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「芽衣ちゃんはいつも時間に正確だね。さあどうぞ、いつものように好きなところに座ってくれるかい?」
「はい。でも私、今日は時間ぎりぎりだったんですよ?」
私は返事しながら、いつも座るシングルソファに腰を下ろした。
この部屋はどこもかしこもがまったく診察室っぽくはなくて、デザインの凝ったソファや椅子がいくつも置かれており、テレビやオーディオ、ミニキッチンにミニ冷蔵庫、お菓子コーナーなどが備わっていた。
一見しただけではここがクリニックの一室であることさえ忘れてしまいそうなほどにオシャレな家具と内装は、さながらカフェにでも入ったかのような雰囲気である。
そして私の主治医でこのクリニックの院長である南医師も白衣などは着ておらず、いつもきれいめカジュアルといった私服姿で、それはおそらく、私達患者への配慮なのだろう。
カウンセリングなんて堅苦しい名目ではなくて、気軽に、世間話や愚痴を語らいに来たような感じで過ごせるように。
予約こそ必要だし、場合によっては投薬もあるけれど、それよりも大切なのは、私達患者が落ち着いて話せる時間だと、南先生はしょっちゅう口にしていた。
「時間ぎりぎりって、大学で何かあったのかい?」
南先生は私の座るソファとは直角に位置するオットマンに腰掛けた。
これは90度法といって、自然とリラックスできる対人距離らしい。
互いに相手の顔を見ることもできるけれど、常に目を合わせなければならない位置でもなく、適度な距離を保てるのだという。
確かに、これが正面だったら視線の置き場に困ってしまうかもしれない。
「まあ、ちょっと……。でも大丈夫です」
「そうかい?なんだか少し疲れてる顔色をしてるけど」
「え…?疲れた顔してますか?」
「少しだけね」
「だったら、昨日の引っ越しのせいかも……」
「ああそうか、昨日引っ越しだったね。それなら疲れていてもおかしくはないけど、別に今日じゃなくてほかの日にしてもよかったんだよ?」
南先生はメタルフレームの眼鏡越しに、申し訳なさそうに眉を動かした。
「いえ、大丈夫です。月曜日は南先生と会う日だって、なんかもう習慣みたいになってますから」
「確かに月曜日に会うことが多いよね。それで、どうだい?新しい家は。あの辺は自然も多くて静かだし、過ごしやすいんじゃないかな?」
ご両親も仕事がこれまで以上に捗りそうだよね。
私の引っ越し先の隣町に、南先生のご親戚のお宅があるそうで、南先生も子供の頃によく遊びに行っていたそうだ。
田舎過ぎず、でも自然が多くて、静かで、住宅地でも隣家との間隔が広めにとられていることが多いからか、どことなく大らかな雰囲気の町。
我が家の新しいご近所さんも、少し歩かなくてはいけない立地で、母の職業柄、隣近所を気にしなくていいというのはこの上ない好条件の環境だったのだ。
「そうですね。ちょっとした郊外というよりも、ちゃんとした田舎って感じでした。建物も古い日本家屋ですし、なんだかドラマとかによく出てくる ”田舎のお祖父ちゃんお祖母ちゃんの家” みたいな」
「それは素敵だね。それに、なんだかとても楽しそうだ。そのうち、今まで出会ったことのない虫や動物にも遭遇するかもね」
南先生はそれも田舎の醍醐味だと笑った。
だけど私は、”今まで出会ったことのない” という言葉にぎくりとしてしまった。
あの、烏帽子の男のことが頭を過ったからだ。
………いや、だからあれは私の勘違い、もしくは寝ぼけてただけだってば。
南先生に気付かれぬよう小さく小さく頭を振った。
やっぱり、今日は少し疲れているのかもしれない。
私は無意識のうちに俯いていたのだけど、それを見過ごさなかった南先生が「芽衣ちゃん?」と心配色で私を呼んだ。
「はい……」
ゆっくり顔を上げると、南先生がじっと私を見据えていた。
日本人にしては白い肌で、モデルのようにすらりとしていて、目鼻立ちは上品に整っている。
まるで、どこか外国の貴族の血筋を受け継いでいると言われたら大いに納得できてしまいそうな容貌だ。
シルバーのメタルフレーム眼鏡がやや冷たい印象を与えるものの、常にやわらかい微笑みがトレードマークのように張り付いている彼からは、優し気な雰囲気しか漂ってこない。
心療内科医として、意識してそういう態度を見せているのか、それとも天然の物なのかは定かではないけれど、どちらにしても私は、この南医師を信頼していた。
なぜなら、ここに通い出してからというもの、よく眠れるようになったからだ。
処方された薬が私に合っていたのかもしれない。でも、私の体調が改善されたのはそれだけではないと思う。
南先生に少しずつ自分のことを話していくうち、心が整理整頓できていった気がするのだ。
そしてカウンセリングを重ねていくと、私の中から色々な記憶が欠落していることが発覚した。
それはどれも、音弥の留学が決まってからのことで、南先生は、ショックやストレスを受けて記憶が飛んでしまうのは誰にでもよくあることだと説明してくれた。
ただ私は、音弥の留学や、それを大喜びする親に対してショックだったりストレスに感じていたなんて、自分がとても非情な人間に思えてしまったのだった。
だけどそれを慰めてくれたのも、南先生だった。
”ピアノを上手に弾けるだけが家族の絆じゃないんだよ?”
”自分ができなかったことを誰かができたとして、それにショックを受けるのは当たり前で自然な感情だよ”
”自分の気持ちを我慢し過ぎてるなって、自分で気付く練習をしようか”
”お父さんとお母さんはどんな芽衣ちゃんでも受け入れてくれるはずだよ?”
”それでも誰にも言えない感情を見つけたら、全部ここに持ってきたらいいよ”
そんなたくさんの言葉が、一時は氷のように固まっていた私の心を解してくれたのである。
そして今現在は何の不調もなくすっかり元に戻ったのだけど、それは一、二週間おきのカウンセリングと薬の服用あってのことで、それを断ってしまったら、もしかしたらまた眠れない食べられない日が訪れるのかもしれない………
そんな不安があるからこそ、私は引っ越しの翌日である今日もこうして南先生に会いに来ているわけだけれど、当の南先生からは、思ってもみなかった診断が告げられたのだった。
「今日は、もうこの辺で終わりにしておこうか。芽衣ちゃん、たぶん自分で思ってる以上に疲労がたまっていると思うよ。今日の予約は来週に振り替えよう。今日はもう帰って、早めに休んだ方がいい」
「いえ、大丈夫ですよ?」
「芽衣ちゃんが大丈夫じゃなくても大丈夫と言って頑張り過ぎることは、もうわかってるからね。ほら、立って」
「でも……」
「問答無用。主治医がそう判断したんだから、従ってください」
優しく、だけど一切の妥協は見せない南先生が、ささっと扉を開いて帰宅を促してきた。
私は唐突な展開に戸惑いながらも、本当に今日はイレギュラーなことが起こってばかりだなと思った。
だけど確かに疲労感がないわけでもないし、引っ越しの後片付けもまだ残ってるしと、南先生の提言を素直に受けることにした。
「……わかりました。それじゃあ、また来週お願いします」
「うん。薬はまだ残ってるよね?」
「はい」
「じゃ、今日はゆっくり休むんだよ?」
「はい。ありがとうございました」
「気をつけてね」
南先生はにこやかに見送ってくれた。
今日は途中退場となってしまったけれど、この穏やかな笑顔は私を健全な眠りに送り出してくれそうな気がしていた。




