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南先生に言われた通り、私はクリニックを出るとまっすぐに家に向かった。
もともと帰りに食材の買い物に寄ろうと決めていたので、自宅最寄り駅に着くと母に電話をかけた。
何か買って帰るものがないか確認するためだ。
予定よりもかなり早い帰宅になったので驚かせてしまうかな…と思ったけれど、母は特に気にした様子もなく、ついでに父と母がいつも飲んでる栄養ドリンクを買ってきて欲しいとリクエストされた。
そこまでは、想定の範囲だった。
父は急遽仕事の打ち合わせで出かけていたし、母は母で作業が波に乗っているようだったからだ。
そういうとき、なるべく二人の集中力を削ぐようなことはしたくないのだけど、今日は音弥のピアノの調律を頼んでいたので、母には午後はその対応に時間を割かせてしまった。
もしそのせいで作業に遅れが出ているのなら、もしかしたら今日も徹夜かもしれない。
栄養ドリンクの他にも、何か差し入れ的なものを買って帰ろうかな……そう考えていたときだった。
《そういえば、文哉がまだ帰ってないんだけど、何か聞いてない?》
「え?文哉まだ帰ってないの?」
《そうなの。もう帰っててもいい頃よね?》
「だと思うけど……お母さんが気付いてないだけで、一度帰ってまた出かけたんじゃないの?」
仕事に集中するあまり、私達子供が家に帰ってきても気付かれないことはよくあったから。
《仕事中ならそれも有り得るけど、さっきまでピアノの調律してもらってたから、それはないわ。なるべく音をたてないように気をつけてたもの》
「それもそうね……。じゃあ、さっそく友達ができて、帰りに一緒に遊んでるとか?」
《そうね、あの子人懐こいから、すぐに友達もできそうだものね。きっと心配ないわね》
電話の向こうで、ほんの少し母の声が揺らいだ気がした。
心配することないと口にしながらも、心落ち着かないような感じだ。
そして私も母につられてしまったのか、ほのかに胸騒ぎがはじまっていた。
だけど、母にそれを悟られてはいけないとも強く思った。
「…そうよ、そのうちお腹が空いたら帰ってくるわよ。今日のおやつは何――?って。とりあえず私は、文哉がいつ帰ってきてもいいように急いで買い物して帰るわね」
笑い混じりに母にそう伝えると、言葉通りに急いで駅を後にしたのだった。
わずかばかりの嫌な予感からは、顔を背けながら………
◇
「ただいま―――っ。文哉帰ってきた?」
大急ぎで買い物を済ませた私は、玄関先に文哉の靴がないのを確認しつつも家の奥に向かって母に投げかけた。
母は居間から出てくるなり、「それが、まだなのよ…」と、さすがに楽観視はできなさそうなトーンで告げた。
「そう……。じゃあ、私その辺を探してくる。まだ文哉の同級生の家とかは知らないけど、小学校方面に行ったら誰か文哉を知ってる人と会うかもしれないし」
「だったら私も一緒に行くわ。二手で探した方がいいでしょ」
「ううん。お母さんは家で待ってて。文哉がひょっこり帰ってくるかもしれないし。かわりに私が買ってきたものを片付けといてくれる?」
「……わかったわ」
「ああ、でもとりあえず、何か手がかりがないか、文哉の部屋を探してみる。闇雲に走り回っても時間がもったいないしね」
「お願いね。でも、一人で無理はしないでね。文哉はしっかりしてるから、きっと心配ないわよ」
「そうね……」
そうだといいんだけど………
声にはできなかった本心に、私はより一層焦燥感を膨らませてしまった。
文哉が何の連絡もなしに予定の時間に帰ってこないなんて、めったになかったからだ。
だけど今までまったくなかったわけでもないしと自分を窘めて、私は母に動揺を勘付かれぬよう冷静の顔色を張り付けながら文哉の部屋に向かった。
昨日一日でほとんど片付いている文哉の部屋は、しばらく誰も出入りしてないような空気に包まれていた。
ランドセルハンガーにはランドセルも制服も掛けられておらず、文哉が一度も帰宅していないことを証明している。
勉強机の上には転校にあたっての案内などのプリントが何枚も置いてあり、その中でも学校の行事表を拾い上げた。
でも今日の日付には特に予定も記載されておらず、手がかりは見当たらなかった。
こうなったら、念の為、学校側に問い合わせしてみた方がいいのかもしれない。
まだ騒ぎ立てるほどの時間帯でもないけれど、万が一の場合、初動が重要なのだから。
そう考えた私は、スマホを取り出し、今朝教えてもらったばかりの文哉の担任教諭の番号を表示させた。
ただ、そこで少しの迷いが生じた。
学校に電話した方がいいだろうか。でもその場合、話が大きくなってしまうかもしれない。今の段階ではそれは望ましくはない。もしただの道草だったり、友達の家に寄ってるだけだとしたら、あまり大ごとにはしない方がいいだろうし………
迷いが決着せず、私はスマホを握ったまましばらく突っ立っていたのだが、ふと、そういえば文哉は昨日熱心に裏庭で遊んでいたな……と思い出した。
そして何とはなしに、窓から裏庭を見やった。
何か裏庭に手がかりでも――――そう思ったとき、視界の左隅に、不可解な人影がちらついたのだ。
「―――っ!!」
ヒヤリと、心臓が収縮した、気がした。
………ちょっと待って。いや、ちょっと待ってよ。
なんで?
私は反射的に両目を瞑っていた。
人影は、2つ。
女子学生が卒業式で着用するような袴姿で、髪を両サイドで三つ編みにしてる女性。
それから、まるで外国映画やアニメにでも出てきそうな、軍服のようなマントを羽織った背の高い男性。
共通して言えるのは、そのどちらもが、今現在現実世界のここ日本において、そこらへんでよく見かける出で立ちではないということだ。
そんなばかな。
私は自分の見たものが信じられず、閉じたままの両目を思いきりこすった。
だって、2つの人影は、まるで、昨日の烏帽子男と同じじゃない。
烏帽子も、袴も、軍服マントも、おかしいでしょ、絶対に!
なんなのよ?!
今はそれどころじゃないんだから!
早く文哉を探しに行かなくちゃいけないんだから!
驚きとか怖さとかにプラスして苛立ちが湧き上がってきた私は、意を決して目を開いた。
すると、もう、そこには彼らの姿はなかったのだ。
やっぱり私の見間違い、勘違いだったのだろうか……?
………そりゃそうよね。今の時代の日本で、烏帽子とか袴とか軍服とかが日常的に見かけるわけないもの。
やっぱり、引っ越しとか環境の変化でずいぶん疲れてるんだ。
でもとにかく、今は、早く文哉を探さなきゃ。
そう思い直した私は再度スマホを操作した。
けれど、指先が文哉の担任教諭の番号を発信する直前―――――――
『あー、ハローハロ―?もしもし?エクスキューズミー?』
廊下から聞こえた声に、私は、スマホを、ゴトンッと、落としてしまったのだった。




