第34話 剣姫が眠る夜
深い呼吸音が満ちる石室の入り口で、俺は次のローテーションの時間を告げた。
「セレナ。第一陣の休息は安定しています。次はあなたの番です、奥の防音幕の中へ」
「……いいえ、私は起きているわ。まだ休めない」
セレナは白銀の剣を握りしめたまま、頑なに首を横に振った。
彼女の視線は、ボルドのタワーシールドの向こう側、漆黒の闇に包まれた通路へ向けられている。
「東と西、二つの方向から複数の気配が接近しているわ。動きが統率されている……間違いなく夜行種の群れよ。この状況で前衛の要である私が抜けたら、防衛線が持たないかもしれない」
彼女の言葉には、確かな戦術的懸念が含まれていた。だが、それ以上に彼女の瞳の奥にあったのは、「止まることへの恐怖」と「休むことへの罪悪感」だった。
起き続けて戦果を出すことでのみ、己の価値を証明してきた『眠らずの剣姫』。その強迫観念が、極限状況下で再び彼女を縛り付けようとしている。
「セレナ。前衛の力が必要なのは今じゃありません。この先、この負傷者たちを抱えて撤退戦を行う時の、あなたの『明晰な判断力』です」
俺が静かにそう告げると、タワーシールドを構えていたボルドが振り返らずに同調した。
「レンの言う通りだ、お嬢ちゃん。ただ盾を立てて時間を稼ぐだけなら、俺と重装組で回せる。だが、どこに逃げるか、誰を見捨てるか……そういう冷酷で正確な判断は、寝不足の濁った頭じゃ絶対に下せねえ。頭の回る指揮官がいなけりゃ、俺たちは全員ここで全滅だぞ」
実利に基づくボルドの言葉に、セレナはハッと息を呑んだ。
彼女は自分の手元、微かに震え始めている剣の柄を見つめ、やがて小さく息を吐き出した。
「……分かったわ。私が指揮を執る。だから、あなたたちに条件を預けるわ」
「条件、ですか」
「ええ」
セレナは俺の目を真っ直ぐに見据えた。
ただ受動的に守られて眠るのではない。彼女は現場指揮官として、己の意思で状況をコントロールするための線を引いたのだ。
「私が休むのは三時間。もしその間に、東の護衛線が岩柱のラインまで押し込まれたら、その時は即座に私を起こしなさい。それが撤退のデッドラインよ。逆に言えば、その条件を満たさない限り、何があっても私を起こさないで頂戴」
「了解しました。岩柱のラインまでは、俺たちが必ず死守します」
俺が力強く頷くと、セレナはようやく張り詰めていた肩の力を抜き、俺が構築した《安息陣》の中心――防音幕と振動遮断床布が敷かれた空間へと足を踏み入れた。
* * *
セレナが眠りについてから一時間後。
彼女の予測通り、暗闇の通路から夜行種――黒い体毛に覆われたシャドウハウンドの群れが姿を現した。
「来たぞ! 東側からだ!」
ダリオが短剣を構えて叫ぶ。
ボルドの盾が魔獣の突進を弾き返し、俺とダリオがその隙を突いて的確に急所を突く。
東からの波状攻撃は予想以上に激しく、数の暴力に押され、俺たちの防衛線はじりじりと後退を余儀なくされていた。
「くそっ、キリがねえ! ボルドのおっさん、もうすぐセレナの言ってた『岩柱のライン』まで押し込まれるぞ!」
「堪えろダリオ! まだ岩柱までは半歩ある! あの嬢ちゃんとの約束だ、ラインを越えるまでは絶対に起こすな!」
ボルドが歯を食いしばり、盾に魔力を込めて魔獣の群れを強引に押し返す。
俺も定着した足運びを駆使し、魔獣のヘイトをコントロールしながら迎撃を続けた。
休んでいる人間を守るための戦い。それは、ただ自分の生存のために戦うのとは次元の違う重圧だ。だが、背後にある防音幕の中で、セレナが今この瞬間も脳の疲労を洗い流し、最高の判断力を取り戻しつつあると信じているからこそ、俺たちはギリギリの防衛線を踏みとどまることができた。
――そして、三時間が経過した。
防音幕がめくられ、セレナが静かに姿を現した。
「状況は?」
たった一言。声の張りと視線の動きを見れば、セレナが少なくとも指揮へ戻れる状態だと分かった。疲労は顔に残っているが、俺の報告を聞き分け、自分で優先順位を選べる。
「東からの攻撃が激しいです! 数は二十以上、散発的ですが絶え間なく押し寄せてきています!」
俺が剣を振るいながら不完全な戦況を短く報告する。
セレナは俺の報告を聞き、石室の入り口の状況を一瞥すると、即座に鋭い声を上げた。
「東は囮よ! 本命は手薄な西の通気路から来るわ!」
「なっ……西だと!?」
ダリオが驚いて西側の壁を見る。そこには、崩れかけた古い通気口の穴があった。
直後、セレナの言葉を証明するように、その通気口の暗がりから、先ほどの群れよりも一回り巨大なシャドウハウンドの個体が数匹、音もなく飛び出してきた。
「ダグ! 西の通気口へ牽制の投擲を! ボルドは盾の角度を斜め四十五度に変更!」
セレナの明晰な頭脳が、瞬時に戦場を支配した。
セレナは敵の習性、石室の構造、味方の疲労度を二つの質問で確認し、迷いのない指示を飛ばす。
「レン、ダリオ! 東の敵を殲滅しようとしないで。私たちがやるべきは『勝ちに行く』ことじゃない、後ろの負傷者を全員通すための『退路の確保』よ!」
彼女は新しい剣技で無双するわけではない。あくまで現場指揮官として、被害を最小限に抑え、生存させるための最適解を導き出したのだ。
セレナの的確な誘導により、俺たちは東の敵を押し返すのではなく「いなす」動きに切り替えた。生まれた隙間から、休息を終えて体力を取り戻した第一陣の冒険者たちや負傷者を、次々と安全な奥の通路へと逃がしていく。
「全員通ったわ! ボルド、盾を引いて!」
最後尾でセレナが魔獣の追撃を白銀の軌跡で断ち切り、俺たちは無事に石室を放棄して奥の通路へと撤退することに成功した。
「……見事な指揮でした」
安全圏まで後退し、荒い息をつく俺に、セレナは剣を納めてふっと微笑んだ。
「あなたが約束通り、私の休息の質を守り抜いてくれたからよ」
彼女はそう言うと、俺の肩を軽く叩いた。
「さあ、第一陣のローテーションは成功よ。次はあなたの番――」
セレナが俺へ休息枠を返そうとした、その時だった。
俺たちが逃げ込んだ先の広い空間。そこには、絶望的な光景が広がっていた。
「……嘘、だろ」
ダリオが呆然と呟く。
広間には、別のエリアから逃げ延びてきたと思われる冒険者たちが、床にへたり込み、あるいは壁に寄りかかって身を寄せていた。その数は、ざっと四十人近い。
誰もが極度の恐怖で目を血走らせ、一睡もできずに限界を迎えている。武器を握る手は震え、小さな物音にすら過剰に反応して怯えていた。
「これだけの人数……。さっきの石室のやり方じゃ、全員をカバーしきれないわ」
セレナの言う通りだ。
数人の交代で見張るような規模を遥かに超えている。
個人の休息から、集団の休息へ。眠れない迷宮は、俺たちに次なる巨大な実務課題を突きつけていた。




