第四十九話 境目|紀伊守、父の戒めを聞く
宇津山から小瀬戸へ戻ると、泰満はすぐに移転の支度を始めた。
すべてを一度に運ぶわけではない。杉山は宇津山に残し、長池親能や小原親高から城と周辺の引き継ぎを受けさせている。村越には小瀬戸を任せたまま、当分は泰満自身が二つの城を行き来することになる。
問題は、その先だった。
美代と孫太郎をいつ移すのか。家中の者をどこまで連れていくのか。
武具や帳面だけなら話は早いが、居城を移すとなれば米も馬も人も動かさなければならない。
泰満が部屋いっぱいに帳面を広げていると、表が騒がしくなった。
「若」
村越が入ってくる。
「下野守様がお見えです」
「父上が?」
泰満は顔を上げた。
時茂が自ら小瀬戸まで来ることは、それほど多くない。
「すぐお通ししろ」
◇
「随分散らかしておるな」
部屋へ入るなり、時茂は言った。
「宇津山へ移る支度をしておりますので」
「見れば分かる」
「でしたら言わなくてもよいでしょう」
「口だけは昔から変わらぬな」
泰満は笑い、時茂の前に座った。
「父上がこちらへ来られるとは珍しいですね」
「近くへ来る用があった。それだけだ」
「本当に?」
「疑うな」
時茂は置かれた帳面を一つ手に取った。
「杉山は」
「宇津山へ残しております。長池殿と小原殿から引き継ぎを受けさせています」
「村越は」
「こちらです」
「彌太郎は」
泰満は少し黙った。
「……京です」
時茂の手が止まった。
「ああ」
「父上も御存じでしょう」
「わしも金を出したからな」
「叔父上は、宇津山へ行くついでに届けろと申されました」
時茂は少しだけ笑った。
「兄上らしい」
「京が宇津山のついでになるなら、日本中どこでもついでです」
「それでも行ったのだろう」
「彌太郎ですから」
「便利な男だ」
「戻ってきたら、父上にもそう申したと伝えておきます」
「やめておけ」
◇
しばらく宇津山の様子を聞いた後、時茂の表情が少し変わった。
「泰満」
「はい」
「宇津山へ入る前に、一つ言っておくことがある」
泰満も姿勢を正した。
「三河のことですか」
「分かるか」
「宇津山なら、そうかと思いました」
時茂は頷いた。
「西三河で、松平の一つが随分と力をつけている」
「松平」
「ああ」
「安祥の者ですか」
「その一党だ」
泰満は以前にも名を聞いたことがある。
西三河には松平を名乗る家がいくつもあり、その中の一つが周囲を取り込みながら、少しずつ勢力を広げているという話だった。
「吉良とは婚姻を結んでおりますね」
「そうだ」
「ならば、吉良の下で動いているので?」
「そう単純でもない」
時茂は首を振った。
「吉良にとっても、すでに扱いやすい相手ではなくなりつつあるようだ」
「そこまで」
「まだ西三河の話だ」
時茂は念を押した。
「明日にでも東三河へ押し寄せてくる、という話ではない」
「はい」
「だが、力を持った家は、そこで止まるとは限らぬ」
泰満は黙って聞いた。
宇津山から西を見れば、浜名湖の向こうは三河である。これまでなら遠くの出来事として聞いていた話も、宇津山城主になればそうはいかない。
「宇津山へ入れば、三河から来る話も増える」
「戸田や牧野からも?」
「それもある」
時茂は答えた。
「だから先に言っておく」
◇
泰満は少し考えてから尋ねた。
「もし、牧野や戸田がその松平に攻められた場合は、どうすればよいのでしょう」
時茂はすぐには答えなかった。
「救援に向かうべきか、と聞いているのか」
「はい」
「向かうな」
答えは早かった。
泰満が少し目を見開く。
「ですが、東三河の者たちは今川方です」
「今川方ではある」
「ならば」
「家臣ではない」
時茂の言葉が遮った。
「よく覚えておけ。東三河の衆は、今川に従属している者も多い。だが、朝比奈や福島と同じではない」
「……はい」
「自分の領地を持ち、自分の家を持ち、自分で兵を集める。こちらの命に従うことはあっても、今川の家臣として抱えているわけではない」
泰満は頷いた。
「ですから、今川にも強い防衛義務はない」
「そうだ」
時茂は続けた。
「助けることはある。必要なら兵も出す。だが、それは駿府が決めることだ」
「宇津山から勝手に動いてはならない」
「ああ」
「たとえ、すぐ近くで戦になっていても?」
「なおさらだ」
泰満は少し考え込んだ。
「なぜです」
「そなたが宇津山の兵を連れて三河へ入れば、相手はどう見る」
「朝比奈が援軍に来たと」
「違う」
時茂が言った。
「今川が兵を出したと見る」
泰満は口を閉じた。
「そなた一人の判断であっても、相手には分からぬ。宇津山城主は今川の武将だ。その兵が国境を越えれば、今川が戦に加わったことになる」
「……なるほど」
「牧野を助けるつもりが、西三河との戦を始めることにもなる」
「戸田でも同じ」
「同じだ」
「では、救援を求められたら」
「まず知らせを受けろ」
「はい」
「相手が誰か、兵はいくつか、どこまで攻め込まれているかを確かめる。その上で駿府へ早馬を出せ」
「判断を仰ぐ」
「ああ」
「返事を待っている間に城が落ちそうでも?」
時茂が泰満を見る。
「その時こそ、勝手に決めるな」
厳しい言い方だった。
「境目にいると、自分が何でも決められるような気になる」
泰満は甲斐での戦を思い出した。
目の前で戦が起き、兵を動かせる立場にいれば、何かしなければならないと思ってしまう。だが、その判断が自分だけの問題で済むとは限らない。
「国と国の戦は、一つの城主が始めてよいものではない」
「はい」
「宇津山に置かれたのは、三河へ攻め込むためではない」
時茂は言った。
「何が起きているかを、誰より早く知るためでもある」
泰満はゆっくり頷いた。
「見て、知らせる」
「必要なら備える」
「ですが、越境は駿府の命を待つ」
「そういうことだ」
◇
「父上」
「何だ」
「では逆に、三河の兵がこちらへ入ってきた場合は」
「その時は追い返せ」
今度は迷いがなかった。
「宇津山領へ入ったなら、そなたの仕事だ」
「駿府の返事を待たず?」
「城を攻められてから、いちいち駿府へ聞くつもりか」
「先ほどと随分違いますね」
「違うからな」
時茂は当然のように言った。
「他人の戦へ入ることと、自分の土地を守ることを混ぜるな」
泰満は笑った。
「分かりやすい」
「最初からそう言っておる」
「父上の話は時々長いので」
「帰るぞ」
「まだ来たばかりでしょう」
◇
夕方、時茂が帰る前に、泰満は門まで見送りに出た。
「宇津山へ移ったら、また一度参ります」
「ああ」
「美代も、子が落ち着いたら連れていくつもりです」
「無理をさせるな」
「分かっています」
「本当に分かっているか」
「叔父上にも同じことを言われました」
「なら二人分聞いておけ」
時茂は馬へ乗った。
そのまま出ようとして、ふと泰満を見る。
「泰満」
「はい」
「宇津山は西を見る城だ」
「はい」
「だが、西ばかり見るな」
泰満が少し首を傾げる。
「どういう意味です」
「何かあった時、自分の後ろに駿府があることを忘れるなということだ」
それだけ言って、時茂は馬を進めた。
泰満はその背中を見送った。
宇津山から見れば、三河は近い。だが、近いからといって、目の前で起きたことに何でも手を出してよいわけではない。
見る。
聞く。
備える。
そして、動くべき時には駿府の命を受けて動く。
城を預かるというのは、兵を持ち、それを動かすことだけではない。時には兵を動かさず、待つことまで含めて預かるということなのだろう。
泰満は門を振り返った。
小瀬戸を離れる日は、もうそれほど先ではなかった。
今川クロニクル『宇津山朝比奈記』
史料・創作メモは上記参照。
関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。
本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。




