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第9話:侵食の森

 山に爽やかな初夏の風が吹き抜ける季節が、再び巡ってきた。

青々と生い茂る山々の緑が朝日に映え、沢沿いでは柔らかな風に揺れるアザミや山菜が青々とした葉を広げている。


「ばあちゃん、今日の採れたてだでね。天ぷらにして食おまい」


「まあ、綺麗で力強い山菜だなも。義春の揚げる天ぷらは衣がサクサクで美味いんだわ」


 揚げたての山菜に軽く塩を振り、苦みと爽やかな風味を噛み締めながら、二人で和やかに笑い合う。

会社を辞めてこの山奥の実家に帰ってきてから、ちょうど一年が過ぎようとしていた。

 この一年で、俺の料理の手際の良さは格段に上がり、山での生活基盤もすっかり整っていた。


 帰郷した初夏から秋口にかけては、麓の高齢化した集落で農作業の手伝いや屋根の補修、庭木の剪定といった便利屋仕事を請け負い、十分な日銭を稼ぐことができた。


 それ以外にも無人となった家屋が野生動物の巣になるのを防ぐ為の家屋の解体や放置された柿などの樹木の伐採もした。これは地域の安全確保の為の『強制執行』というやつらしい。所有者不明の場所は区画が分かるように地面にプレートを打ち込み、即解体。このシステムが確立してからは集落への動物の出現率は格段に低くなったらしい。


 何にせよ見ず知らずの人間が現れれば、田舎の人間は 警戒するものだが、麓の集落の年寄りたちは、かつて中学・高校時代にバス停から徒歩で二時間かけて山を登っていた俺のことをよく覚えており、実の孫のように可愛がってくれたのだ。


「廃材や電線で使えそうなものがあれば、持って帰ればええがね。くにさんはええ孫をもったがや」


 そうやって声を掛けてくれる皆に感謝を込めて、初雪が降る前まで出来る限りの手伝いをした。


 冬場、山が深い雪に閉ざされる季節には、前職の繋がりで譲り受けた樹脂の端材と年季物の溶接機を使い、居間にこもってコレクションケースや特注の整理棚をコツコツと制作した。春先にネットオークションに出品したそれらは、職人ならではの精密で頑強な仕上がりが評価され、想像以上の高値で飛ぶように売れた。


「義春の手先は、本当に魔法みたいだねぇ」と祖母は感心してくれたが、俺にとっては山での穏やかな暮らしと、祖母の笑顔こそが何よりの報酬だった。


◇◆


 サクサクと鍬を打ちつけ、畑を耕しながら、俺はふと遠い昔の記憶に思いを馳せる。

 俺が幼い頃、父親は理由も告げず突然姿を消した。事件とも事故とも判然としない、まさに青天の霹靂のような出来事だった。俺が当時八歳の時のことだ。

 母親の両親はすでに他界しており、母親の兄である俺の叔父は遠く東京で生活していた。

そんな身寄りを失った母子が身を寄せたのが、この山奥に暮らす父の母――『最上田くに』のもとだった。

 祖母は俺たちを温かく歓迎してくれた。都会育ちの母親のことも実の娘のように可愛がり、山奥の不便な暮らしの中でも、二人がいつも楽しそうに笑い合っていたのを俺は鮮明に覚えている。


 だが、悲劇は重なった。俺が十二歳の時、母が病気でこの世を去ったのだ。

それ以来、この広い山で、俺と祖母の二人だけの生活が始まった。

中学、そして高校へと通う俺を祖母は毎朝、古い軽トラのハンドルを握り、狭く険しい私道を下って麓のバス停まで送ってくれた。

 当時はまだ携帯電話も通じず、固定電話すら引き込まれていないポツンと一軒家だ。学校が終わった帰り道、バス停から家までの過酷な山道を、十二歳の俺は二時間かけて一人で歩いて登った。


(あの頃は、本当にきつかったなぁ……。発電所に土地を貸し始めていたから、電話線は頼めば引けたはずなんだけどなぁ)


 汗を拭い、照りつける初夏の日差しを見上げる。父と帰省するのではなく、ここに住むことになった初夏の爽やかな風、夏の盛りの青空、秋の紅葉が山を赤く染める静寂、そして冬の凍てつく白銀の世界――。

 少年から青年になるまで、雨の日も風の日も黙々と歩いた過酷な登り坂が、いつしか俺に自然の美しさと力強さを教えてくれたのだ。

 通学の行きがけの軽トラの中で、膝を寄せ合いながら祖母と交わした何気ない雑談の温もり。それが、俺の人生の最も尊い根っこになっていた。


 突然消えた父親に対しては、事件なのか、事故なのか、あるいは自ら捨てたのかすら判らないため、憎しみも怒りも、愛情すらも湧いてはこない。ただただ、自分を命懸けで育て上げてくれた母親への深い感謝と、今こうして目の前にいてくれる祖母への愛おしさだけが胸を満たしていた。


◇◆


 去年、実家に戻ってすぐに開墾した畑では、ニンジンやダイコンが豊かに実った。小松菜や白菜も収穫でき、秋から冬にかけての美味しい鍋の具材となった。

秋には、八月に種から育てたソバの実を二人で収穫し、石臼で注意深く挽いて手打ちの「自家製そば」を作った。ソバの実が実るのが先か、初霜が降りるのが先かと気を揉んだのも良い思い出だ。


「うん! コシがあって、風味も最高だわ。ばあちゃん、これは店に出せるレベルだでね!」


「ははは、義春が打ち粉で顔を真っ白にして作ってくれたで、余計に美味いんだわ」


 囲炉裏を挟んで笑い合う二人。

夜になると、吸い込まれそうな満天の星空が山奥の夜空を覆い尽くす。

街の灯りが一切届かないこの山の中腹では、天の川がまるで白銀の帯のように鮮やかに夜空を流れていた。縁側に並んで座り、温かいお茶を啜りながら星を見上げる時間が、俺と祖母の何よりの楽しみだった。

 だがあまりにも平和で色鮮やかな四季の移ろいの裏で、抗えない現実が静かに二人に忍び寄っていた。

祖母くにの体力が、この一年で確実に削り取られていたのだ。

 畑に立つ時間は日に日に短くなり、居間で長座布団に横になる時間が増えていく。顔色は青白くなり、手足のむくみも目立つようになっていた。


(ばあちゃん……)


 星空を見上げる祖母の小さく痩せた横顔を見つめながら、俺の胸はキュッと締め付けられる。

 医師が飲み込んだ『老衰』という言葉。

遠からず訪れるであろう「祖母を失う日」の恐怖に、俺の心は暗い深淵へと引きずり込まれそうになる。この温かい時間が終わってしまうのが、たまらなく怖かった。


 そして、くに自身もまた、その身体の変調を誰より静かに悟っていた。


(神様、どうか……私が逝った後も、この優しい子が一人で寂しくないようにしておくれ……)


 一人残される孫の将来を案じ、くには心の中で静かに祈り続けていた。

お互い、相手を不安にさせまいとその話題には一切触れなかったが、二人を包む穏やかな空気の奥底には、切なくも温かい絆と、密かな恐れが常に漂っていた。


◇◆ 


 歳月は一年が巡り、再び青葉が目に眩しい初夏へと入っていた。その日は夕暮れが特段に綺麗だった。

標高三百メートルほどにある最上田家の敷地を山肌沿いに涼しい風が吹き抜ける深夜、心地よかったひんやりとした空気がすっと消え去った。

ぬるっとした暑気とも湿気ともつかない異様な空気が、肌にまとわりつくように満ちてくる。まるで大気の密度そのものが変わったかのような重苦しさに、俺は何度も寝返りを打った。あまりの寝苦しさに一度目を覚ましたが、初夏の畑仕事の疲れに抗えず、再び深い眠りへと沈んでいった。 


 翌朝、いつも通りスマホのアラームで目を覚ます。時刻は午前五時三十分。

カーテンを開けて朝日を取り込むと、襖を開けて囲炉裏部屋へ出る。

 実家に戻った当初は高校生まで使っていた二階の部屋を自室として使っていたが、最近は祖母の体調が心配で、祖母の寝室と居間を挟んだ反対の部屋を自室として使っている。

 囲炉裏部屋は昼間でも光が届かず薄暗いため、俺が戻って数ヶ月の間に人感センサーライトと、非常点灯用のLED電球を設置してあった。

だが、襖を開けて足を踏み入れても、センサーライトが反応しない。その代わりに停電時に内蔵のバッテリーで点灯するLED電球が、非常灯として青白く灯っていた。


(停電か……?)


 俺は首を傾げ、手に持ったスマホを確認した。山奥ゆえの「圏外」表示には驚かないが、画面上部にあるはずのWi-Fiアンテナマークが消えている。

これは停電の線が濃厚だと思う。

 まずは足音を殺して祖母の寝室の様子を見に行く。最近はこの朝の寝息の確認が日課となっている。規則正しく静かな寝息を立てていることを確認し、ホッと胸を撫で下ろした。


(停電の原因は何だろう? ブレーカーが落ちたか、外の電線か……)


 とりあえず風力、水力、ソーラーで蓄電した予備電源に切り替えるべく、制御装置を設置してある土間へと向かう。

 スマホのライト機能だけで電源配線や切替スイッチの確認を行おうとしたが、漆黒の土間では思いのほか作業がやりづらい。


(懐中電灯かランタンを持ってくるべきだったか。……いや、今日はいつも以上に外が明るい。引き戸を開けて朝日を取り込めば何とかなりそうだな)


そう思い立ち、土間の南側にある引き戸の鍵へ手を伸ばす。去年の秋にDIYで取り付けたアルミ製の引き戸は、鍵を開けるとスムーズに動いた。その途端光の帯が土間へと伸びてくる。


「よし、光量は十分だな」


 そう呟き、作業に戻ろうとした――その瞬間だった。

 開け放たれた引き戸の向こうから、肌にまとわりつくような異質な空気が流れ込んできた。

その違和感に俺は動きを止め、何気なく外の景色へと目を向けた。


――ドクン!!


 心臓を直接掴まれたような激しい衝撃。全身の血管が逆流したかのように脈動する。無意識に体が後退り、土壁に立てかけてあった重い金属製の金剛杖を倒してしまった。


ガシャーンッ――!!


 静寂を破って金属杖がけたたましい音を立てる。

だが俺の思考は膠着しており状況が飲み込めていない。その耳を刺すような轟音の意味すらよく分からない。自家発電の切り替え作業のことなど、遥か彼方へ吹き飛んでいた。


「義春……っ!? なんだね、今の音は……!? 怪我はないかね!?」


 音に驚いた祖母が、薄手の上着を羽織って寝室から顔を出し、心配そうに俺を見つめている。

その声を聞いて、ようやく俺のフリーズしていた思考がズルズルと動き出した。


「あ、あぁ……大丈夫だて。怪我はしとらんで。驚かせてごめん。ただ……」


俺はかすれた声で、外を指さした。


「なんか……外が、どえらいことになっとるんだわ」


「どえらいこと……?」


 訝しがる祖母の細い手を取り、土間に降りるのを手伝う。式台に腰掛け、サンダルに足を入れる間も、俺の視線は固まったまま外へと向けられていた。

 土間に転がった重い金剛杖を拾い上げ、ほぼ無意識のうちに弁慶のように棒を突き立てて婆ちゃんを警護するかのように前に立つ。


 俺の全身から発っせられるただならぬ気配に呑まれながらも、くには引き戸の先へとゆっくり足を向けた。


「なんだね……これ……は……」


 祖母の口から、掠れた声が漏れる。俺と同じように、その思考が完全に停止していた。

 二人の目の前に広がっていたのは、見慣れたはずの故郷の山々だった。形は確かに見慣れた山のものだ。だが、昨日の夕方までそこに生えていた杉やヒノキの美林は、どこにも見当たらない。初夏であっても、いつもと変わらぬ落ち着いた深い緑色に溢れているはずの山森は、紫やピンク、オレンジに黒といった現代アート画のような色使いに変貌を遂げている。


 その変化は義春たちのすぐ近くでも起きていた。家の南側の斜面を降りてすぐにある、最上田家の所有林であり、つい昨日まで緑豊かな雑木林が広がっていた斜面には――不気味で毒々しい色を放つ多種多様な木々が夜の間に根を張ったのか、そこに何百年と存在したような異様なまでの存在感を放ち生い茂っていたのだ。


 幹は赤紫色の澱んだ瘤(こぶ)に覆われ、枝から垂れ下がる葉は不気味な蛍光の青白い光を微かに帯びている。昨日まで聞き慣れていた野鳥の鳴き声は一切せず、聞こえてくるのは、樹皮の奥から漏れるような低い湿った羽音と、聞いたこともない異質な鳴き声だけだった。

 義春は昔図鑑で見た太古の原生林にイメージを重ねていた。


「……森が、変わってまったの……か?」


 掠れた声で呟く俺の背筋を、じっとりと冷たい汗が這い上がる。

 この奇妙な原生林のような森林が――昨夜のうち湧き出たというのか。

幸い手塩にかけて育てていた畑はぶじだったが、そのすぐ奥には色合いを全く変えた最上田家の雑木林が見えている。

今まではイノシシやシカといった大型の野生動物を見ることは無かったが、これからもそうだと無条件には思えない、そんな雰囲気が雑木林を満たしていた。


 祖母の細い手が、金剛杖を持つ袖をぎゅっと掴んだ。応えるように俺は左手で祖母の手に触れた。

 静まり返った山奥の朝に、未知の恐怖がひっそりと、しかし確実に牙を剥こうとしていた。 


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