第17話 悪い癖まで身についた
大断層渓谷での比較遠征、六日目の夕刻。
西日に照らされた岩場を歩きながら、俺の頭の中には前日の廃坑で知った『容量上限』の四文字がこびりついていた。
(一晩で持ち越せる経験には限界がある。なら、その限られた枠に、いかに実戦で役立つ質の高い素材を詰め込むかが勝負だ)
毎日九十分の睡眠で常人の倍近いペースで踏破距離を稼ぎ続けるレグルス班。彼らとの圧倒的なスコア差を前に、俺の心には自覚している以上の焦りが生まれていたらしい。
岩陰から、二本の尾を持つ狐型の魔獣――ツインテール・フォックスが三匹飛び出してきた時のことだった。
「レン、右から回り込んでくるわ! 動きが変則的よ!」
セレナの警告が飛ぶ。
確かに、この魔獣のステップは独特だった。一度右へ大きく跳んだかと思えば、空中で二本の尾をバランサーにして急制動をかけ、左斜め前へと鋭く切り込んでくる。
だが、ここで時間をかけて観察している余裕はない。今日の空き容量を無駄にせず、明日の朝までにこの変則的な動きへの対処法を定着させる必要がある。俺は急ぐあまり、十分に敵の動きを観察し切る前に、自ら間合いを詰めて強引に剣を振った。
――ガツッ!
剣が浅く入り、魔獣の毛皮をかすめる。
敵の切り返しに反応しきれず、俺は大きく体勢を崩して右足の軸を無様に滑らせた。咄嗟に力任せで踏みとどまり、強引に腕の力だけで剣を振り回して二匹を叩き斬る。残る一匹はセレナが的確に処理した。
「ふぅ……」
なんとか倒しきったものの、息が上がり、右の足首には嫌な疲労感が残った。
「レン。今の動き、軸がバラバラだったわよ。それに敵の予備動作に釣られて、重心が完全に浮いていたわ」
剣の血を払いながら、セレナが鋭い視線を向けてくる。
彼女の言う通りだ。だが、俺は自分のスキルを過信していた。
「大丈夫です。今は不格好でも、一晩寝れば《休養》がこの経験を整理して、明日は最適なタイミングで身体が動くようになりますから。とりあえず、奴らの変則ステップの素材は取れました」
「……本当にそうかしら。あなたのそのスキルは、そこまで都合のいい魔法なの?」
セレナは納得のいかない顔で俺の足元を見ていたが、撤収時刻が迫っていたこともあり、俺たちはそのままベースキャンプへと帰還した。
夕食を済ませ、予定通り午後十時にベッドに入る。
目を閉じると、脳裏には夕方の狐魔獣のトリッキーな動きと、それに合わせて自分が踏んだステップの感覚が蘇ってきた。俺はそれを強く意識しながら、深い眠りへと落ちていった。
* * *
翌朝、七日目の午前七時。
目覚めと同時に、視界の隅に淡い文字が浮かび上がった。
《未定着経験:双尾狐の変則ステップへの迎撃動作――定着完了》
ベッドから降りて軽く身体を動かす。筋肉の重さは引いていたが、右足首には昨日の無茶を知らせる鈍い違和感が残っていた。
朝食を済ませ、探索へ出発する。
午前中のルートは、昨日と同じ魔獣が生息する岩場地帯だ。予想通り、一時間も歩かないうちに五匹のツインテール・フォックスの群れと遭遇した。
「レン、来るわよ」
「ええ。任せてください」
俺は自信を持って前に出た。
先頭の一匹が地を蹴り、右へ大きく跳ぶ。そして空中で尾を使い、左斜め前へ急旋回する。昨日見たのと同じ変則的な軌道だ。
俺の身体は、定着した経験の通りに『最適化された』迎撃のステップを踏み出した。
――はずだった。
ズサァッ!
「なっ……!?」
俺の右足は、昨日と全く同じ位置で、昨日と全く同じようにズルリと滑った。
いや、昨日よりもさらに致命的だった。昨日は迷いながら動いたため速度が遅く、強引に体勢を立て直せた。だが今は、迷いがなくなった分だけ滑る速度が劇的に上がり、完全にバランスを崩して前のめりに倒れ込んでしまったのだ。
目の前に、魔獣の鋭い爪が迫る。
躱せない。俺の意識は無駄に冴え渡っているのに、身体が昨日入力した「間違った動き」を忠実に、かつ極めて滑らかに実行してしまっている。
「そこよ!」
白銀の閃光が、俺の頭上を越えて魔獣の首を刎ね飛ばした。
間一髪。俺が倒れ込んだ死角をカバーするように飛び込んできたセレナが、残りの魔獣も流れるような連撃で次々と斬り伏せていく。
「……助かりました」
泥だらけになって起き上がる俺に、セレナは呆れたような、だがどこか確信めいた視線を向けて剣を納めた。
「やっぱりね」
「どういうことですか。俺の身体は、完全に昨日の経験を定着させていたはずなのに……」
「定着はしていたわ。昨日よりもずっと素早く、迷いなくね。問題なのは、定着したのが『昨日あなたが焦って踏んだ、軸のブレた間違ったステップ』そのものだったってことよ」
セレナの言葉に、俺はハッとして自分の右足を見た。
滑らかに間違えた。昨日、俺は敵の動きをきちんと観察し切る前に、強引に腕力で魔獣を斬った。その時の不格好な「失敗の動作」を、俺の《休養》はそのまま純度の高い技術として身体に固定してしまったのだ。
「あなたのスキルは、都合よく『正しい答え』を天から降らせてくれる正解製造機じゃない。あなたが昼間に身体へ入力した経験の素材を、良くも悪くもそのまま定着させるだけなのよ。質の悪い反復をすれば、質の悪い悪癖がそのまま身につく。そうでしょう?」
背筋に冷たい汗が流れた。
寝れば自動的に最適化されて強くなる。そんな甘い幻想を抱いていた。
もしセレナのカバーがなければ、俺は自分が定着させた『滑らかで素早い失敗』のせいで、今頃首を搔き切られていたはずだ。
「……俺の、完全な過信でした」
俺は素直に非を認め、セレナに向かって深く頭を下げた。
これまでは俺が彼女の休息環境を作り、彼女のパフォーマンスを引き出してきた。だが今回は、俺の致命的な勘違いを彼女が見抜き、命を救ってくれた。
「分かればいいのよ。焦って数をこなしても、間違った癖がつくなら寝ない方がマシよ。寝る前に、何を身体に覚えさせるかが一番大事なの」
セレナはそう言うと、足元のぬかるみをブーツで均し、木剣を抜いた。
「さあ、今の悪癖を上書きするわよ。もう一度、正しい間合いと軸の取り方を一から身体に叩き込みなさい。完璧な動きができるようになるまで、私が何度でも付き合ってあげるから」
「……午後十時には、寝かせてくれますよね?」
「あなたの出来次第ね」
剣姫の厳しい指導の下、俺は昨日定着させてしまった悪癖を抜くための、さらに泥臭い反復訓練を余儀なくされた。
寝れば無条件に強くなるわけではない。《休養》は、間違った素材まで丁寧に残してしまう。その制約を、俺は右足の痛みと一緒に覚えた。




