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”もし何かあったら、連絡してほしい”―――――――
天乃 北斗 は私にそうメッセージを伝えてきたけれど、その何かとは、今のような状況を指していたのだろうか……?
現在、私は午後の講義を終え正門に向かっていた途中だったのが、同じ一年の女子に呼び止められていたのだ。
「ちょっと、無視しないでくれる?」
私を呼び止めたその女子は、人気のない建物裏まで私を促すと、いきなり天乃 北斗 とどういう関係か問い質してきたのである。
どういう関係と言われても、そんなの無関係に決まっている。
率直にそう答えたところ、そんなわけないでしょ!とお怒りモードに火がついた、という流れだった。
「いえ、無視なんかしてません。ただ本当にあの人達とは関係ないので…」
「あの人達?ということは、北斗だけじゃなくて流星とも絡んだわけ?」
「いえ、絡んだわけでは……」
いや、どちらかというと私は絡まれた方で、しかも今はあなたに絡まれてるわけですが……
内心ではそんな反論していても、この沸騰寸前の女子にそんな燃料投下はできるはずもない。
さてどうしたものかと、私は唇を閉じて彼女を観察した。
確か噂によると、天乃従兄弟には違う学部に親しい女子がいたはずだ。
名前までは知らないけど、天乃従兄弟と並んでも見劣りしない非常に可愛らしい女子だと聞いた。
ひょっとしたら目の前の彼女がその人物なのだろうか。
外見はとても整っているけれど。
でも、天乃従兄弟にはなかった気の強さみたいなものが前面に出ていて、私は苦手なタイプだと感じてしまった。
あまり相手をよく知らない段階から苦手意識を持つのはよくないとわかっているけど、どうして天乃 北斗 のことで私が責められなければならないのかと苛立ちを感じたのだから仕方ない。
今日はこの後クリニックに行かなくちゃいけないのに……
そんな焦りも、私の苛立ちを育ててしまうのかもしれない。
「今ね、北斗も流星も大事な時なの。あなたみたいな女に周りをうろつかれたら迷惑なのよ」
彼女はどんどんエキサイトしていく。
いい加減、解放してくれないだろうか。
甲高い興奮声もそろそろ我慢の限界だ。
「だから………私は二人の周りをうろついたりしてませんし、これからも二人と関わることはありませんから」
「そんなこと言って、これまでもあなたみたいな女に付き纏われて大変だったんだから!だいたねえ…」
そろそろ本気で反論するか、さっさとこの場を立ち去ろうかと選択を思い浮かべていると、彼女のスマホが鳴り出した。
彼女は私への理不尽な怒りをひとまず中断し、メッセージを確認した。
そしてサッと顔色を変えたのだ。
「………と、とにかく、金輪際、北斗と流星には近づかないでよね!わかった?」
ドラマとかでしか聞いたことのない捨てセリフを吐くと、彼女はフンッ!と怒気あふれる身のこなしで慌てて去っていったのだった。
最後まで名前すら明かさないまま、まるで台風が通り過ぎるようにいなくなってしまった………
「本当に、人の話をまったく聞かない人っているんだ………」
苛立ちはあったものの、あそこまで自分の意見を一方的に喚いていく人にはじめて遭遇した私は、驚きというか呆気にとられた部分が大きかったのだ。
「まあ、とにかく、平穏な大学生活のためにも、あの三人とは関わらないように全力で回避しよう。………あ、やばい、急がなきゃ」
決意を固めた私は、まずは、クリニックの予約の時間が迫っている現実と向き合わなければならなかった。
◇
なんとか予約の時刻3分前にクリニックに着いた私は、いつものように受付で診察券と保険証を提示し、待合スペースのソファに腰を下ろした。
ここのクリニックに通いはじめてから数か月になるけれど、だいたい私は待ち時間をこの定位置で過ごしていた。
ここは、いわゆるメンタルクリニックで、私は昨年末から心療内科の医師に定期的にカウンセリングを受けているのだ。
きっかけは、弟の音弥の留学が決まったことだった。
現在高校三年生の音弥は当然音楽科のある大学を受験予定で、コンクール入賞経験もあることから、いくつかの大学からは二年生の段階ですでに声をかけてもらっていたようだ。
音弥の実力を考えればじゅうぶん納得できるけれど、それよりもはるかに大きな話が舞い込んだのが昨年の秋のことだった。
高校卒業後、留学への全面支援と、リサイタルのスポンサー、そしてゆくゆくは演奏家としての活動全般のバックアップの申し出があったのだ。
音弥の学校関係者や、結婚前は演奏家でもあった母は提示された内容に驚いたり興奮したりしていたけど、それがとんでもなく破格の待遇であることは私にもじゅうぶん理解できることだった。
でも、いつかは、そうなるだろうなとは思っていた。
音弥のピアノが普通じゃないことは、一耳瞭然だったのだから。
音弥が本気で弾けば、もしかしたら、”猫ふんじゃった” でも涙を流せるかもしれない。
小学生時分にそう感じたのだから、そこから技術も表現も磨きに磨いてきた今の音弥のピアノは、もう常人の域を飛び出してしまっているのだろう。
そんな音弥にスポンサーの名乗りがあがったとしても、何の不思議もなかったはずだった。
――――だけど。
周りの、特に志半ばで演奏家の夢を断念し父と結婚、間もなく私を生んだ母は、音弥の約束された将来に自分の夢を重ねたようで、今までに見たことがないくらいの喜びようだったのだ。
………まるで、ピアノの才能のない私は目に入っていないかのような、大興奮だった。
詳細を両親と相談するために帰省し、臨時的に自宅から通学していた音弥に対し、毎日何かしら讃えるようなセリフを聞いた。
食卓には誰かから届いた祝いのケーキや花が何度も並び、我が家はクリスマスやお正月のような浮足立った空気が連日続いていた。
私だって、弟の才能が認められて誇らしかったし、嬉しかったし、お祝いしたかった。
だけど…………
心が、知らず知らずのうちに、黙ったまま、悲鳴を上げていた。
はじめは、夜中に何度も目が覚めてしまう、その程度だった。
それが次第に寝つきも悪くなり、まともに眠れなくなって、食欲も極端に落ちていった。
食べてもないのに強烈な吐き気が襲い、体重も減少する一方で、とうとう朝起き上がるのも苦痛が伴うようになってしまったのだ。
なんとか誤魔化し誤魔化しで家族の前では元気に振舞っていたけれど、まず最初に音弥が気付き、両親に知らせた。
父も母も、青天の霹靂のような音弥の留学の話に続き、またしても青天の霹靂のような私の体調不良に、おそらくは狼狽えたのだろう。
はっきりと断言できないのは、私が当時のことをあまりよく覚えていないからだ。
のちに主治医となった医師が言うには、人間は自分の許容量を上回るショックやストレスを受けると、自己防衛的に記憶を消滅させることがあるらしい。
つまり、私は、音弥の輝かしい未来に、多大なショックとストレスを感じたということなのだ。
けれどそうとは知らない両親は、私が何か病気になってしまったのではと疑い、すぐに病院に連れていった。
私自身でさえも、何が原因でこうなってしまったのかは確信が持てなかった。
というよりも、原因を探るほどの気持ちの余裕なんてなかったのだ。
ただ、音弥の進路を祝わなくちゃいけない、お祝いムードに水を差しちゃいけない、私はお姉ちゃんなんだから、しっかりしなくちゃ………
その一心で、ふらつく足をしゃんとさせていた。
ただ、直接聞いたわけではないけれど、聡い音弥だけは私の不調の理由に心当たりがあったような様子だった。
今から思えば、留学の件が舞い込んで以降、音弥は私の在宅中はあまりピアノを弾かなくなっていたように思う。
家族の中で誰よりも人の感情の機微を察する音弥のことだから、私の異変に気付きながらも、原因である自分がどうしたらいいのかと身動きとれなかったのだろう。
だから、親に知らせるという手段をとった。
そしてその結果、私は病院で一通りの検査を受け、身体的にはどこにも問題がないことを確認したのだ。
だとすると、精神的な面からのアプローチが必要だということになり、精神科医を紹介された。
それが、ここのクリニックの院長だった。
「こんにちは、芽衣ちゃん。お待たせしました。中へどうぞ」
待合スペースに面した扉が開き、すっかり馴染みの男性医師が柔和な笑顔で私を呼んだ。
「南先生、こんにちは」
つられて私も自然と頬をゆるませ、ソファから立ち上がったのだった。
誤字をお知らせいただき、ありがとうございました。
訂正させていただきました。
いつもありがとうございます。




