15-9.手
内務処棟から出ると、空は重たく曇り、周囲にはメゼル湖から漂ってきた薄い霧が漂っていた。日差しがないだけで、空気はひどく冷たくなるのだと思い知る。
『気をつけろよ』
『栽培舎はすぐそこ。気を付けるのはむしろ江間だ』
メゼルには珍しい冷え込みらしく、吐く息も白い。
江間が自分の首周りを覆っていたマフラーを外し、郁の首にかけた。とたんに温かくなる。
『……自分で使え。移動が長いのも江間だろう?』
『んっとにお前はー。人の親切を無下にすんな』
『厚意はもらった。でも物はいらない』
『可愛くねえな。鉄処の中は年中真夏だから、少し冷えた状態で行くぐらいがちょうどいいんだよ』
『……』
こうなると、江間は何を言っても聞かない。郁はされるまま、くるくるとマフラーに巻かれ、その内でため息を吐いた。
江間の襟もとへと手を伸ばし、彼の外套のボタンを一番上まで止める。そして、『……行ってらっしゃい。気を付けて』と声をかけた。
『……ああ』
江間の声に驚きが入っている気がして、顔を合わせにくい。郁は顔を伏せ、江間の体を両腕で押した。
『エマと一緒に行くのが俺らで申し訳ないような気分になるなあ』
『できるだけ早く帰るようにするね、ミヤベ』
エナシャとアムルゼ、リィアーレ兄弟にからかわれて、郁は伏せた顔をさらに赤くした。慣れないことはするものじゃない、そういうのじゃないのに。
三人は城正門前の跳ね橋を渡ったところにある、ホダの厩舎前で第四師団のグルドザたちと合流した。新しい製鉄炉――炉の高さを上げた高炉を見に鉄処に向かうべく、ホダにまたがる彼らを見つめる。
(高炉で鉄を作り続けるとなると、木炭の入手がいずれ難しくなる……)
木炭は硫黄分などの不純物が少なく、製鉄には理想的という話だが、従来の方法ではなく高炉で、となった場合、膨大な量がいる。鉄の生産量が増えれば増えるほど、森林破壊につながるはずだ。メゼルディセル領は温暖湿潤な気候下にあり、森林資源に恵まれているというが、限界はあるはずだ。
(それでイングランドでは石炭を“乾留”して、不純物が少なく発熱量の高いコークスを作った……乾留ってどんな作業だっけ。いや、そもそも石炭だ、この世界でとれるのか?)
ホダにまたがった江間が、悩む郁を振り返って手を上げた。陽気な笑い顔につられて、なんとなく郁も手を振り返す。
普段であれば、坂を下っていくその姿がメゼルの街に入るまで見えるはずなのに、今日はメゼル湖上に発生し、城や街にまで流れてきている霧のせいですぐに見えなくなった。
踵を返して栽培舎のある逆方向の通用門へと足を向けたが、冷えこみのせいか、今日は鍛錬場などにいるグルドザも庭の手入れをする園芸師もいつもより少ない気がする。
どんよりとした空模様と漂う霧もあって、城内の活気まで下がっているように思えた。
(見事に何も見えない……)
普段メゼル湖が見える、外郭の所々に設けられた矢間の向こうも、今日は白い幕に覆われているかのようだ。
城の敷地の端の端、外郭に設けられた、人がようやくすれ違える程度の通用門。その手前、二十メートルのところで郁はぴたりと止まった。
好きな相手に気づかないことはあっても、嫌いな相手に気づかないことはまずない。動物に備わった生存本能かも、と内心でぼやくと、郁は気付かなかったことにしようと決め、再び歩き出した。
薄霧の中であっても、その人はひどく目立つ。それ自体が光を放つかのような金髪に、スタイルのいい長身。微妙にイラっとする。
横にいるのは、第一師団の兵士団長だろう。大柄で一際目立つ。一緒に門を警備するグルドザと何事かを話しているが、彼らは明らかに緊張しているようで、ひどくぎこちない。
あんなのに捕まるなんて気の毒に、と思いながら、郁は霧に紛れて、シレっとその横を通り過ぎた。
門兵に小声で要件を告げ、門外に足を踏み出す。
『――待て』
が、目論み外れて捕まった。二度目だ、と小さく舌打ちしながら、郁は振り返る。嫌いな人間が身近にいると、どうも柄が悪くなって仕方がない。
『無視とはいい度胸だ』
『霧で気付きませんでした』
真顔で嘘を吐き、郁はシャツェランに跪礼を、横の兵士団長に略礼を取った。
『失礼いたします』
『エマは一緒じゃないのか?』
『鉄処です。これにて』
『一人で?』
『アムルゼ内務処官とエナシャ、第四師団の方が一緒です。では』
『どこに行くんだ』
『栽培舎です。お暇いたします』
『何をしに』
『例の種子や関連する物がないか確認しに。御前失礼いたします』
『私も行こう』
『……』
助けを求める、正確には『連れて帰れ』という意図を込めて兵士団長を見れば、彼は『露骨すぎだろ……』とあきれ顔で呟いた後肩をすくめ、『言い出したら聞かない』と返してきた。
この人は、先日江間とシャツェランの試合がヒートアップした時に止めてくれた人だ。シャツェランの兄弟子でもあると聞いた。多分、シャツェランの稽古相手として、昔名を聞いたことあるうちの一人だろう。
随分と気安い関係らしいし、止められるはずだろうが、と彼へと恨みの視線を投げてから、郁は歩き出した。
通用門の外には、小学校のグラウンドほどの圃場が広がっている。左端はメゼル湖に落ち込んでいく斜面、奥は山に続く崖で、そこを流れ落ちてくる小さな滝が、細い川となって圃場の間を流れて行き、城の外郭を周る堀に繋がる。有事にはこの水を城に引き込み、飲料水にする仕組みも備わっているそうだ。
栽培舎と呼ばれる建物は山際にあって、その背後、斜面に掘られた貯蔵庫こそが郁の目的だ。
霧の中、シャツェランと共に圃場の柵の間を並んで歩く。左手には何かの作物が植えられ、右手からは獣の匂いがする。
『そっちはトゥナだ。収量の多い株を見つけて掛け合わせているが、なかなか定着しない』
『目当ての性質を持つもの同士を幾代か掛け合わせて生まれた株に、別の性質を持つ同様の株をかけて生まれた種をその都度栽培するようにすると、改善するかもしれません』
カブに似た根菜を指したシャツェランに『手間なのが難点ですが』と呟きながら、早足で歩いていく。
霧の中でシャツェランと二人でいると、昔のように夢の中にいる錯覚を覚えてひどく落ち着かない。兵士団長は少し距離を置いて後方にいるが、正直、まったくいらない気づかいだ。
『そんなものか……試すように言ってみよう』
立ち止まったシャツェランを置き去りにしようとしたところで、また腕を取られた。
『……』
薄靄の向こうに見える顔は、あの頃と違って大人のものだ。鼻梁は高く、顎のラインも鋭くなっている。女の子のようにただ整っていた口元も、大人の男性のものになった。何より一番違うのは……と、郁はシャツェランの大きくなった手に握られた自分の手を見た。
『……ちゃんと温かいな』
ぼそりと呟かれた声と同じことを考えていた郁は、心臓を跳ねさせた。
夢の中で会っていた時、お互いへと手を伸ばせば、触れている感じがした。でも、ただそれだけで、体温を感じることはなかった。きっと触れた気になっていただけ、自分の脳の中でその感触を作り出していただけ、そう思うようになったのは、彼と会わなくなって何年も経った後だ。
『一応人なので』
わざとズレた答えを返し、自分の手を引くが、放されない。
『歩きにくいです』
『嫌か』
『歩いているのに、歩きにくいことを喜ぶ人間はいないかと』
『いちいち可愛げのない答えを』
シャツェランの反応を無視して、今度は力を込めて手を振り払おうとしたが、びくともしない。郁は顔を顰める。
『あきらめろ、霧の間のことだ』
「……」
(周囲に見られてまずいことなら猶更するな)
不機嫌を露にシャツェランを睨めば、彼もむっとした顔をする。その表情に既視感を覚えてしまった瞬間、目を丸くしたシャツェランが小さく笑いを零した。
「……」
見てはいけないものを見た気がして、郁は咄嗟に目を逸らし、歩き出す。栽培舎までせいぜい百メートル程度なはずだ。下手に抵抗するより、とっとと目的に着いてさっさと解放されよう。




