがないということは………学校で、なにかあった?
逸る気持ちを抑えきれずに玄関の引き戸をガラリと思いきり開いた。
「音弥っ?!」
まだ相手が音弥だと確かめたわけでもないのに、そう叫びながら。
すると、前庭の先、門のインターホンをまさに今押そうとして、でも指を引っ込めたような体勢の音弥が、そこにいたのだった。
勢いよく開いた扉に、ギクリとした様子で。
「姉さん……、いたんだ………」
実にお正月休み以来の弟の姿は、驚きに固まっていた。
「そりゃいるわよ。自分の家なんだから。それよりびっくりしたのはこっちよ。今日帰ってくるなんて言ってた?」
私はサンダルを浅く履き、門まで駆け足で向かう。
音弥は制服姿で、いつも帰省のときに使っているスポーツバッグを斜め掛けしていた。
少し、また背が伸びているかもしれない。
「いや、それは………」
音弥にしては珍しく語尾をあやふやにさせた。
体の前で両手を組み、動揺してるような仕草だ。
その絡まる指は細く長く、とても綺麗な、ピアニストの指だと思う。
私はもうずいぶん長いこと、この綺麗な指が羨ましかった。
この指が奏でるピアノの音が………
………だめよ、それ以上は考えちゃだめ。
私は自己嫌悪を手放して、音弥に笑いかけた。
「まあ、とにかく入って?この時間だと、たぶん、朝早くに寮を出てきたんでしょう?朝ごはんは?」
音弥に近寄り、そっと背中を押す。
「途中で食べてきた」
「そ?ならお腹はすいてないのね?」
「大丈夫」
何てことない会話が自然とできたことが、嬉しかった。
「地面が濡れてるけど、雨降ってたの?」
「朝にはあがってたけどね。でも昨夜は結構降ってたみたい。そのせいで今日は大学が休みになったのよ」
「どうして?」
「なんかね、雨漏りしちゃったみたい」
「へえ……。でもだから姉さんがこんな時間に家にいたんだ」
「ああ、それでさっき私を見てびっくりしてたの?」
「ここまで来てしくじったと思ってたんだ。新しい家の住所は聞いてたけど、鍵をまだもらってなかったから。平日のこの時間は姉さんも文哉も学校だし、父さんと母さんも仕事部屋だろうから、インターホンを鳴らしても誰も出てこないんじゃないかと思った」
「じゃあ雨漏りに感謝しなくちゃね。お父さんは取材旅行に行ってるし、お母さんも打ち合わせでいないから、今家に私一人なのよ」
ひとまず居間に案内しながら説明すると、音弥はにわかに声のトーンが落ちた。
「姉さん一人なんだ………」
音弥の呟きは、なんだか私と二人きりなのを避けたがってるようにも聞こえた。
そして、感情をあまり顔に出さない音弥なのに、その横顔には、ありありと困惑が浮かんでいて………
おそらく、私が音弥の件がきっかけで体調を崩したこと、さらには今現在もクリニックに通って治療を続けていることも、親から聞かされているのだろう。
なにしろ、私の異変に真っ先に気付いたのは音弥だったのだから。
だから、音弥が私と二人になることを警戒するのは至極当然の判断だとも思えた。
音弥が私を避けている………
そう感じはじめてから随分経つけれど、それは決して私を嫌悪しているからじゃなくて、むしろ私を慮ってのことだとわかってる。
そして以前までとは違い、今の私は南先生のおかげで回復してきているし、自分の心とも素直に向き合えている。
その証拠に、数か月ぶりの音弥との対面も、こんなにも自然に迎えられたのだ。
だから、音弥には、もう気にしないでと言ってあげたかった。
私のことを気遣うあまり、実家にいるときも一切ピアノを弾かなくなった音弥。
極力私とは込み入った会話をせず、私の反応を窺ってばかりで。
思い返せば思い返すほど、本当に音弥には申し訳ないことをしたと思う。
ただ真摯に、一途に、大好きなピアノを弾いていただけなのに。
そのせいで私が倒れてしまうなんて、そんなの音弥にはまったく責任なんかないのに。
それでもきっと音弥は、自分のせいだと強く感じているのだろう。
あまりおしゃべりじゃなくて、自分のことを積極的に話すタイプでないけれど、音弥の今思っていることは、手に取るようにわかった。
なら、私はどうしてあげたらいいのだろう?
私はもう大丈夫だからと言えばそれでいいの?
たったそれだけで、音弥の憂いは晴れるの?
音弥になんて声をかければいいか迷ったそのとき、
『お嬢ちゃん、頑張って!』
『テイクイットイージーですよ!』
『アタシたちはみーんなお嬢ちゃんの味方よ?』
『ちんたらしてんじゃねえよ!さっさとなんか言え!』
彼らの声が聞こえてきた。
私一人の時しか出てこないで、そう決めた約束を守り、姿こそ見えなかったけれど、きっと彼らなりに心配してくれているのだろう。
そして、もう一人………
『大丈夫だ。其方は、一人ではない』
万葉集女王の凛とした断言が、心に響いたのだった。
彼らに背中を押されるようにして、私の躊躇は吹っ切れた。
「………ねえ、音弥」
私から逃れるようにしてきょろきょろと居間を見まわす音弥に、そっと呼びかける。
けれど、
「そういえば、俺の部屋は姉さんが片付けてくれたの?」
音弥からはあからさまな話題変更が返ってきたのだ。
さすがに付き合いの長い姉弟だけあって、私が何かを話したがってると察知したのだろう。
音弥が私と話すのを避けていることは知っている。
でも今を逃したら、この先きちんと話せる機会はもう訪れないような気もしてしまうのだ。
だって音弥は、来年、早ければ今年の秋にはもう留学してしまうのだから。
「簡単にしか片付けてないけどね。そんなに荷物も多くなかったし。ところで音弥、ちょっとだけ話していい?」
セリフに休符をはさめば、音弥がすぐさま話題を引っ張っていきそうで、私はワンフレーズで告げた。
すると音弥は、まったく気乗りはしてなさそうだったものの、「………なんの話?」と聞く姿勢は見せてくれた。
私はソファに腰をおろして、音弥もそうするのを待った。
だけど音弥は縁側から身を乗り出し庭を眺めはじめた。
私には背中を向けるかたちだ。
この距離感が音弥的には正解なのかもしれない………
私はそう思うことにして、しばらくぶりに会って若干広くなっている弟の背に語りかけた。
「音弥。私なら、もう平気だから」
「………なにが?」
少しぶっきらぼうにも聞こえる反応だった。
でも彼が生まれた時からずっとそばで見てきた私には、お馴染みの態度でもある。
「音弥にも、たくさん心配かけたよね。ごめんね」
「………心配するのは普通でしょ。家族なんだから」
「まあそうなんだけど……。でも、一度ちゃんと音弥に話しておきたくて」
「なにを?俺のせいで姉さんが倒れたこと?」
「それは違う!」
思わず声のボリュームがあがってしまった。
音弥も振り返り、驚いたように目を見開いた。
「それだけは絶対に違う。私の体調と音弥は、全然関係ないんだから」
これだけは声を大きくして伝えたかった。
だけど音弥も簡単には引きさがらない。
「でも俺の留学が引き金になってるのは間違いないだろ」
音弥の言葉遣いがわずかに変わった。
「そりゃタイミング的には確かに重なるのかもしれないけど、それは違うよ」
「なにが違うのさ」
珍しく、音弥が感情を放った。
「音弥………」
私は左右に小さく首を振った。
「全然違うよ。私が倒れたのは、私の心の問題。音弥のせいなんかじゃないの。例え音弥がそう思っていても、違うのよ」
ぴしゃりと、反論を一切受け付けない口調で断言すると、さすがに音弥もそれを否定することはなかった。
けれどその代わりに、矛先をするりと変えた。
「………でも、薬を飲まないと眠れないんだろう?」
「お母さん、そんなことまで話したの?」
率直に驚いた。
なぜ音弥にそんな情報を教えたりしたのだろう。
それじゃ音弥が自分を責めても仕方ない。
ただでさえ責任感のある子なのに……
私の問いかけに、音弥は口ごもってしまった。
母親が私に叱られるとでも思ったのだろうか。
ほら、こんなにも思いやりのある子なんだ、私の弟は。
音弥が私のことをどこまで知ってるのかはわからない。
でも、今ここで変に誤魔化したり隠したりするのは絶対にやってはいけないと、私の心が強く感じていた。
「音弥、ちゃんと話すから、聞いてほ…」
聞いてほしいの、そう言い終わる直前、縁側の向こうで大きな音が鳴りはじめた。
私と音弥はパッとそちらを見やった。
「雨だ………」
「雨だ………」
二人同時に呟いて、それから、同時に吹き出したのだった。




