第10話:生存の基本
開け放たれた土間の南向きの扉から見える「ふたつの太陽」と、見たこともない色彩に変貌した「侵食の森」を前に、俺とばあちゃんは言葉を失ったまま呆然と立ち尽くしていた。
この非現実すぎる光景に理解が追いつかない。――だが、さすがは長年この斜陽の国で過酷な時代を生き抜いてきた人生の先輩というべきか、先に我に返ったのはばあちゃんの方だった。
「……まずは、水の確認だて。水道から水は出るんかね?」
「えっ……? ばあちゃん、こんな時に水の確認なんて必要かね!?」
「こんな時もあんな時も関係ないがね。いつでも人間には水が必要なんだで。水がなければ生きていけんがね」
言うが早いか、ばあちゃんはアルミ製の土間扉をガチャンと力強く引き戻し、ガチャリと鍵を掛けた。外の常識外れな光景を、物理的にシャットアウトするように。
「あれもこれもと気を取られとると、結局何一つちゃんとできんのだて。……義春、水質検査の紙はまだあるかね?」
扉を閉められたことに戸惑う俺に、ばあちゃんは背筋をピンと伸ばし、落ち着き払った声で問いかけてくる。
「ま、まだ買ったばかりだで、ようさんあるよ」
「そんならよしだて」
ばあちゃんは足早に台所へ回ると、山からの湧き水を直接引き込んである水道の蛇口を捻った。
ジャーッと勢いよく噴き出す水を透明なガラス瓶に受けながら、水流の勢い、にごりや気泡の有無、そして異臭がしないかを職人のような鋭い眼差しで丁寧に確かめていく。
「とりあえず、見た目と匂いは大丈夫そうだなも」
そう呟くと、ばあちゃんは湯船と家中にあるバケツや鍋に水を溜めておくよう俺に指示を出し、「わしは着替えてくるでね」と言い残して寝室へと戻っていった。
(朝から、あんなにシャキシャキ動くばあちゃんは久しぶりに見たな。無理のし過ぎで倒れなきゃいいけど、……身体のほうは大丈夫だろうか)
世界が音を立てて狂いはじめたというのに、俺の頭の中はばあちゃんの体調のことばかりが気にかかっていた。
「裏の貯水槽、出来れば取水槽も見に行かんとね。あんたもダニ避けの網々のズボン、履いときゃあよ。あと水質検査の紙も持ってこやぁ」
屋外用の強力な蚊取り線香を二セット取り出し、ネット通販で買ったメッシュパンツをズボンの上に重ねて履いたばあちゃんが、頼もしい足取りで部屋から戻ってきた。
その迷いない動きに気圧され、俺も急いでトレッキングパンツを履き、その上からメッシュパンツを装着する。小型ポーチに水質検査キットを詰め込み、肩から斜め掛けにした。
「ほんなら、行くかね」
ばあちゃんが土間の北側――山肌に面した勝手口の鍵へ手を伸ばす。俺は慌ててそれを制した。
「外には何がおるか分からんで、俺が扉を開けて先に出るわ!」
腰に蚊取り線香をぶら下げ、カンカンと乾いた音を響かせながら、俺は右手にずっしりと重い金属製の金剛杖を握りしめ、左手でアルミ製の引き戸を滑らせた。去年の秋にDIYで取り付けたサッシは、スムーズに静かに開く。
引き戸のわずかな隙間から、いつでも金剛杖を突き出せる姿勢で外の気配を探る。ひんやりとした山の空気が流れ込んくるが、幸いにも間近に怪しい生き物の気配は感じられない。
「……よし、安全そうだ。行くでね」
「気をつけやぁよ」
腰に蚊取り線香をぶら下げ、右手にトレッキングポール、左手に赤マジックで『熊撃退』と手書きされたスプレー缶を固く握りしめたばあちゃんが、俺の背後につづく。
我が家の貯水槽は、母屋から北側に十メートルほど離れた山肌に設置されている。
その先、全標高五百メートルほどの山の中腹、標高三百メートル前後の場所に位置する我が家から、さらにさメートルほどなだらか斜面を進んだ岩肌から冷たい水が湧き出ており、それが沢となって集まる場所に手作りの取水槽がある。そこで一度濾過された水が塩ビ管を通って貯水槽へ送られ、そこでもう一度濾過されたものが家へと引き込まれているのだ。
余った水は、作物の散水用タンクへ回る仕組みになっている。失踪した親父が手作りしたこのシステムについて話す時の祖母の顔は、いつも何処か誇らしげであった。
その貯水槽の無事を確認しに向かった二人だったが、土間を出てわずか数歩進んだところで、完全に足が止まってしまった。
我が家の背後にそびえる標高五百メートルの山頂へと続く見慣れたはずの里山――その稜線の景色が、一変していたからだ。
日本の地形によく見られる、アップダウンを繰り返しながら山頂へと至るなだらかな峰の形自体には変化はない。だが、麓から山頂に至るまでの斜面を埋め尽くす木々は、昨夜のうちに姿を変えたのか、最上田家の雑木林と同じく、紫や蛍光の青緑といった原色をひっくり返したような毒々しい色合いの原生林へと変貌を遂げていた。
そして、何より目を奪われたのは、その山頂にそびえ立つ『一本の巨木』だった。
「……あれは、一体……」
我が家のある標高三百メートルから山頂までの標高差は二百メートルほどのはずだ。だが、山頂にそびえるその木は、その高低差をあざ笑うかのように、樹高だけで優に三百メートルはあるように見えた。
幹の直径にいたっては二十メートルから三十メートルはあるだろうか。今までの地球上には決して存在し得ないほどの太い幹が、天を突くようにそびえ立っている。
周囲の毒々しい原生林の木々とは異なり、その巨木だけは黄金に輝くような黄緑の葉に覆われ、ここだけが別世界のように清浄な空気を醸し出しているように感じられた。
圧倒的な大きさと、底知れぬ威厳を纏うその存在感に、俺とばあちゃんはしばらく言葉を失い、ただ立ち尽くすしかほかなかった。
「……こりゃあまた、とてつもないものが生えてまったなも」
「うん……あんな木、見たことないよ……」
非現実すぎる光景に気圧されかけていたが、ここでも先に現実の足取りを取り戻したのは、ばあちゃんだった。
「何にせよ、まずは貯水槽を見に行こまいか」
「そ、……そうだね。とりあえず水の確認だわ」
皮肉なことに、この現実離れした巨木の姿を目にしたことで、「ここが今までの穏やかな、里山ではない」という冷酷な現実を、俺は嫌というほど思い知らされたのだった。
金剛杖を構えて周囲を警戒しながら斜面を登り、間もなく貯水槽へと辿り着く。
「こりゃあ、いつもの水より勢いがあるねぇ。えらい透明度だし……水温も冷たぁて、ええわ」
貯水槽の蓋を開け、塩ビ管から勢いよく湧き出す水を見てば俺は安堵の息を漏らす。
「ほうだな。問題は、飲めるかどうかだわ。水質検査、やってちょう」
「わかった」
俺はポーチからプラスチック製の試験管や検査紙を取り出した。手先は迷いなく、職人として培った手慣れた動きでテキパキと作業を進める。
この検査キットは、鉛や水銀、農薬成分など十八種類の有害物質を簡易検出できる優れものだ。行政のインフラが途絶えたこの時代、医療機関もろくにない地方において、ばあちゃんの健康と命を守るために俺がネット通販で買い揃えておいたものだった。
薬品の反応とカラーチャートを慎重に照らし合わせ、俺は息を呑んだ。
「……重金属も化学物質も反応なし。酸性度も問題ない。数値の上では完璧だわ」
「そうか。とりあえず水質は大丈夫そうだで……最後はワシが飲んで確かめてみようかね」
そう言って、貯水槽の傍らに置かれたステンレス製のコップに手を伸ばそうとするばあちゃんに、俺は思わず大きな声をあげた。
「何バカなこと言っとるの! それで体調崩したらどうするのぅ! 試すなら俺だて!」
「それこそ、あんたが体調崩してまったら、誰がワシの面倒見るのぉ」
「……むうっ!」
正論で返され、ぐうの音も出ない。だが、ばあちゃんに毒味をさせるわけにはいかない。俺が必死に知恵を巡らせていると――ハッと、ある生き物の存在を思い出した。
「そうだ!! 岩魚がおるがね!」
「ああ……小木曽んところの……」
ばあちゃんも膝を打つ。
数日前、麓の集落の用水路清掃を手伝った際、俺を孫のように可愛がってくれる小木曽の爺様から、釣ったばかりの立派な岩魚を五匹分けてもらったのだ。すぐには食べきれず、そのうちの三匹を、母屋から少し離れた沢沿いの生け簀に放して管理していたのだった。
「今日あたり食べようと思って、昨日様子を見に行ったら元気に泳いどったんだわ。確認してみよまい!」
俺たちは急いで、沢沿いの生け簀へと向かった。
獣除けの頑丈な鉄格子が嵌められた小さな生け簀を覗き込むと――冷たい沢の水の中を、三匹の岩魚が何事もなかったかのように元気にヒレを動かして泳ぎ回っていた。
「……ピンピンしとるね」
「ほうだな。水に即効性のある劇薬や毒素はなさそうだわ」
もちろん、これで未知の原生林から流れ込む未知の成分まで完全に安全と担保されたわけではない。だが、水質検査の数値的なクリアと、水中で生き続ける川魚の生存、そしてこれから行う徹底した煮沸消毒を組み合わせれば、命を繋ぐライフラインとして当面は使用可能だと、俺たちは確信したのだった。




