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【完結】お婆さんと女の子を車で轢き殺した。  作者: 逆立ちハムスター


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ワイパーが一定の速度でフロントガラスの雨粒を払い続ける。

右から左、左から右。その規則正しい運動を、私はぼんやりと、いつも通り眺めていた。


先ほど赤信号で私の車は二人の人間を撥ねたようだった。

腰の曲がったお婆さんと、お婆さんと手を繋いで、赤い傘を差した小さな女の子。衝撃はそれなりにあったが、以前、鹿を撥ねた時とあまり変わらなかった。


あのとき、フロントガラス越しに、二人の体がふわりと浮き上がり、雨の中へと消えていくのが見えた。

なぜ二人は、こんな視界の悪い時間に、あんな足取りで横断歩道を渡っていたのだろうか。疑問は浮かぶが、追及するほどの興味は湧かない。


ぼーっとしていたら信号が青に変わった。今度はちゃんと止まった。しかし、こんな時間に一人で信号待ちをするなんて馬鹿馬鹿しい気もする。しかし、これ以上誰かを轢いたら、いくら頑丈なこの車でも凹むかもしれない。


私はアクセルを静かに踏み込んだ。タイヤが濡れた路面を噛む音が、微かに車内に響く。

この時間帯はミラーを確認することもしない。背後で何が起きているかよりも、今夜のスケジュールの方が私にとっては重要だからだ。サブスクで追加された未視聴ドラマが溜まっている。新作のミステリー、人気俳優の恋愛もの、それから深夜枠向けのコメディドラマなど。

時間は有限だ。急いで帰らなければ、人生の浪費でしかない。


車内は、外の世界から隔絶されたシェルターのようだ。

エアコンの吹き出し口から出る乾いた風が、私の頬を撫でる。設定温度は24度。これが一番、私の体温を乱さない。


オーディオからは、今日配信されたばかりの新しい曲が流れている。

お気に入りのアーティストの、三ヶ月ぶりのシングルだ。アップテンポだがどこか無機質なビートが、今の私の気分に驚くほど合致している。サビのメロディラインが特にいい。複雑な転調を繰り返しながらも、最後にはすとんと腑に落ちる場所に帰結する。

私は指先で、ハンドルを軽く叩いてリズムを取った。

この曲を聴くために、私は高いスピーカーのオプションを選んだのだ。その選択は正しかった。雨音さえも、この音楽を飾るパーカッションの一部のように思えてくる。


ふと、視界の端に何かが映った。

ダッシュボードに置かれた、小さなアクセサリーが揺れている。撥ねた時の衝撃で少し位置がずれたらしい。

私は左手を伸ばし、それを丁寧に元の位置に戻した。ミリ単位の狂いもなく、中央に。

自分の支配する空間が乱されるのは、あまり好ましくない。


車はいつもの帰り道を辿る。

雨に濡れた街灯の光が、アスファルトの上で滲んで広がっている。


「……ああ、あの店、もう閉まっているのか」


左手に見えるベーカリーの看板が消えていた。

先週までは、この時間でもオレンジ色の温かい光が漏れていたはずだ。売れ残りのパンを安売りする時間帯。一度も買ったことはないが、景色の構成要素としては悪くなかった。

街は私の知らないところで勝手に更新されていく。


信号待ちで止まった際、右側の区画に目が向いた。

古い喫茶店があった場所だ。そこには今、白とブルーを基調とした、清潔感だけが取り柄のような新しいカフェが建っている。

「NEW OPEN」と書かれた花輪が、雨に打たれて無惨に項垂れていた。

オープンは昨日だったか、今日だったか。どちらでもいい。ただ、昨日までは更地に近い状態だった風景が、一夜にして完成された記号に変わっている。そのスピード感は嫌いではない。


さらに数百メートル進むと、数ヶ月続いていた道路工事のバリケードが撤去されていた。

「ご協力ありがとうございました」という看板だけが寂しく残っている。

ガタガタと車体を揺らしていた仮設のアスファルトは消え、滑らかな黒い舗装が、どこまでも続く。

「終わったんだな、ここも」

私は独り言をこぼした。

工事が終わる。店が閉まる。新しい店ができる。

それが社会の代謝であり、私の生活とは何の関係もない。しかし街が生きているようで、結構好きだ。


フロントガラスを打つ雨が激しさを増してきた。

ワイパーの速度を一段階上げる。

シュッ、シュッ、と、ゴムがガラスを擦る音が、音楽の隙間に割り込んでくる。


ふと、自分の服に目が止まった。

ハンドルを握る私の腕。紺色のジャケットの袖口が、わずかに濡れている。

乗車する際、一瞬だけ雨に降られたせいだ。

私はそれを不快に感じた。湿り気というのは、どうしてこうも粘着質なのだろう。

帰宅したらすぐにスチームクローゼット投げ入れて、シャワーを浴びよう。そして、清潔なパジャマに着替え、冷えたジュースを用意する。それから、さっき帰りに買った割引の総菜や寿司食べながらテレビの前に座って、一段落するのだ。


新曲の二番が始まった。歌詞には「失ったものへの哀歌」といった趣旨の内容が含まれているようだが、私にはただの音の連なりとしてしか認識できない。

早くドラマを見たいという乾いた欲求がアクセルを踏み込ませる。。


マンションの地下駐車場へ繋がるスロープが見えてきた。

自動ゲートが、私の車のナンバーを認識して、ゆっくりと口を開ける。

コンクリートの壁に囲まれた空間に入ると、雨の音は途端に遠のいた。代わりに、タイヤが床を鳴らすキュルキュルという高い音が響く。


所定の場所に車を停め、エンジンを切った。

音楽が消え、完全な静寂が訪れる。

私はすぐには降りず、ハンドルを握ったまま、正面の壁を見つめた。

ヘッドライトの光が、コンクリートの細かな凹凸を照らし出している。


ふと、車のバンパーのことが気になった。

凹んでいるだろうか。あるいは、赤い血がついているだろうか。

確認しなければならない。もし汚れが目立つようなら、明日の朝、早い時間に洗車場へ行く必要がある。他人に不快感を与えるのは、余計なトラブルの元だ。


私は車を降り、フロントに回り込んだ。

しゃがみ込んで、ライトの残光を頼りに細部を点検する。

雨水が滴っている。

……何もない。

凹みも、傷も、付着物もない。

流石90だな。それにこの雨で洗車の手間も省けたようだ。

雨が全てを洗い流したのか、あるいは私の車の強度が二人の肉体を上回っていただけなのか。

期待外れのような、安堵のような、どちらでもない奇妙な感覚だった。しかし、腹が減ってきた。


私は立ち上がり、トランクから鞄を取り出した。

エレベーターホールへと続くドアを開ける。

背後で、駐車場の照明がパチパチと音を立てて消えていった。


部屋に入り、鍵をかける。

出向えてくれたツナが足にすり寄ってくる。また起きてたのか。やれやれ。


コートを脱ぎ、予定通り浴室へ直行してシャワーを浴びた。

熱い湯が肩を叩き、一日の汚れと、わずかな雨の記憶を排水溝へと追いやる。無駄に、何度も温まるまで、浴び続ける。この時の感覚が結構いいんだな。


鏡に映る自分の顔を見る。いつもと変わらない。しかし、髪が伸びてきたな。週末少しすくか。


風呂上がり、冷蔵庫からアロエジュースを取り出し、グラスに注ぐ。

この香りが堪らない。ひどく心地よい。これが最も最高な時間かもしれない。飲み終わるまでは、いつもそう思う。


おデブツナのスリスリが激しいので、スルッとパウチを皿に出してあげる。

おデブツナがくちゃくちゃと食べていく。

これは白いパウチより角が尖ってないし、オレンジのやつと比べて、驚くほどスルッと出るから好きだ。

子猫用が食いつき抜群でマストだ。そしてカツオ味のカリカリも追加しておく。カツオ味が最も食いつきがいい。ツナのくちゃくちゃをみていると腹が減ってきた。


自分用のエサをレンチンして、いつものように食べたいものから、頬張っていく。


弁当の蓋を開け、付属のタレを分厚いチキンカツにかける。とろりとした濃厚なタレが、衣に染み込んでいく。

その一切れを、箸で持ち上げる。


カツを口に運ぶ。

サクッ。

薄めの衣が軽快な音を立てる。中から、分厚き切られた胸肉の旨味がジュワッと広がる。パサつかずしっとりジューシー。しかもこの食べ応え。何よりこのタレだ。甘辛く、コクのあるソースが、カツの脂と相まって、箸が止まらない。

ご飯を頬張る。カツとご飯、タレ。この三位一体が、口の中で完璧なハーモニーを奏でてくれる。


合間に、マカロニコーンサラダをつまむ。

シャキシャキとした甘いコーンと、もちもちとした歯切れの良いマカロニの食感が、チキンカツの濃厚さを和らげてくれる。マヨネーズの酸味が、また心地よい。


そして、寿司セット。

まずは大好きなサーモンセットのオニオンサーモンから。

サーモンを口に入れると、ねっとりとしたサーモンの旨味が広がり、シャリの酸味と混ざり合う。

やっぱり、飽きた、飽きた言っても、たまの寿司はいいなぁ。次はブリとタイをいこう。うなぎと穴子は小骨が鬱陶しいから、いつものようにシャリだけ食べて、捨てる。


食欲が一段落したところで「テレビつけろ。サブスク起動」。スマートスピーカーが光り、操作されていく。


リストに溜まった数多の物語たちが私を待っている。

どれから見ようか。

サスペンス、ヒューマンドラマ、それとも……。

いつも通り、サブスク落ちの新着有名タイトルを適当に再生する。

私は軽く腰を上げて、後ろのソファに深く腰を下ろした。

画面の中では、架空の悲劇が幕を開けようとしている。

登場人物たちは、愛に泣き、別れに絶叫し、不条理な運命を呪っている。

私はそれを見つめながら、ゆっくりとマグカップを口に運んだ。


食後のデザートは、しっとりカステラとたっぷりクリームのシュークリームだ。

まずはカステラ。

豪快に手で割いて摘み口に入れる。

しっとりとした生地が、口の中でほどけていく。卵の優しい甘さが、口いっぱいに広がる。懐かしい味だ。これが堪らない。

次に、コンビニのシュークリーム。

いつもながらずっしりと重い。この、たっぷりのクリームが詰まっているのが最高だ。

一口齧ると、とろりとしたクリームが、口の中から溢れそうになる。正直シュークリームはそこまで好きじゃないが、このコンビニのシュークリームだけは美味い。


デザートを貪る傍ら、画面内の彼らの涙は、先ほどの雨よりもずっと美しく、そして何より「安全」だ。


外ではまだ、雨が降り続いていた。というより激しくなってきていて煩い。まあ、雷が鳴らないだけマシだろう。


いつも通り、派手なvfxシーン以外に興味が湧かない。ポチポチとくだらないシーンを飛ばしていく。無駄な予算だ。私の心拍数は1拍も変化しない。


今夜は長い。

ドラマが、まだあとリストに200本も残っているのだから。

時間を無駄にすることは、私にとって唯一の罪なのだ。


窓の外の闇を、一瞬だけ振り返る。

ただ、冷たい水滴が窓ガラスを伝い、歪んだ街の光を映し出しているだけだった。

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