若き宰相
文武百官が立ち並ぶ荘厳な王宮の中を、一人の男が歩いている。未だ齢三十に満たないこの青年は今、礼服に身をつつみ、この国の王の元へゆっくりと歩を進めていた。
時は紀元前。古代中国、南方の大国――楚。
武威を誇り、国土は四方千里もあるという超大国の新たなる宰相となるべく、青年は歩いているのであった。
青年は氏名を蔿艾猟という。
かつて楚において軍政に名を馳せた名臣、蔿賈の長子だ。
「あれが新たな令尹どのですか」
「虞丘子どのの推挙ということですが、なんともまあお若いことで」
百官たちは好奇と不審の眼差しで、王宮を歩く蔿艾猟を盗み見つつ囁きあった。
楚においては宰相のことを令尹と呼ぶ。しかし異なるのは呼び方だけで、楚の執政の第一位であることに変わりはない。
立ち並ぶ百官の顔ぶれは壮年から初老の者ばかりであり、蔿艾猟より若い者など一人もいない。この若造が我らの上に立つのかと思えば、面白くないのは当然のことだろう。
「来たか、蔿氏よ。いいや、今日よりは蔿令尹と呼ぶべきだな」
「……」
段上の玉座から声が響く。蔿艾猟という若者を令尹にするという大抜擢を行った楚王のものだ。
「そなたの父は私に尽くし、悲運の死を遂げた。その忠誠と大功に報いるべく、そなたには令尹の席を授けよう。父がそうであったように、私を支え、輔けて欲しい」
「……御意に」
蔿艾猟は拝跪しつつ、僅かに頭を挙げた。
正式な儀の場で主君の顔を見るのは不遜な行為に他ならないが、どうしても楚王の顔を見ておきたかったのである。
実は蔿艾猟は、前に楚王を遠望したことがあり、その時に面貌を知ってはいた。しかし今、この場においてどういう面持ちでいるかを確かめたかったのである。
ちらりと見えた顔には、笑貌が浮かんでいた。しかし蔿艾猟には、その目は笑っていないように感じられたのである。
その時である。一瞬、百官に向けられていた楚王の目が下を向いた。蔿艾猟と目が合い、楚王は口元を綻ばせた。
臣下の不敬を悟り、その上で許したのである。
蔿艾猟と楚王は、そう齢は変わらない。それ故の心安さだろうか。あるいは、楚王は蔿艾猟――というよりも蔿氏に負い目があり、だからこそ大度を見せたのだろうか。その宸襟は蔿艾猟には分からない。
ただし、
――なんとも、やりにくいことだ。
とは思った。
「さあ、今日は我が国にとって新たな門出の日となる。蔿令尹を得て、楚は一層の飛躍を得るであろう!!」
楚王は、蔿艾猟の視線など気付かぬふりをして玉座から立ち上がり、文武百官に向けて高らかに叫んだ。
百官から万歳の喝采が湧く。胸中はどうあれ、文武百官は蔿艾猟の令尹就任を寿いでいた。
その渦中にあって、蔿艾猟の考えていることはただ一つだけである。
――令尹など、早く辞めてしまいたい。
これは古代中国、春秋時代に南方の雄、楚に躍進をもたらした偉大なる楚王を支えた令尹――“三得三去”の逸話を残した蔿艾猟の物語である。
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