17-1.年の暮れ
この世界での今年も、残すところあと二日。ここ、メゼルでは城などが今日をもって閉まる。次に開くのは年明け六日目、明年の期が終わった生初の期の一日だ。
「これでしばらく自由だ! 年越しと旅行の準備! 買い出しも行こう! 正月!!」
本当なら一足先に休みにしようと休みを取っていた今日の午後、急遽シャツェランに呼び出された江間は夕方城から帰るなり、郁とリカルィデに上機嫌で話しかけてきた。
ダイニングで裁縫をしていた郁は、縫っていた肌着と針を慌てて片付ける。長椅子で借りてきた本をのんびり読んでいたリカルィデも目を瞬かせながら、顔を上げた。
「旅行って呼ぶものじゃなくない? 帰る方法を探りに行くんだけど……?」
「初詣とか除夜の鐘とかそういうイベント、ないのかな」
「トシコシ、カイダシ……ショウガツ、は、新しい年の始まり、ちょうど明年の期と同じって言ってたっけ」
「バーとかクラブみたいなのとか、もしあるなら覗いてみようぜ」
賑やかなことが好きな江間らしいことに、上機嫌も上機嫌。それゆえか、江間らしくないことに、旅行という言葉に呆れる郁にも、顔に「?」をいっぱいつけているリカルィデにも気を払わず、「着替えてくるから、街、見に行こう。賑やかだったぞ」と言って、自室に入っていった。
「……浮かれてる、って言うんだっけ、ああいうの?」
「うん。王弟の話にずーっと付き合わされてるの、やっぱり疲れるんだろうね」
郁は霧の日のシャツェランとのやり取りを思い出しながら、露骨に顔を顰めた。
訳が分からないのに傲慢なことだけは確かで、ひどく苛立たしい。なんで子供だった自分は、あんなのを親友などと思っていたのか、本気で理解できなくなっている。
(江間は“あんなの”を、毎日毎日相手にしているんだよね……)
「なんか、ほんとに気に入られたね、エマ。最近は、私たちより王弟殿下と一緒の時間の方が長いし…。前の試合、ほんと何だったんだろ? 心配して損した…」
先日の手合わせで、江間とシャツェランはムキになって二人とも怪我をし、仲がこじれるかと思ったが、翌日から何事もなかったかのように……どころかごく親しく過ごしている。
シャツェランは書物棟に頻繁に顔を出して江間に話しかけ、江間は江間で気軽にシャツェランの執務室を訪れ、二人でふざけ合っている姿を見かけることもまったく珍しくない。
江間は「そんなもんだろ」と言っていたが、正直、郁やリカルィデには理解しがたい。
「ねえ、ミヤベ、どうする、本気で王弟が江間を夫妃にとか言い出したら?」
「江間が望んでのことなら祝う」
「エマは望まないよ」
≪側にいてくれ、ずっと≫
鍛錬場の井戸端での声が蘇って、郁は呼吸を止める。
「……なら、させない」
自分の答えに、リカルィデがほっとしたように息を吐き出したのを見て、郁は咄嗟に目を逸らした。
「それで、ええと、トシコシとカイダシ、ハツボウデとイベント、ジョヤノカネと…バァに、ク、クラブ?」
「年越しは年が変わる時のことで、買い出しはまとめた量の買い物をしに出ること、それから、はつぼうでじゃなくて、初詣は……」
訊ねられた単語の意味を説明しながら、郁は感心する。
リカルィデの日本語が堪能なのは、サチコさんの教育のせいだけじゃなく、リカルィデ自身が勉強熱心だからだ。
「ついでに、新しい日本語。江間みたいに、明るくて、コミュニケーション能力が高くて、あちこち出て行って、人と接するのを楽しむタイプを、陽キャとかパリピとか言うらしいよ。こういうお祭り騒ぎには、絶対に乗る感じ」
「……ミヤベは違うね」
「私みたいなのは陰キャとか喪女とか。陰キャは暗くて、コミュニケーション能力や社会性が低い人。喪女はモテない女、彼氏つまり恋人がいない歴イコール年齢、みたいな。まさにこれって感じ」
「真顔で自分を指さすの、やめろ。どう反応したらいいかわかんない」
「だって事実だし」
半眼で呆れたように呟くリカルィデに、同じく半眼で肩をすくめ、二人で同時に吹き出す。
「私もそっちだろうな。あっちの世界行くの、かなり嫌かも」
「大丈夫大丈夫、見た目は立派過ぎるくらい陽キャだもん。あとは、江間のまねでもしたら、いいんじゃない?」
「できる気がしない、無理、絶対」
「その年でそこまであきらめるのは早くないー?」
「ミヤベなんかそもそもやる気ないくせに」
ケラケラと二人で笑っていると、着替えた江間が不思議そうに顔をのぞかせた。
「行こう」
江間が開いた玄関の戸の向こうから、冷たい空気と、何かの楽器が奏でる音楽が流れてきた。
時刻は降の六刻、日本で言う七時過ぎだ。冬の街は既に夜のとばりに覆われているけれど、普段とは違って人通りが多く、みな楽しそうで、街全体の空気が湧き立っている。
「……」
視界の端に、周囲に馴染まない影が入った。未だにアヤたちにつけられている監視だ。
(賑やかな中だと静かな方が浮くんだな)
妙に納得しながら、江間を見れば、「……まあ、護衛ってことで。けど、なんか申し訳ないな」と彼は苦笑している。
「早く早く、お店が閉まっちゃうよ」
「大丈夫、今日から明年の期が明けるまで、市は昼夜関係なく開かれるらしいって……って聞いてねえな、あれ」
「年越し、私たちも初めてだけど、リカルィデの初めては、また意味が違うんだろうね」
きょろきょろと周りを見回しながら、街を歩くにつれ、リカルィデはそわそわし出し、メゼルの中心にある大通りの市に近づく頃には、先ほどの江間の浮かれが完全に彼女にも移っていた。人を縫い、先に先に行こうとする彼女の頬が、ピンクに色づいているのは、寒さのせいではないのだろう。
一年前、彼女は“王子”でありながら、王城で開かれる華やかな明年の会に出ることもなく、城の片隅でひっそりと一人で新年を迎えていたという。サチコさんも既に亡くなっていたはずだから、なおさら寂しかっただろう。
「ねえ、早くー」
「わかったわかった」
子供らしい顔で振り返って、自分たちを急かすリカルィデを、郁は知らず笑いながら見つめる。江間はその郁を見、「また甘やかす気だな」と苦笑を零した。
「わあっ」
「……すごい」
「な、言っただろ?」
幅十五ガケル、約三十メートルある大通りに、その真ん中にある広場を中心とする巨大なマーケットが出現していた。臨時のテントが整然と列になって並び、店頭に掲げたランプの光に、食品、雑貨、家具、装飾品、衣服、美術品、植物、ありとあらゆるものが照らし出されている。
あちらの店では、夫婦が塩漬けの魚を買い、そこの屋台では、サツマイモに似たシガをふかしてつぶし、パスタのようにした料理を家族連れが受け取っている。右奥の服屋の店先には、凝ったデザインのリネルを着せられたマネキンが、年頃の女性たちの注目を集め、その少し前では、たくさんのボールを持った大道芸師が、高速のお手玉を披露していた。連れ添って歩く恋人と思しき二人連れに、リカルィデくらいの男の子たちが冷やかしの言葉をかけて、笑いながら走り抜けていく。
前から賑やかにおしゃべりしながら歩いてきた、少し年上の女の子の集団にぶつかられそうになったリカルィデは、くるりと回って回避した。ポンチョに似た作りの深緑の外套が、ふわりと円を描く。そして、にこりと笑って郁たちを見た。
襟ぐりと裾、袖口に黒いふわふわの装飾があるものの、正直、十三歳の女の子のものとしては、地味なのだろう。でも、リカルィデが自分で選んだそれは、彼女の金の髪と青い瞳に良く似合っていた。
「その外套、すごく似合ってる」
「良いセンスだな」
何よりリカルィデが褒められて嬉しそうに笑うようになったことが、一番嬉しい。今まではどこか複雑そうな顔をしていたから。
「宮部はああいうの、着ないのか?」
「別にどっちでも。まあ、女物みたいだし、やめとく」
「……それはそうか」
並んで歩く江間と郁は、ロロと呼ばれるイノシシに似た家畜から取れた毛でできた、マントを羽織っている。感触としては羊毛をさらにソフトに、軽くした感じだが、ちゃんと温かい。
江間のものは黒と赤が混ざったような色で、膝下まで覆われている。肩幅の広さが目立ち、少し日に焼けた肌と併せて、ひどく男性的な感じがする。
背はこの国でもそれなりに高い方で、その上、この顔立ちだ。冬風に微妙な癖のある前髪がふわりと煽られ、切れ長の目が露になった瞬間、道行く女性が彼を指さし、連れの女性の外套を引っ張った。
彼女たちだけじゃない、すれ違う人の多くが彼を振り返るのを見て、郁は苦笑を漏らした。
「ちょっと待て、リカルィデ、どんどん行くな……っ」
何か興味のあるものを見つけたらしい。いつも控えめな彼女には珍しく、人込みにぐいぐい入っていく。
(完全に保護者だ)
焦った様子でそれを追っていく江間を見て、郁は声を漏らして笑った。三人兄弟の一番上だと聞いたけれど、彼は本当に面倒見がいい。多分、郁もその対象に入っているのだろう。
人に溢れたマーケットは、大通りの奥、どこまでも続いているように見えた。その上に、満月になろうとしている月が二つ、輝いている。
「『大双月』…」
歳忘れと年始の準備に忙しい、人々の間に立ちどまって、郁は夜空を見上げた。
(あの晩も満月が二つ出ていた……)
郁は月のさらに遠くを見るかのように、目を細める。
あの時、化け物カマキリの鎌が木に囚われなかったら。
あの時、江間がやってきて、一緒に行くと言い出さなかったら。
あの時、蛾に似た化け物が来なかったら。
あの時、リカルィデを連れ出せなかったら。
――そのどれが欠けても自分は今ここにいないだろう。
「……」
郁は胸元の守り袋に指をあてる。祖父の、祖母の温もりが、そこに確かにある。
あの洞窟を出ると決めた時、頼みにするのはこれだけだった。祖父母が死んでしまった郁には、大事な人はもう存在しない。生き残ろうと足搔いてみる気ではいたけれど、もし失敗しても、それはそれで諦めがついたはずだ。
でも今は、あの二人は、あの二人だけは、諦められない。




