13-3.処刑(佐野)
三日後、地下牢から出された佐野は、黒く禍々しい、バルドゥーバ城の正面広場に引きずり出された。
空は分厚い、真っ黒な雲に覆われていた。嫌になるぐらい乾燥していたのに、雨期に入ったらしく、ここのところ雨が降り続いていて、空気も湿度を含んでひどく重苦しい。
遠く、柵の周囲に押し寄せた殺気立った人々が、手に手に石や棒切れを持ち、口から唾とあぶくを出して、佐野を罵っている。
(……なに、あれ)
最初は彼らに袋叩きにされるのかと怯えていた佐野だが、手かせも足かせもなく、ただ一人その広間に出されて放置され、そこで初めて「なぶり殺し」の意味を悟った。
奴隷たちによって佐野の前へと運ばれてくる台車の上に、白とピンクに光る巨大な何かが乗っている。
(へび……? じゃな、い……)
佐野はいつの間にか溜まっていた生唾を飲み込んだ。
大人の太ももほどの太さの鎖で縛られた、頭が二つある巨大な生物。蛇のように長い胴体の側部に、細い手のような物が多数うごめいている。白色に見えていたのは半透明の鱗だ。細かい溝が走っていて、光を反射している。光が当たらないところからは内部の血管や肉が透けて見えた。
奴隷たちはその生き物に怯えを露わに近づくと、身じろぎするそれに押しつぶされそうになりながら、その鎖を外した。彼らが柵の外へと倒けつ転びつ逃げていった後、佐野は一人、自由になった双頭のそれと共に広場に残された。
周囲からの罵声が狂気じみていく。
「……」
あまりの光景に悲鳴すら出ず、佐野はただただ立ち尽くした。
重苦しい真っ黒な雲から、雨が降り始め、佐野を濡らしていく。
巨大な怪物がもたげた鎌首は、三階建ての建物ぐらいの高さにあり、体の長さは佐野の視界からは測れない。二つある頭部それぞれの目と思しき四つの場所は、ひどく傷つけられていて、それらの下の小さな穴は、まるで呼吸するように、開け閉めを繰り返している。左右の頭が接する部分に、ぱっくり開いた大きな黒い裂け目からは、幅十センチほどの紐のような物が三本垂れ、しきりに揺れている。
その紐のうち、一番長い一本が佐野に向けて、ぴたりと止まった。
ドザンッという湿った、重い地響きを立てて台車から這い降りると、化け物はズジャ、ズザャ、ザという重い音を立てて、佐野へとにじり寄ってくる。
紐の出ている裂け目からぼたり、と黒い液体が流れ落ちた瞬間、湿った地面が煙を立てた。
「……」
雨音と大衆の異様な喚声の合間に、ブシュー、ブシューという蛇の呼吸音が聞こえる。
異形としか形容できないその頭の遥か向こう、雨にけぶる城の正面、五階部分のバルコニーに人が立っているのが見える。女王と福地、そして……寺下。
(笑って、る――)
遠く、かすんでいるのに、彼女の糸目と唇が邪悪に弧を描いているのがはっきりと分かった。奥歯がギリっと音を立てる。
「っ」
化け物の頭部がまるで強大なスーパーボールのような勢いで飛んで来た。佐野は咄嗟に真横に走って、かろうじてその黒い口から逃れた。ひどい臭気に目が刺され、涙が滲む。
だが、恐怖より怒りが勝った。
「……っ」
佐野は音を立てて城に向き直ると、走り出した。足もとに飛沫が立ち、泥水が服を汚す。
巨大な蛇の這いずる音と呼吸音、腐臭が、遅れて背後から追ってくる。正面で城を守っているグルドザたちの目が、驚愕と恐怖に見開かれるのが見えた。
「っ」
振り返ることもできないのに、全身が総毛立った。瞬間、佐野は咄嗟に走る向きを変える。
轟音と悲鳴が響いた。
雪崩を打って逃げようとする人々と強い雨の幕の間に、化け物の胴体が見えた。周囲の柵が大きく壊れ、グルドザと観衆が倒れている。
化け物がゆっくりと鎌首をあげた。その口から人の手足が生えているのが、後頭部越しに見えた。骨と肉の砕ける音と共に、それが徐々に消えていく。その光景を正面から見ているだろう人々がパニックになり、悲鳴と絶叫が轟かせながら、逃げていく。
――……逃げられる。
戦慄の一方で、佐野の頭のごく一部が極限まで冷え渡った。
(なら――逃げて、生きて、復讐してやる、絶対に)
佐野は城のバルコニーを振り返った。女王と福地、そして寺下を憎悪を露に一睨みすると、化け物の真横を走り抜けた。
(あと少しで夜……)
あれから佐野は追手のグルドザを避けて、城の裏側、奴隷たちが多く住まう地域を逃げまどっていた。表を美しく整えるために、すべての負を押し込まれたこの場所の雑多さが、今の佐野にとって救いとなっている。
(とにかく街の外、あの壁の向こうに出なくちゃ……)
ヤシのような植物の葉を編んだだけの、家とも呼べないような小屋の影で息を整えつつ、佐野は周囲の砂漠からバルドゥーバの街を隔離する白い壁を睨んだ。
『街の中を流れている水路の水が、大河バルから引き込まれたものなのは知っているかい? この街を出たら、またバルに合流して、惑いの森に流れ込み、最後はディケセルに出る――昔はイェリカ・ローダが少なかったから、川伝いに人や物の行き来があったんだろうね。バルドゥーバとディケセルは、大昔、惑いの森も含めてひとつの国だったんだ』
稀人と疫病の噂について教えてくれたあの日、テュオルは唐突にそう言った。
『その頃から、多くの稀人は惑いの森の西、ディケセルに行っていたと聞く。前回の稀人も、ディケセルで天寿をまっとうしたそうだよ』
そう独り言のように言った後、テュオルは祈るような目を佐野に向けた。
『惑いの森にいれば、ディケセルのコントゥシャ神殿の神官が、見つけてくれる。彼らは定期的にあそこを訪れているらしいから』
(あの時には多分寺下先輩から圧力を受けてたんだわ……)
ならそう言えばいいのに、そうしたら一緒に逃げる方法を考えることだって、と思ったところで佐野は力なく首を振った。
自分には何の力もない。それどころか言葉すらまともに話せない。いくらテュオルが陽の位の出、女王の従弟と言っても、その女王すら寺下と共にあそこに立っていたではないか。
(私じゃ彼を助けるどころか、足手まといにしかならなかった。テュオルもそう知ってたんだわ。だから何も言わなかった……)
彼のことだ、佐野を不安にさせたくないと気を使ってくれたのも確かだろう。でも……、
「テュオルの馬鹿」
話してほしかった。
それ以上に、話せないと彼に思わせた私は、もっともっと馬鹿だ。
「……っ」
血走った目をぎらつかせた人々が、よく聞き取れない言葉を話しながら、すぐ横を通り過ぎた。
佐野はくじいた足と泥水でびしょ濡れの体を小さく縮め、息を殺して彼らを過ごす。
雨はいつの間にか止んだ。分厚い雲が割れ、夕日が辺りを照らし出した。
なぜ今晴れるの、と佐野は唇をかみしめ、一刻も早く日が暮れることを祈った。日が沈めば、闇が佐野を助けてくれる。惑いの森であんなに嫌悪した、この世界の夜をありがたく思える日が来るとは、想像もしていなかった。
(――水、川の音……)
音が、においがする。そう認識した瞬間、希望が生まれた。この牢獄のような街から出られる。
「……」
切り出された白い岩で護岸されたその水路は、連日降っている雨のせいだろう、ひどく流れが速い。水も想像していたより濁っている。
(どうしよう、この中に入って身を隠しながら逃げる……? 流れ、速すぎない……?)
夕日から顔を隠そうと、佐野はフードを目深にかぶる。そして水路に近づき、水深と水量を確かめるため、身を屈めた。
「……っ」
鋭い何かが耳元で風を切った。右肩に熱さを感じる。肩に何かが生えている。
(……血、が……)
『やったぞっ』
『捕まえろ、殺せっ』
矢で射られた――日本ではありえない光景に衝撃を受け、疲労と痛みと相まって気が遠くなり、体勢が崩れた。
「っ」
大きな水音と共に火照った全身が冷える。
茶を帯びた水の中、大小の白と透明の泡が赤と金に輝く水面に向かって、佐野から遠ざかっていく。
水に落ちたと認識するなり、佐野は必至で足を動かした。だが、早い流れにリネルの裾がとられる。長い髪が水流に引っぱられていることもあって、態勢がうまく整えられない。
「ガホッ」
焦りつつ無我夢中で手足を動かし、何とか水面に顔を出した。だが、波にのまれ、思いっきり水を飲み込んだ。
(ああ、待って、待って、いや、いやだ……っ)
岸に手を伸ばすも届かない。浮き沈みを繰り返しつつ、凄まじい勢いで流されていく。徐々に水に顔が浸かる時間が伸び、息が苦しくなっていった。
「っ」
なんとか顔を出せたと思った瞬間、何かが頭にぶつかった。くらくらする。また頭のてっぺんまで水に浸かる。
(……ここで死ぬ、の……?)
頭上の光と共に、意識が遠ざかる。
(ああ、もう本当にだめかも……)
そう思った瞬間、自分が殺した宮部と江間の顔が浮かんだ。テュオルより先に死ぬのだ。なら、地獄に行く前に彼らを探して、自分で謝ろう。これ以上彼に迷惑をかけられない。
脳裏の彼はひどく苦しそうに佐野を見ている。胸が搔きむしられる。ゴボリと音が立って、自分の口からひと際大きな泡がこぼれ出た。
(ごめん、ごめんね。ほんとに、ごめん……)
父と母、姉がその彼の横に並んだ。どうせなら笑った顔を見たかったのに、みな悲しそうな顔をしている。
(お願い、そんな顔しないで。テュオルも……)
水の中でなお目頭が熱くなった。その瞬間、大事な人たちの顔が、先日見た寺下の歪な笑い顔にとって替わった。
「っ」
目の前が赤く染まる。ゼンブ、ゼンブアイツノセイ……――。
視界から水面の光が消えた。周囲が暗くなる。手足から力が抜ける。そうして濁流に押し流されるまま、佐野は意識を手放した。




