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故地奇譚 ―嘘つきたちの異世界生存戦略―  作者: ユキノト
第13章 処刑 ―バルドゥーバ―
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13-1.夢見のち悪夢(佐野)

「はあ、はあ、はあ…」

 脇腹が痛い。心臓も肺も破裂しそうだ。

 少しでいいから休みたくて、佐野は乱雑に積み上げられたゴミ山の影に身を滑り込ませた。水たまりだらけのぬかるんだ薄暗い路地は、迷路のようだ。

「っ、ゲホっ」

 ここでしばらくやり過ごそうと思ったのに、大きく息を吸い込んだ瞬間に蒸れた腐臭に鼻と喉を刺された。目から涙が滲み出、そのまま思いっきり咳き込む。

『――いたぞっ、稀人だ』

「っ」

 立てたはずの悲鳴は、乾いた喉の奥でつぶれて音にならない。

 膝がかくかくと震えるのを何とか動かして、佐野は必死に路地奥を目指して走る。獣の皮を重ねた靴はとっくに濡れそぼり、巻頭衣の裾は泥水で汚れ、どちらもひどく重い。

 湿気を含んだ雨季の空気に、汗は蒸発することなく滝のように流れる。この世界の布はあまり水分を吸ってくれない。巻頭衣の下の肌着が汗ばんだ足に絡んで、足がもつれた。

「…っ」

 舗装どころか整地もされていない凸凹道の水たまりに足を取られ、佐野は湿った水音を立てて倒れ込む。

『殺せっ、すべてぃあんつのせい』

『あれ消さすれば、びょーき消ぇようが』

『タジボーグ神のご加護を取り戻せっ』

『うちんガキを返しんやっ』

『殺してやる』

 背後から聞こえてくる言葉は、習ったものとは微妙に違って、ただでさえ言葉の問題があるのに、さらにわからない。でも、悪意を持って迫ってきているのはわかる。

「……」

 自分へと向かってくる“人”が一人、また一人と増えていき、塊になった。誰もが棒やナイフを持ち、ギラギラした目を佐野へと向けてくる。

(殺される――)

 佐野は泥まみれになりながらも立ち上がると、また走り出す。足を痛めてしまった。足は速い方なのに、スピードががくんと落ちてしまう。

「……っ」

 両眼からボロボロと涙が溢れ出した。もう何時間逃げ回っているかわからない。

 佐野が城を出されたのは昼過ぎだったはずだ。今、分厚い雨雲が割れた所からは、重苦しい夕焼け空が覗いている。

(なんで、なんでこんなことに――ああ、それよりもテュオル……)

 彼の安否を気にかけ、佐野は夕焼け空を涙目で睨みつつ、ぎゅっと唇を噛みしめた。



 佐野がバルドゥーバに来た際に、“世話人”としてつけられテュオルは、とても穏やかな人だった。年は自分より六歳上で、女王の母方の従弟にあたると聞いた。

 一緒にこちらの世界に来た他の日本人と交流する気にもならず、かと言ってバルドゥーバに馴染むこともできず鬱になっていった佐野の世話を、甘やかすことなく、でも根気よくしてくれた。

『この国に馴染む努力をしていると見せる必要があります』

 菊田や寺下と顔を合わせたくなくて、この国の言葉や習慣についての授業に出たくないと言った時、彼は『サノの身を守るために必要なことです』と諭してくれた。

 反発しながら嫌々出ていたが、それが正解だったと悟ったのは菊田が砂漠に送られたと知った時だ。

『サバク……?』

『確か、desert? 強い日差しで雨が少なく、植物も限られる、砂と乾いた土の』

『待って待って待って、サバクは「つまり、砂漠ね」、水がない……? は、死ぬということ?』

『いや、オアシス……はわからないね、とても大きな池があって、その畔、すぐそばに陛下の休暇用の城と、その、家畜小屋、があって』

『カチクは、人が飼う動物のこと、合ってる? 「ひょっとして……」菊田先輩が、送られたは、家畜小屋なの……』


「残念だけど、仕方ないかな。不平不満ばかりだったから、菊田先輩。このままだと僕らもとばっちりを食らうし」

 その頃には顔を合わせることがほとんどなくなっていた福地を捕まえて、なぜ、と聞いた時、彼は天気の話でもするかのようにそう言った。

「最近は仕事を頼まれて忙しいの」

 聞いてもいないのにそう言った寺下は、優越感をにじませながら、困ったような顔を作る。そして、「稀人としての価値がなければ、そりゃあねえ……」と菊田のことを言い、含みのある顔で佐野を見た。

 背筋が寒くなった。この人たちは同じ日本人とか関係ない。自分に害があると判断すれば、使えなければ、菊田にしたように当たり前の顔で切り捨てる――。

 それから、ひどいことをしたのに化け物に襲われて悲鳴を上げた自分たちを助けに来てくれた宮部と、自分も死ぬかもしれないのにその宮部を助けに走った江間を思い出した。

 江間もだが、宮部も決して自分のために人を追いやったりしないだろう。

 所属を決めるために佐川教授の研究室に見学に行き、菊田や他の先輩に江間目当てじゃないかと絡まれた時、院試や卒論の研究で行きづまった時、文献が見つけられなかった時――宮部は困っていた佐野に、いつも淡々と手を貸してくれた。親しいとは絶対に言えない間柄だったのに。

「……」

 そして、その彼女を陥れ、見捨てた自分も、福地たちと何も変わらないと悟って死にたくなった。


 再び鬱状態になった佐野を支えてくれたのは、テュオルだった。自分への嫌悪と、江間と宮部への懺悔を吐き出す佐野に、根気よく付き合ってくれた。

『エマとミヤベは立派な人だとは思う。けれど、そんな風にふるまえば、長生きできない。実際そうだっただろう? 彼らは愚か、バカだ』

 冷静な意見ではあったが、あんまりな言葉でもあった。絶句した佐野にテュオルは苦笑を見せた。

『けど……ミヤベはともかく、私にもエマの気持ちはわかる気がする。愚かだとわかっていても、そうしてしまうことはある』

『愚かと、わかっていても……』

『その人のためなら命を懸けてもいいと思える。そういう感情なら私の中にもある』

 そして、『あるとは思ってなかったんだけど』と困ったような顔をした後、彼は少し頬を赤らめて、佐野をまっすぐ見た。

『サノ、この世界に来たことを、君が喜んでいないことは知っている。でも、私は君がこの世界に来てくれて、出会えてよかった。ずっと守るから、この先ずっと私と一緒にいて欲しい』

 そう言われてひどく驚いた。色々な意味であり得ないことだった。

 彼は好きで佐野の世話人になったわけではないと噂で聞いていた。思慮深く、知識も豊富なテュオルは、女王の知恵袋と言われている知処のホープだったらしく、野望を持つ人であれば誰しもが望むという稀人の世話人を命じられた時も、彼だけは辞退したがった、と。実際、彼は野心ある福地や寺下、彼らの付き人を苦手にしているようだった。

 しかも、彼は佐野が宮部たちにやったことをすべて知っていて、佐野を非難することこそなかったものの、それが人の道から外れた行為だと判断する感覚も持っている。

『思ってもみませんでしたという顔をしているね……』

『だ、だって、私の、世話、嫌だったでしょう? じ、事実? 嫌な人間、なのも知ってるし……。それに、ずっと、子供、扱いだった』

『本気で言ってる? 鈍すぎる……』

『ニブイって敏感の反対? って言われても、こっちの感覚、わからないし……「え、ええと……」、本気、なの……?』

『君は稀人で、違う世界に生まれ育った。神の使いであり、国の宝でもある。それを自分だけのものにしたいなんて、愚か以外の言葉がない。何度も諦めようとした。でも無理なんだ。君がいない人生はもう考えられない』

 アイスブルーの瞳を見つめるうちに、じわじわと喜びが広がっていった。ずっと寄り添ってくれるテュオルに、佐野も惹かれていたから。

 佐野の世話を嫌がっていたはずなのに、彼はずっと親身になってくれた。稀人である佐野にまつわる、様々な面倒事を可能な限り防いでくれたり、どうやったら佐野がここで少しでも幸せに暮らせるか、一緒に悩んでくれたりした。

 大人でしっかりしているのに微妙に天然気味で、一緒にいると笑ってしまうこともたくさんあった。ディケセル語の授業に出たくない、出なくてはいけないと言い合いをして、言い負けた佐野が自棄になって、目の前で寝間着から着替え始めた時には、慌てて部屋を出て行こうとして転んでいたし、頭を撫でると固まって真っ赤になったり。

 完全に彼のおかげだったのだ、一時自殺まで考えた佐野がこの世界で何とか生きてこられたのは。

『……ごめんなさい。嬉しい、けど、ダメです』

 けれど、テュオルの想いを嬉しいと思えば思うほど、許されないことだと強く感じた。

 宮部や江間にしたことを考えれば、自分はいずれ地獄に落ちる。そんな人でなしがテュオルのような優しい人間と一緒になることなど、できる訳がない。

 そう断った佐野に、テュオルは『じゃあ、その時が来たら、僕がミヤベセンパイとエマセンパイに謝りに行くよ、サノの代わりに。罰を受けろと言われれば、それもすべて僕が引き受ける。だから、その時まで一緒にいてくれ』と。


 そこからは、できることをしようと決めた。

 佐野は宮部や江間に到底許されないことをした。自分を責めても目を逸らしても、その罪は消えない。でも、そんな人間だと知りながら佐野を助けてくれて、敢えて望んでくれるテュオルを自分のせいで窮地に陥れたくはない。

 テュオルの実家は陽の位――王族に次いで、最も位の高い貴族だった。三男だから気楽な方だというけれど、『国に遣わされる』稀人を妻にするとなると、反発は避けられないとテュオルは言う。

 だから、福地のように国に囲われるほどの価値はないが、菊田のように追放されるほど使い出がないわけでもないと示す方法を探して、見つけたのが横笛『ソシャ』だった。

 佐野の家はみな音楽好きで、父は幼い頃からピアノを習っていて、家族で団らんしている時引いてくれた。母は音大の出で、今でもオーケストラに所属していて、父と一緒にバイオリンを演奏してみせてくれた。その影響を受けた姉も音大を出たし、佐野も志望校をA大に決めるまで、フルートの先生に師事していた。

 ソシャを見た時、これならいけるのではないかと思い、テュオルに頼んで手に入れてもらったのだ。

 その予想は当たった。多少の音の違いや音階のあるなしがあるけれど、その辺は曲の方をアレンジすればいい。

『……』

 こっそり練習して、はじめてメヌエットをテュオルに聞いてもらった時、彼は固まった。 演奏が終わっても一言も発さず、やはりダメだったのかと落ち込んだ瞬間、彼は『素晴らしい、すごいよ、サノ……っ』そう叫んでくれた。


 それからはどんどん話が進んでいった。

 テュオルの両親に会い、女王陛下に謁見し、ソシャを演奏する。お褒めの言葉をいただき、バルドゥーバの貴族たちの夜会にも頻繁に呼ばれるようになった。

 佐野は福地のようにバルドゥーバの力を強化する真似は出来ないのに、偉い人たちが自分の奏でる音楽を評価し、自分にまで敬意をくれる。

 “尊き稀人”を擁すると、女王の徳を讃える声も頻繁に耳にした。

 そうして、テュオルとの結婚が認めてもらえるようになるまで、あっという間だった。


『サノ、心から愛している』

 抱きしめられて、テュオルにそう囁かれる日々は、幸せで幸せで……なのに、そんな時間が増えるほど、「このままなんてことがあるのだろうか」と思うようになっていった。

 今思えば、「あんなひどいことをした自分が幸せになるとかあり得ない」と、心のどこかで知っていたように思う。


 年明けの婚礼に向けて、青と金、白でできた衣装が準備され、仮縫製段階のそれを試着したのが、ついこの間のことに思える。

 あわせて身につけるネックレスとイヤリング、髪飾りをテュオルの両親に手ずから贈られた。

『あなたのご両親にも見せて差し上げたいわね』

『知らぬ土地ではあろうが、私たちも支える。幸せになりなさい』

 冷酷で残忍なバルドゥーバ女王の伯母とは思えない、優しいテュオルの母と、国内最高位の貴族である彼の父にまで温かい言葉をかけられて、佐野は泣き出した。嬉しかっただけじゃない。こんなふうに優しくしてもらっていい人間ではないのに、と申し訳なく思ったからだ。

 本当にこのままテュオルの手をとっていいのだろうか?

 幸せの合間にふと忍び寄る疑問――手を取るも取らないも、自分で選ぶことができなくなる罠は、その頃には既に張り巡らされていた。



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