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雨の降っていたあの日。
そういえば誰かを轢き殺した。しかし、自分がニュースに出ることは、結局のところなかった。現実とはこんなものだろう。今となっては、忘れかけのありきたりで、懐かしい思い出のひとつだ。
診察室の空気は、ひどく乾燥していた。隅に置かれた加湿器が低い唸りを上げていたが、私の喉を潤す役には立っていない。
デスクの上の液晶モニターには、私の胸部を輪切りにしたモノクロの画像が映し出されている。中央に居座る歪な白い塊が、周囲の血管をじわじわと押し潰し、領土を広げている。抽象画の一種のようだった。これが自分の体の一部だという実感が、どうしても湧いてこない。
「佐藤さん」
高橋医師が声をかけてきた。カルテをめくる彼の指が、わずかに止まる。彼は一度だけ小さく咳払いをし、メガネの奥にある目を私に向けた。
「検査の結果ですが。非常に、厳しい状況です」
私は何も言わず、彼のネクタイの結び目の緩みを眺めていた。安物のシルクだろうか。少しだけ擦り切れている。
「肺がんです。すでにステージ4……いわゆる、末期の状態にあります」
末期。その三文字が鼓膜を叩くが、心臓の鼓動は速くもならない。ただ、テレビのニュースで明日の降水確率を聞いたときのように、「ああ、そうか」と思っただけだ。ドラマならここで椅子から崩れ落ちたり、絶叫したりするのかもしれないが、現実はひどく静かだった。
「リンパ節、そして脊椎への転移が認められます。現代の医学において、ここからの完治を目指す……つまり、がんを消し去るということは、現実的ではありません」
高橋医師は言葉を切り、私の反応を待った。部屋に沈黙が流れる。彼は私が泣き出すか、あるいは激昂するのを予期しているようだった。医師としての経験則が、私のあまりの静寂を不自然だと告げているのだろう。だが、私の内側には凪いだ海のような、徹底した無関心があるだけだった。
「あと、どのくらい持ちますか」
自分の声は、自分でも驚くほど平坦だった。まるで、家電の保証期間を確認するような口調だ。
「統計上は、半年から一年……といったところです」
高橋医師の顔に、わずかな戸惑いの色が浮かんだ。患者のあまりの無反応さに、診断を正しく理解できていないのではないかと疑ったのかもしれない。彼は少し身を乗り出し、声を潜めて続けた。
「もちろん、これはあくまで平均値です。これからは根治ではなく、痛みを取り除き、いかにQOL……生活の質を保ちながら穏やかに過ごすかという、緩和ケアが治療の中心になります。佐藤さん、今、何か……疑問や、不安に思うことはありますか。どんな些細なことでも構いません」
「いえ。特に」
私は椅子を引いて立ち上がり、背もたれにかけていたコートを手に取った。
窓の外では、春特有のぼんやりとした陽光がアスファルトを白く照らしている。半年か、あるいは一年か。それだけあれば、部屋にある本を処分し、公共料金の解約手続きを済ませるには十分すぎる時間だと思った。
「次は、いつ来ればいいですか」
私は、言葉を失ったままの医者を診察室に残し、事務的に次回の予約を確認した。廊下に出ると、待合室には大勢の人間がいた。名前を呼ばれるのを待つ人、スマホを眺める人、子供をあやす人。
彼らと私を分かつ境界線が、いつの間にか引かれていた。だがその境界線も、私にとってはただの線に過ぎなかった。私は受付で会計を済ませ、自動ドアの向こう側にある、期限付きの日常へと一歩を踏み出した。
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4月の午後の光は、空っぽになりつつある部屋の床を白く焼き、埃のダンスを鮮明に映し出していた。
私はさっきから、10年かけて集めたヴィンテージの古代硬貨を、自治体指定の燃えないゴミ袋に放り込んでいる。ジャケットが擦れる乾いた音が、静かな室内に響く。良い値で売れるかもしれないが、そのために質屋を呼び、査定を待つ時間が無駄でしかなかった。
「いつか誰かが片付ける手間」を考えれば、今ここで私が消去してしまうのが一番効率がいい。
「おい、……何だよ、これ」
玄関で固まっているのは、高校時代からの親友、伊藤だった。彼は週末の飲み会の誘いに来たはずだったが、開いたままのドアの先にある光景を見て、絶句している。
「片付けだよ」
私は、お気に入りだったデンマーク製のサイドボードを引きずり出した。リサイクルショップの出張買取が来るまで、あと15分。いくらで売れるかなんてどうでもいい。さっさと片付けたかった。
「片付けってレベルじゃねえだろ! ソファは? あの高かったスピーカーは? 壁に飾ってた写真も全部ねえじゃんか」
「売ったよ。あっても座らないし、音を鳴らす必要もないから。部屋の機能性が高まった。掃除もしやすい」
私は無造作に、最後の一束の海図を紐で縛った。伊藤は、私がかつて「死ぬまで手放さない」と豪語していたコレクションが、生ゴミの袋の隣に置かれているのを見て、顔を真っ青にさせた。
「お前、頭おかしくなったのか? 借金でもあるのかよ。なあ、これ、捨てないでくれよ! 一緒に海外まで探しに行ったやつだろ?」
伊藤が膝をつき、ゴミ袋を抱きしめるようにして叫んだ。彼の目には、大粒の涙がたまっている。
「いや。がんになった。もうすぐ死ぬから」
私は作業の手を止めずに答えた。
「はっ……!?」
「ステージ4。余命は半年。だから、後の人が困らないように物を減らしている。ただそれだけのことだよ」
伊藤の動きが止まった。数秒の凍りついた沈黙の後、彼は「嘘だろ」と呟き、それから獣のような声を上げて泣き始めた。私の腕を掴み、鼻水を垂らしながら「冗談だって言えよ」「死ぬなんて言うなよ」と懇願してくる。
私は彼の涙が私のシャツの袖を汚していくのを、ただ静かに見つめていた。
伊藤が、ここまで泣いたのは始めて見たな。
不思議だった。この部屋にあった物は、あくまで私の所有物だ。私の細胞が死滅すれば、それらの意味も同時に消える。なのに伊藤は、自分の身が削られるかのように激しく動揺し、私が捨てたプラスチックや紙の束すら必死に守ろうとしている。
「こ、これ……この時計だって、お前の親父さんの形見だろ……! 捨てちゃダメだ、俺が預かるから、せめてこれだけは……!」
彼は震える手で、私がゴミ箱に放り込んだ腕時計を拾い上げた。
彼の反応は、まるで出来の悪い演劇を接写で見ているようで、興味深かった。悲しみという感情が、これほどまでに人間を滑稽に、そして必死にさせるものだとは知らなかった。
「いいよ。あげるよ。お前は親友だからな。大切にしてくれよ」
私は彼の懇願を受け入れたわけではなく、ただ「交渉を終了させるため」にそう言った。
伊藤は床に突っ伏して泣き続けている。私はその横を通り過ぎ、空になった冷蔵庫のコンセントを抜いた。
部屋がまた一つ、静かになった。
物が消えるたびに、私の輪郭が背景に溶け込んでいくような、心地よい解放感があった。
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高橋医師は、今後の栄養管理についての資料を私の前に並べた。「塩分を控え、タンパク質を効率よく摂取してください。体力の維持が今後の生活の質を左右します」
私は彼の動く唇を見ながら、デスクに置かれた「栄養補助飲料」のサンプルを眺めていた。バニラ味、コーヒー味。化学的に合成されたその液体は、死にゆく細胞を無理やり繋ぎ止めるための、単なるガソリンに見えた。どうせ動かなくなるエンジンに、高級なオイルを注す意味がどこにあるのだろう。
「最後に行きたいレストラン、ある?」
診察室を出た後、隣を歩いていた美咲が、私の顔色を伺うようにして聞いた。彼女の瞳は潤んでいて、私の「最期」という言葉を必死に美しい思い出に塗り替えようとする意志が透けて見えた。
「どこでもいい。胃に入れば同じだ」
私は答えた。それは突き放したわけではなく、純粋な事実だった。私の舌は、すでに味覚という情緒を放棄していた。
結局、美咲が予約したのは、以前私が「いつか記念日に行こう」と言っていたらしい、都内の高級フレンチだった。
テーブルには、芸術品のように盛り付けられた一皿が運ばれてくる。フォアグラのテリーヌ、トリュフの香るソース、厳選された和牛。周囲の客は、その一匙に歓喜し、ワインの芳醇な香りに酔いしれている。
だが私の目に映るのは、それらの物質的な正体だけだった。
これは炭水化物とタンパク質の塊であり、こちらの脂質は、私の機能不全に陥りつつある肝臓に余計な負荷をかける分子の集合体だ。
「……これ、美味しいね。覚えてる? 初めてデートしたときも、お肉料理で揉めたこと」
美咲が震える手でフォークを握りながら言った。彼女の頬を、涙が一筋こぼれ落ちる。彼女は目の前の贅を尽くした料理を、悲しみという調味料で咀嚼していた。
「ああ、覚えてる。君が焼き加減に文句を言って、店員を困らせていたな。ハハハ、懐かしいな」
私は淡々と答えた。記憶は鮮明だ。脳の引き出しを開ければ、昨日のことのように映像が再生される。懐かしいという感情はあるが、それは古い映画のレビューを書いているような、客観的な手触りしか持っていなかった。
美咲は「そうだったね」と声を詰まらせ、嗚咽を堪えるために無理やり肉を口に押し込んだ。彼女にとってこのディナーは、私という存在を記憶に刻みつけるための儀式なのだろう。
私はといえば、無言で、等間隔のピッチでフォークを動かした。
ソースの複雑な重なりも、素材の希少性も関係ない。ただ、明日の朝までこの肉体を維持するための燃料として、ルーチン作業のように胃へ送り込んでいく。
「ね、ねぇ……。もっとゆっくり食べてよ……そんなに、急がなくていいから」
美咲がナプキンで顔を覆って泣き崩れた。
隣のテーブルの客が、不審そうにこちらを見ている。
私は、彼女がなぜそれほどまでに泣くのかを静かに考えながら、最後の一口のタンパク質を飲み込んだ。
彼女の涙も、この高価なワインも、結局は後数日で完全に忘れてしまう。
「ごちそうさま。腹は膨れた。初めてのデートの時のように、美咲が美味しそうに食べている姿を眺めて、待つよ」
私はまだ半分以上残っている彼女の皿と、彼女の絶望を等しく眺めながら、領収書をもらうためにウェイターを呼んだ。
それが、ふと蘇ってきた記憶達だ。
もう自分がいなくなれば、誰もなにも分からないだろう。
視界の端で、透明な液滴が一定のリズムで落下を繰り返している。
15秒に一滴。重力に従って落ちる。それだけを眺めている。
体は鉛のように重い。自分の肉体というよりは、冷えて固まりかけたコンクリートの塊を布団の下に隠しているような感覚だ。指先を動かそうという動機が、脳のどこかで途絶している。
耳元で電子音が鳴り続けている。
高い、無機質な音だ。時折、廊下を歩くゴム底の靴の音が混じる。遠くで誰かが笑っているような気もするが、その意味までは届かない。音はただの振動として鼓膜を叩くだけだった。
喉の奥で、粘り気のある何かが、呼吸のたびに「ゴロゴロ」と音を立てる。
他人の喉を鳴らしているような、客観的な不快感。呼吸は浅く、速い。肺に空気が入るというより、顎が勝手に上下して、空気の断片を掬い取っている。
意識が泥の中に沈んでいく。
眠たいというよりは、電源が落ちる直前の、熱を持った機械の動作に似ている。
「……っ!」
誰かが名前を呼んだ気がした。
まぶたを開けようとするが、裏側に張り付いたような重みがある。もう開かない。聴覚だけが最後まで世界と繋がっている。
声は聞こえる。温度も、服が肌に触れる感触も。
けれど、それらに対して「反応する」ためのエネルギーが、もう一滴も残っていない。
視界が白濁していく。
点滴の袋も、天井のシミも、境界線が溶けて混ざり合う。いやこれは……夢の記憶か?
心臓の鼓動が、自分の内側からではなく、部屋の壁全体から響いてくるような錯覚。
思考が薄れていく。
次に息を吸うための指令が、脳から送られてこない。
苦しさはない。
ただ、静かに、すべてのスイッチがオフに切り替わる音を聞いた気がした。
(完)
スタティックの初作品ですが、今まで一番疲れました。恐らく読者であるあなたも。
本作を含めてプロットが4つあるので、一先ずそれだけ投下しておきます。
最悪な読書体験を提供できていたら、スタティックの本望が叶い、嬉しいところです。




