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体を支え合った二人は、旧基地内のハンガーにやってきた。
建屋の一部は焼け落ちているが、屋根が健在だったためハンガーとしての機能をまだ果たしている。
ベッカーと共にその中に入ったティナは、驚きのあまり声を失う。
二人の目の前には、かつて苦楽を共にした青い翼を持つ美しい機体が鎮座していた。
モランデル――ティナのパイロット人生においてかけがえのない相棒が目の前にある。
しかし、愛機の姿はティナが乗っていた当時とは少し異なるようだった。
一番の特徴は操縦席だ。なぜか複座になって二人乗れるように改造されている。また、特徴的だった主脚は自動引き込み式のスマートなものが取り付けられており、その印象を大きく変えていた。エンジンも大出力のものに換装されているようで、様々な装備も後付けされている。まさに生まれ変わりと言えよう。
「お前が胴体着陸した機体だけでなく、他の損傷機の部品もかき集めて作った複座の練習機らしい。よっぽど機体不足だったんだな。内戦が終わった後は、敗戦処理の担当として復員した俺がどうにか取り合って連絡機として残してもらったんだ。平和が続けば、そのうち博物館にでも展示されるかもな」
そう言いながらベッカーは不恰好な高笑いをあげる。
ティナはたまらず〝モランデル〟に駆け寄り、その胴体に縋りついた。
五年ぶりに触る外板の感触は記憶通りだ。ティナは親に甘える子供のように、何度も機体に体を寄せる。その目にはいつしか涙が浮かんでいた。
「乗ってみるか?」
ベッカーは誘うような口調でティナに問いかける。
そして対するティナの返事は決まり切っていた。
* * *
「本当に昔のままね!」
高度二〇〇〇メートル――飛行気乗りしか立ち入れないその空間で、ティナは大空に向かって叫んだ。
風防は開け放たれ、激しい風切り音がティナとベッカーを覆いつくす。
前部座席で操縦桿を握るのはティナだ。その生き生きとした顔つきは、現役当時の輝きを取り戻している。
五年ぶりに操縦席に着いたティナはダブついた飛行服に身を包み、髪を結いまとめてフライトキャップの中に収めている。
幸いにして基地内に飛行服の予備が残っていたが、小さな体のティナに合うサイズのものはなかった。それでも着こなしてしまうのが女パイロットの知恵だ。
〝モランデル〟の方も操縦感覚や計器類は異なっていたが、その飛行特性は褪せることなく機体に染みついていた。
「あまりはしゃぐと墜落するぞ!」
後部座席に座るベッカーは軽く釘を刺す。〝モランデル〟は小柄な機体なため、ギリギリまで寄せられた後部座席から声が簡単に届く。
「私を誰だと思ってるのよ!」
ベッカーの忠告を軽くあしらったティナは、乱暴に操縦桿を倒して急上昇に移った。
機体は重力に負けて徐々に速度を失っていく。
ベッカーはその様子に心配を抱くこともなく、外の様子を眺めた。
日は既に落ち、周囲は薄暗くなり始めている。上空から見る大地は戦火の跡が色濃く残っているが、草木が根を下ろし美しき昔の姿を取り戻し始めている。
濃紺に覆われた空で一番星が瞬く。紫に化粧をした大地は風になびかれ波を作る。ティナの追い求め続けた最高の空は、今や目の前に広がっていた。
〝モランデル〟の速度が限界近くまで落ちたところで、ティナはエンジンを停止させて一気にフットペダルを踏み込んだ。
急に横に振られた〝モランデル〟は、そのまま失速を起こしてスピンを始める。それは、ティナが脳裏に焼き付けた最後の機動だ。
「まさか、あれをやるのか!」
これから起こることを予期したベッカーは驚きの声をあげる。
揚力と推力を失った機体は、跳ね上げられたボールのように空中で飛躍する。真横に回転しながら大空を跳ねる〝モランデル〟の姿は、華麗なジャンプをきめたダンサーそのものだった。
その機動は、〝白いフェスカ〟が最後に見せた「スピン旋回」そのものだった。
エンジンが停止し、風切り音だけに覆われた世界で空と大地はゆっくり回転する。景色は色とりどりの変化を見せ、穏やかになった風が優しく頬を撫でた。
これほど心地よい空間は、まさしく唯一無二だ。〝白いフェスカ〟は、戦うためではなく、この空間を堪能するために「スピン旋回」を編み出したのかもしれないと思えてきた。共に空を愛した者として、今になって親近感を抱く。
スピンを終えたところで、安堵したベッカーが声をかける。
「相変わらず無茶なことをするヤツだな」
今のティナに、無茶なことなど存在しない。自分が不可能と思えた技だって、簡単に再現することができた。無限に湧き出す自信を空が与えてくれる。
アクロバット飛行に満足したティナは〝モランデル〟を水平飛行に移す。
すると、ティナは身を乗り出してベッカーの顔を覗き込んだ。
「あの、もしよければベッカーさんがどうしてパイロットになったのか教えてくれませんか?」
「それを聞いてどうする」
「ただ知りたいだけです。私はベッカーさんのことを何も知りません。どうして〝フェスカ〟に乗っていたのか、あの時どうやって地上に降りたのか、どうして捕虜になったのか、何でこの地にいたのか、全部教えてください」
「長い話になるな」
そう言いながら、ベッカーは顎をさする。その癖は、かつてティナに飛行機の全てを教えてくれた飛行隊長にそっくりだった。
「話すだけじゃ面白くない。俺にもお前がパイロットになった理由を教えろ。他にも、レイラとどうやって出会ったのか、ここを去ってから今まで何をして過ごしてきたのか全部話してもらおう」
「長い話になりますよ?」
「なに、時間はいくらでもある。五年間に比べれば短い」
そんな会話を交わし、二人は小さく笑い合う。
ティナの胸の中ではコンパスと懐中時計がぶつかり、軽い音をたてる。
すると、地上に降りたらベッカーにキスしてやろうと不意に思い立った。特に理由はないが、それくらい自分の気持ちに素直になってもいいかと急に思えたのだ。
そんなことを思いつくと、あれほど楽しんでいたフライトも今すぐに止めて地上に降りたくなってくる。
自分の単純さに呆れたティナは、慣れ親しんだ操縦桿を撫でてやさしく微笑む。
ティナ自身の時計の針は、今この瞬間に動き始めていた。
(了)