7-1.尾(オルゲィ)
初夏に流行り始めた疫病はディケセルのみならず、バルドゥーバ、クルーシデ、ケッゼニーニ連合王国、モッペルゲ国を襲い、今なお猛威を振るっている。特に人口の集中する場所の被害が大きく、全人口に対する死亡率が三割にもなる都市もあるという。
今のところそこまで深刻な被害には至っていないだけで、メゼルディセル領でも全域で感染者が発生している。対策を命じられた医務処からは、罹った時助かるかは五分と報告があった。人同士でうつるようだが、いまだ詳細がわからず、また決定的な治療法も見つかっていないため、誰もが戦々恐々としている。
そんな中、流行が収まりつつある地域があると聞いて、ディケセル国王弟シャツェランの元で内務処長を務めるオルゲィ・リィアーレは、王弟領メゼルディセル内で南東端に位置するギャフプ村を訪れた。
『ギャプフ区域の感染状況はどうなっている?』
『既に封じ込められつつあります。一日の新規の発生は十名を切りました。現時点での死亡者数は、全人口約一万に対して四百人です』
『……随分低いな。感染した者のうち、死亡したのはどれぐらいだ』
『当初は半分ほどでしたが、現在は四十~五十人に一人程度かと』
村とそこにある流入民の保護区域の管理を任されている統官から報告を受けたオルゲィは、予想をはるかに超える状況に目をみはった。
『どのような施策をとった?』
そう聞かれることを予測していたのだろう。微妙に得意げに、統官は自分たちが講じた対策を列挙していった。
この感染症は水を介して広がるものであるため、周辺河川の下流地域に専用の建物を用意し、患者を隔離したこと。そこでは治療の一環として、湯に塩と実蜜を溶かしたものを患者に飲ませ続けたこと。病を克服した者を患者の世話にあたらせたこと。遺体や病人から出たものは水源や畑、人里から離れたところに埋め、特殊な石を焼いた粉をかけるようにしたこと。病人の触れたものは、ラゴ酒をしみこませた布で拭くようにしたり、湯で煮たりしたこと。洗衛石で手指を洗うように指導していること。水や食べ物には火を通し、他人が調理したものを避けるよう民に触れを出したこと。上水と使用水を完全に分けるようにしたこと……。
『……』
咄嗟に言葉が出てこなかった。
ここにいたるまでに、オルゲィは各地の城の蔵書師や神殿の覚書官、市井で賢者と呼ばれる人間、各宗教の長などに話を聞き、他地域での被害状況も確認した。神の怒りだの、どの宗教に帰依すればいいだの、聖水やお守り、祈祷だの、あの食べ物が良くてあれはダメだの、そんな話ばかり聞かされてきた中で、ここの統官の話は異質も異質だった。
(いや待て。一つだけ似た話があった……)
あれはメゼルの街の再開発に際しての主君、シャツェランの言葉だ。『水道、そして下水道を整備せよ』『使用していない水と使用後の水を交わらないようにするのだ』と。
そしてシャツェランはそれを稀人の知恵だと言っていた――。
(稀人、の、知恵……)
オルゲィは知らず肌を泡立てる。
『……洗衛石とはなんだ』
なんとか言葉を思い出してみれば、それも統官は予想していたのだろう。
『ドルラの住まうセジナ洞窟から得られる物で、かの神の加護により病を引き起こす、人の目には見えぬものを退治すると』
統官は巻頭衣の上掛けのポケットから灰色の物体を差し出し、側仕えのグルドザに水を持ってくるよう告げた。
『お手を拝借できますか? 失礼いたします』
唇に紅をさすのに使う色油を左の掌に塗られ、そこに洗衛石のかけらが置かれる。
『こすってみてください』
少量の水をかけられて、言われるまま右の指でこすれば、ぬめりを感じた。見る間に灰色に赤が混じる。
『このように落ちにくい汚れも落とします。目には見えずとも病の元も同じかと』
『……』
――当たりかもしれません、殿下。
オルゲィは知らぬ間にたまっていた口内の唾液を、音を立てて飲み込んだ。
五十年ほど前、オルゲィの叔父が護衛していたディケセル王女を異国へと連れ去ろうとして死なせた。その罪を問われ、長くディケセル王国を支えてきたリィアーレ家は離散し、幼いオルゲィは両親と共に辛酸を舐めて生きてきた。
そんな状況が変わったのは、八年ほど前のことだ。現ディケセル王の周辺の者たちと対立する王弟シャツェラン・ディケセルが自らに仕えるよう、リィアーレ家の縁者を探し出してくれたのだ。
その中でもオルゲィは、特に重用されていると言えるだろう。状況に絶望し、堕落していった者、命を絶った者、その日暮らしに追われる者が少なくなかった一族の中で、弟の無実を信じ、『いつか真実が明らかになる』と、貧窮の中で自分に教育を施してくれた今は亡き父に、オルゲィはひどく感謝している。
そのシャツェランからこの辺境の村に行くよう言われたのは、何も感染症の状況確認のためだけではなかった。
『稀人を、異なる知を持つ者を探せ』
人払いの上、内密にそう告げた主の顔を思い返し、オルゲィは平静を装って声を発する。
『それは誰の考えだ?』
ここギャプフはバルドゥーバを含めた四カ国の国境の地であり、惑いの森とも接する難しい場所だ。そこにシャツェランが配置したこの統官は極めて有能な人間だが、発想が違い過ぎる――。
『……』
統官の動揺を察知したオルゲィは、『誠実に責務を果たす者を、殿下は重用なさる』と告げた。
だが、手柄を自分のものにするつもりは、統官にはなかったらしい。彼はほっとしたように息を吐き出すと、
『ご明察恐れ入ります。実はその者たちの保護をお願いできないかと考えておりました。病を抑えるために多大な貢献をしてくれたのですが、この機に教えを広げようとしていた双月教徒に、何度か殺されかかっておりまして…』
と沈痛な顔を見せた。




