晋楚の信義
官衙に引きこもるようになった蔿艾猟は、翌日から朝廷に出仕しなくなった。
蔿艾猟は山のように積まれた書簡と向き合っている。過去の楚、現在の楚の内政と外征、外交の記録を余さず頭に叩き込んだ。
自領にいる時も蔿艾猟は、楚の情勢について知ることを怠ってはいなかった。しかし楚の一邑にいるのと、令尹の地位にあるのとでは知れる範囲がまるで違う。
そして、知れば知るほどに分からなくもなる。
先だっての朝廷では伍参の前で偉そうなことを言ったが、楚にとって鄭という国を無視出来ないことは事実である。
――間違っているのは私なのかもしれない。
かつての名宰相、子文の偉業に触発されて蔿艾猟は官衙で文字と格闘する日々を過ごした。しかし時が経つほどに、令尹という地位がその双肩に重く伸し掛かってきたのである。
今は、かつて王都に来た時とは別の理由で、
――令尹など辞めてしまいたい。
と考えるようになっていた。
三日を越えると、文字を追う目が血走るようになってきた。食事も睡眠もほとんど取らず、周囲にうず高く積まれた書簡は蔿艾猟を囚える牢獄のようである。
闘生が気遣って様子を見に来たが、蔿艾猟は会おうともしなかった。寸刻さえ惜しいと思っていた。
令尹となった蔿艾猟には部下も与えられたが、彼らにも蔿艾猟は、
「人が来ても取りつぐな」
と命じていた。しかし官衙に籠る生活が五日を過ぎた日に部下から、
「王の遣いの方が参られました」
と言われたのである。部下たちは立場上、それを告げないわけにはいかなかった。
「……仕方ない。お通ししろ」
官衙の一室にて待っていると、二人の廷臣が入ってきた。一人は申叔時、もう一人は伍参である。
蔿艾猟は露骨に眉をひそめた。
――楚王はやはり人が悪い。
申叔時はともかく、伍参までいるとは思っていなかった。二人が意見を戦わせている様は朝廷で見ているのにわざわざ遣いに選んだのは楚王の悪戯心だろう。
「私のような若輩一人に申氏、伍氏というお二方を遣わせられるとはいささか大仰ですな」
「出仕なされぬ令尹どのを見舞うのであれば、これでも足りぬくらいでしょう」
申叔時は朗らかに笑って返した。
「私は不器用な性格ですので。いきなり連れてこられ令尹に任官されたので、まだ楚国のことを何も知らぬのです。楚の現状を知り、何を為すべきかを考えるためにもう数日の猶予を賜りたいと王にお伝えいただきたい」
「それはなんとも、悠長なお言葉ですな」
伍参が舌鋒を鋭くして口を挟んできた。
「我が国が採るべき道は、鄭を攻めて楚の領土とし、南下してくる晋を打ち破るのみです」
伍参はこの場で先日の朝議の続きをやろうとしていた。蔿艾猟を説き伏せてしまおうという腹づもりでやってきたらしい。
「確かに、それも方策の一つではありましょう」
蔿艾猟がそう言うと伍参は笑った。
「ですが、すべてではありません」
そして、すぐにその笑みを怒りに変えてしまったのである。
「令尹どのは何をそう迷っておられるのですかな? 我が国は長年に渡って晋と覇を競ってきた。晋楚が共栄することなどありえず、鄭を足掛かりとして楚の武威を示すことこそ楚の繁栄の道です!!」
「ですが、王はそう思っておられないのではないでしょうか?」
「つい先日、擢登された令尹どのが王の何をご存知だというのか!?」
「王は今も、鄭攻めに踏み切っておられません――」
伍参は黙り込んだ。蔿艾猟に痛いところを突かれたからである。
蔿艾猟が令尹となる以前。そして、不在であったここ数日の間、楚の朝廷には鄭攻めを叫ぶ廷臣ばかりであった。楚王にその意志があれば、蔿艾猟の言葉虚しく、楚は北に兵を挙げていただろう。
しかしそうはなっていない。蔿艾猟はそこに、楚王の複雑な胸中を見て取った。
「楚は連年に渡って鄭を攻め、晋と戦ってきました。しかし鄭は変わらず面従腹背を続けています。といって、ならば滅ぼしてしまえというのは短慮でしょう」
「何故、そのように思われる? あの国には信義というものがないのだ」
ここで蔿艾猟は少し黙り込んだ。
――ならば晋楚には信義があるというのか。
という言葉を呑み込むためである。
そんなものはないと蔿艾猟は思っている。南北の強国に挟まれ、連年どちらかから戈矛を向けられる鄭の君臣を思えば、伍参の言葉はあまりに楚を中心とした見解だった。
しかしここで、鄭は晋にくれてやればよいと言えぬところに蔿艾猟の苦しさがある。鄭を抑えられるということは、喉元に刃を突きつけられているのに等しいのだ。
これは晋にとっても同じであり、楚が鄭を収めているのは晋からすれば危うい。故に両国は鄭の去就を争っているのである。
「鄭には桓、武の大徳があります。それは繻葛で損なわれたといえど未だ消えてはおりません。もし我らが鄭を滅ぼしたとしても、必ずまた興るでしょう」




