12-7.“家”
『……すみません』
『いえ』
ヒュリェルにもらったハンドタオルを渡す以上のことを思いつかず、あれから四半刻ほど郁はタグィロが泣くのに付き合った。
ずずっと鼻をすする彼女の印象は、泣く前とガラッと変わってひどく幼く見えた。ひっ詰められた彼女の紫の髪は、炎の明かりに照らされて、赤紫のグラデーションを見せている。
『……先ほどお尋ねになった私の実家は、ここからホダで七、八日ほど北にある大神殿の東、バル河の支流沿いにあるリバルです』
埃だらけの椅子に腰かけて膝を抱え、そこに顔を埋めたまま、タグィロはぼそぼそ話し始めた。
郁は頷きながら、惑いの森で車を突き落とした洞窟裏の渓谷がバル河と呼ばれていたことを思い出す。――稀人、日本人とゆかりがあってもおかしくない。
『長くそこに住む地の民の旧家で、父は統官を務めておりました。でも私が十四、兄弟がまだ幼いうちに亡くなりまして……お恥ずかしい話ですが、父の弟に家から財産からすべて取られて、母や兄弟たちと一緒に追い出されてしまいました』
タグィロは真っ赤になった目を瞬かせる。
『叔父が言う相手と結婚することもできたんですけど、どうしても嫌で……。父が教育熱心な人だったこともあって、文官になれれば家族を養えると思って王都に出たんです。いつか父のように国のために働けたら、と思っていたので……。でも女はダメだと言われて、はるばるメゼルまで来ました。あとはご存知の通りです』
メゼルでは女であっても、内務処官見習いの職を得ることができた。正官の受験資格も認められていて、希望も持った。なのに、何年経っても登用試験のための推薦をもらえないし、受験を勧められることもない。自分より物を知らず仕事ができない、もしくは同程度の男たちはどんどん見習いを卒業していく。女性たちからは『自分とは違う』と遠巻きにされる――。
『ごめんなさい、完全に八つ当たりなんです……。内務処長に目をかけられているあなたたちを自分より下に見ることでプライドを保とうとしていたのに、実際は私よりすごくて……私、そろそろ城で働くのをあきらめたほうがいいのかも。町中なら男女あまり関係なく雇ってもらえるし』
眉根を情けなさそうに寄せて縮こまった彼女を見て、似ている、またそう思ってしまった。遠巻きにされていた理由は違う。けど、本当によく似ている。
望んで手を伸ばしても、その手を取ってくれる人はいない。いてもすぐに振り払われる。それなら最初から望まなければ傷つかない――。
郁は長々と息を吐き出した。
『タグィロさんは優秀な方だと私は思っています。他にもそう思っている人はいる。でも、あなたはそれに気づかないふりをしている。違いますか?』
『っ』
息を呑んだタグィロをまっすぐ見つめた。
郁も同じことをしてきた。遠巻きにされていることを知りながら、そのままにした。心無い人たちは実際には一部なのに、周りがすべてそうであるかのように思い込むことで、努力しないことを、望まないことを正当化した。そうすれば傷つかないですむ。
≪なんで言わない、なんで望まない。宮部が言えば、望めば、助ける、必ず≫
怒ったような、泣きそうな顔をしてそう言った江間の、今よりずっと幼い顔を思い出す。
あの時ちゃんと望みを口に出来ていれば、違う日々になっていたのかもしれない。
≪じゃあ、望んでくれ≫
惑いの森であの晩、彼と共に行くと望んだことで、違う今となっているように――。
『登用試験、受けてみては? オルゲィ内務処長に頼めば、推薦状は書いてくれると思います』
『処長、に頼む……?』
信じられない顔で呆然と呟いたタグィロに、郁は真顔で頷いた。
『誰もくれないなら、くれと要求しましょう。どうせなら上の人がいい』
祖父の甥でもあるあの人は公平さといい、実直さといい、祖父によく似ている。そして、少し不器用なところも。
祖父は率直に言って気の回る人ではなかった。お人よしと言う意味では江間に似ているけれど、その点では本当に全然だ。そのくせグルドザの規範だからか、弱者、女性や子供に対する妙な保護意識があって、妙な遠慮をしたりいらない気を回したりして、よく祖母を呆れさせていた。
オルゲィはグルドザではないけれど、彼の妻や娘に対する態度を見ていると、その辺もそっくりだし、これだけ聡明なタグィロに試験の声がけをしていないのであれば、余計な気を使ってのことではないかと思う。現にオルゲィは、彼女を内務処に置き続けているわけだし。
『万が一ダメなら、噂の気鋭の商店を紹介します』
郁は小さく微笑むと、戸惑いと躊躇いで動揺するタグィロが握りしめたままの好水布を指さした。
(学校みたいだな)
地下から上がれば、ちょうど終業を知らせる鐘が鳴り響いた。城郭の向こうに見える秋の日は既に西に傾き、あたりを金色に輝かせている。
凝り固まった体を伸ばそうと、大きく伸びをすれば、涼しい風が頬を撫でて行った。
『お疲れ様でした』
『待ってっ。あの……あ、ありがとう、ミヤベ』
報告しろと言われているわけでもなし、このまま帰ろうと別れの挨拶を口にすれば、タグィロは吹っ切れたような笑顔を返してきた。
「……」
自分に関係のない人ではある。でもどうせなら笑っている方がいい。そう思った瞬間、自然と微笑みが零れた。きっとこれはあのお人よしの影響だ。
『あと……また明日』
『また明日』
明日の約束がなんだかくすぐったくて思わず笑いかけた先、タグィロの顔は夕日に照らされて赤く染まっていた。
「――宮部」
「っ」
低い呼び声と共に頭をわしっと掴まれて、顔を無理やり回転させられた。
「……江間」
今まさに考えていた人の顔が目の前にある。しかも気のせいでなければ、微妙に不機嫌だ。
「今日は鉄処に新しい炉の話をしに行ったんじゃ?」
「そっちは問題なし。今頃、爺さんと鉄師たちが、大盛り上がりで図面を引いてるはずだ」
ご機嫌で帰ってくると思って朝別れたのに、ひょっとしてうまくいかなかったのだろうか、と眉間にしわを寄せれば、江間も負けじと眉を顰め、「こっちにも、気を使わなきゃいけないのかよ」とぶつぶつ呟いた。
「……もう帰り?」
「ん? ああ」
自分より頭半分高いところにある顔を見上げれば、その背後の夕焼け空を、極彩色の長い尾羽を持つ黒い鳥が「ジャージャー」と鳴きながら飛んで行く。
地上の郁たちの周囲では、様々な見た目の人たちが石作りの廊下やその脇の中庭を、城門に向かって歩いている。みな家路に着くのだろう。
家――故郷で郁がなくしてしまったそれが、なぜかこの異世界でできた。それも不思議だが、その家に江間がいるというのが一番奇妙な気がする。
「なら……一緒に帰る?」
「……ああ」
赤みを帯びた光に横顔をさらした江間が、目をみはった後、郁へと顔を向けて目元を緩めた。
「……」
その顔になぜか祖父母を思い出した。次いでリカルィデやヒュリェル、オルゲィや彼の家族たちの顔が浮かんで消えていく。
「なんか機嫌いい?」
江間に口元をつつかれて、「普通」と返せば、「そっか」と言いながら、彼は小さく笑った。
どちらともなく並んで歩き始める。横目で江間を伺えば、視界に入る口角がまだ上がっていた。
正門をくぐって跳ね橋を渡ると、たくさんの人が城から街に続く坂道を下っていくのが見えた。そこに郁と江間も紛れる。
白い石が敷き詰められた道は空の色を受けて、今はオレンジとピンクに染まっている。
「? どこに行く?」
江間がいつもの角を曲がらない。毎日そうしているように、リカルィデを迎えに行くつもりだった郁は首を傾げた。
王弟の城より街のほうが、“今は亡き”アーシャル王子を知る人がいる可能性は低い、自分たちに万が一があった時巻き添えにしたくない、生きていく手段を持っていて欲しい――リカルィデへの監視が緩いこともあって、郁と江間は城ではなく、ヒュリェルの新しい店を彼女の居場所にした。
だが、そう話した時、リカルィデは悲愴な顔をした。きっと見捨てられるような気分になったのだろう。そして、それは彼女のこれまでを考えると、とても自然なことに思えた。実際迎えの度に、彼女はほっとしたような顔を見せる。
「まだ日もあるし、ちょっと歩こうぜ。たまにはいいだろ」
といたずらっ子のように笑う江間に、郁もつられて笑う。
「リカルィデにばれたらすねない?」
「……途中でなんか買っていくことにする」
「それ、余計ばれる」
声を漏らして笑えば、「それもそうか」と言いながら、江間は顔を顰めた。
「ばれてなお怒る気にならないくらい、リカルィデが気に入るもの……」
それでもあくまで寄り道はする気らしい。結局その話に乗ってしまう自分に苦笑しながら、郁は夕刻の石畳を江間と並んで歩き出した。
その背後をコルトナとエナシャが、『なんでだろ、手も繋いでないのに、声、めっちゃかけにくい……』『俺、エマに恨まれるの、ヤダ。声かけないで、見張るだけにしようぜ』『それはそれできつい気が…』とぶつぶつ言いながら、追いかける。
二人の距離はいつも通りなのに、夕陽に伸びる長い影は親し気に寄り添っているように見えて、あの先に踏み込みにくい。




