33-9.カィーラ氏族
『……出身はどこだ?』
『私自身に記憶はございませんが、イゥローニャ山脈のカッサスルあたりと聞いております。それがどこかはよくご存じでしょう、“元バルドゥーバ人”の宮宰さま』
バルドゥーバがイゥローニャ族を迫害してきた歴史をほのめかし、今後イゥローニャ族について何を訊かれても答えを回避できるよう布石を打つ。
(……? 鼻で笑うか、憎々しげな顔をするかと思ったのに……)
だが、その言葉は予想外の効果をもたらした。バンケゥジュは目を見開き、顔を強張らせた。皮肉が効いたのかもしれないが、それにしては顔色が悪い。
ごくりという唾液をのみ込む音が響いた。背後では彼の従者たちが横目で郁を捉えたまま小声で何かを話し始めた。
『……お前が真にイゥローニャ人であるなら、奴らの言葉を話してみろ』
『バルドゥーバに縁のある場で絶対に話すなと言い含められております。理由はご推測いただけるはずです』
『私はディケセルの宮宰だ』
『用心深くならざるを得ない我らの心情をご理解くださるとのこと、心より感謝申し上げます』
バルドゥーバとの対立が続いていた先王の治世下で、ディケセルはイゥローニャ族を含む、バルドゥーバの迫害に苦しむ人々を保護した。
バルドゥーバの傀儡と化した現王の代になってもそれが覆ることはなかったという。政治や信条などが理由ではなく、『現王は物事を荒立てたくない、悪者になるのが嫌という人だから』とリカルィデは言っていたが、結果としてディケセルは“善”、バルドゥーバは“悪”だと国際社会でみなされて、道義的な盟主の立場だけは保持できているとのことだった。
その宮宰にあたる立場の者であれば、バルドゥーバを警戒するイゥローニャ人の心情を理解し、イゥローニャ語を話せとは言わないはず――バンケウジュの意図が真逆であると知りつつ、彼の立場を逆手にとってシレっと言い放てば、彼は顔を歪め、苛つきを露わにした。
『ギャプフ村の難民キャンプにいた際、流行り病を収めたと聞いた。どこでそんな知識を得た?』
『村人及び避難民たちと共に、事実を元に推論を重ね、試行錯誤いたしました』
『民衆がそのように賢いわけがあるか。お前の入れ知恵であろう』
『愚かだと決めつけず、相応に扱おうとしてくださる方の元に集う民は違う――勉強になります』
攻撃的な当て擦りに、バンケウジュの顔がついに赤く染まった。
シャツェランは皮肉に笑い、江間からはあまり煽るなと言いたげな、咎めるような視線を受ける。
『洗衛石はどう説明する気だ?』
『作り方をお教えいたしましょう。難しいものではまったくないとご理解いただけるかと』
『土蟲については』
へえ、民衆の飢餓になどまったく興味がないくせに、知ってはいるのか、と郁は口の右端を吊り上げた。
奴らは土蟲対策を進言したコントゥシャ大神殿を無視し、あまつさえ地方神殿を中心に、民衆が自ら対策に乗り出したのを邪魔することもあったと聞いている。そんな労力があるのであれば、と予定になかった賦役に駆り出したり、双月教の神官を派遣して寄付を強要したり……。
『バルドゥーバにおいでの稀人さまは、この地の疫病への対処に苦慮なさったと聞き及んでおります。土蟲も同様にこの地固有のもので、稀人の故郷には存在しないものなのでは? つまり、私がもし稀人であったとしても、そのような生き物についての知識などないということになります。よって、私が土蟲に対処できたこと稀人であることを意味しない』
はっきり言い切った後、『先ほども申し上げました通り、先人たちが残した言い伝えをもとに、それを深めるべく皆で知恵を出し合って対処を考え、実行した、それだけの話でございます』とにこりと笑った。
バンケゥジュの頬がぴくぴくと痙攣し始める。
『あくまで自分は稀人ではないと……?』
『逆にお伺いいたしましょう、私のどこが稀人だと?』
押し殺した声に、しれっと応じた。
郁のディケセル語に淀みも訛もないのは、これまでの会話で十分わかるはずだ。普通に考えれば、稀人だとは思わない。
それを覆しうるのが、郁が半稀人だという事実なわけだが、と、郁はそうとわからないようにキギナを注視した。
だが、彼は唇を噛み締め、視線を伏せたまま、動かない。
キギナとバンケウジュの間に信頼はないと確信して、郁はせせら笑う。
キギナは既にカィセンテから、“寺下はコントゥシャの再来”説を聞かされたという。同時に『郁は稀人ではなかった』と言い含められたそうだ。
(これで、彼らは宮宰からも“メゼルのミヤベ”からも離れ、寺下派を作ろうと動き出すはず――)
『テラシタはともかく、バルドゥーバの宮宰であらせられるフクチさまもお前は同朋、稀人なのではないかとお疑いだ』
『フクチ、さま? 発音に失礼はございませんか? フクチさまがディケセルにお越しになり、ご要望なさるようでしたら、謹んでお目通りいたします。そうすれば、ご納得いただけるでしょう』
福地は絶対にこの話に乗ってこない、と知りながら、郁は神妙な顔を作る。
彼は人の顔を覚えるのがきわめて苦手で、それを人に知られることを恐れている。ディケセルに来て、違う服装と髪型、ディケセル語で話す郁を見分ける自信はないだろう。
実際バハルで、彼は郁に気付かなかった。元々用心深い上に、もし彼がバハルに郁がいたという情報を掴んでいるなら、さらに慎重になるはずだ。
『お前がバルドゥーバに来い』
『来い? はて、まるでバルドゥーバこそが、宮宰さまの本拠であるような仰りようですね?』
眉間に青筋を立てたシャツェランが口を開く前に、郁は『行けのお間違いですね』と微笑む。そして、『なにせ――本気で仰っています?』と小さく首を傾げ、顔を歪めた宮宰を睨み上げた。
『私個人の心情を申し上げますと、バルドゥーバの地に私が足を踏み入れるのは、彼の国を滅ぼす時だけです』
『っ、き、さま、バルドゥーバへの敵対を口にしたな……』
『――イゥローニャ人がバルドゥーバに親和するわけがなかろう』
顔をどす黒く染めたバンケウジュを遮ったのは、郁でもシャツェランでもなく、アドガンだった。こういう場面では黙していることが多い彼の擁護は、少し意外な気がした。
『黙れっ、ディケセルとバルドゥーバは友好関係にある。メゼルはそれを毀損するつもりだととられても文句は言えまいっ』
『個人の心情と申し上げたはず。もちろんシャツェラン殿下のご命令であれば、彼の国に参ります、大人しく友好的に』
『個人の、などという理屈は通用せぬ。この者はディケセルの安全を脅かすとみなす。殿下もお庇いならないことをお勧めする』
『ありとあらゆる民族を奴隷にし、虐待するバルドゥーバ人であれば、奴隷たちの内心まで監視・管理せねば、国が立ち行かぬだろうが、ここはディケセルだ。私の臣下が私の命に従う限り、内心は問題にならない』
ようやく攻撃の糸口を見つけたからだろう、バンケウジュは郁を糾弾するが、シャツェランは顔色一つ変えない。
『っ、メゼルに逆心ありと陛下にご報告申し上げるっ』
『ゼイギャク、私は一言でもバルドゥーバへの敵対を口にしたか?』
『いいえ』
『では、シドアード、私の一臣下のバルドゥーバへの個人的な感情が、なぜディケセルへの逆心になるのか、理解できるか?』
『さっぱり』
ゼイギャクとシドアードを相手に、シャツェランが隠す気のまったくない陰口を叩いた。
『っ、減らず口は慎んでいただきたいっ、いかな殿下といえども、』
『個人の自由を認めぬ、と……? であれば、ディケセルの自由故に許されているこれも、認められるべきではないな』
逆上したバンケウジュのすぐ脇に、いつのまにかアドガンがいた。全員が瞠目する間に、恐ろしい速さと正確さで、彼は宮宰の側頭部、髪に隠れた大きな耳へと手を伸ばす。
『っ』
声のない悲鳴を上げ、宮宰が耳を抑えた。信じられないものを見る目でアドガンを見つめるバンケウジュの指の間から、じわじわ血が滲み出てくる。
『蛇の耳飾り――バルドゥーバの国章か』
ゼイギャクの呆れ声に、アドガンは『何がディケセルの宮宰だ』と鼻を鳴らすと、血の付いた金のそれを床に捨て、踏みつぶした。
『っ、き、きさまっ』
『静かに暮らしていても、イゥローニャ人がバルドゥーバへの怨念を失くすわけがない――』
アドガンはただでさえ鋭い目つきに殺気を乗せて、宮宰を睨み据えると、右手を首元の巻頭衣の合わせ目にかけた。そこをぐっと広げ、左腕を抜く。
前に温泉で見た、二の腕から肩、胸にかけての美しい幾何学模様のタトゥーが露わになった。
『……あ……カ、ィーラ』
それを見た宮宰の顔から、完全に血の気がなくなった。キギナや宮宰の従者の数名も蒼白となり、震え出す。
『うそ、うそ、だ……、だって、滅んだ、と……』
『やめてくれ、こ、殺さないでくれ……っ」
『バルドゥーバを恨む民は、我“ら”イゥローニャ族だけではない――その恨みを個人の心の内に留めておけるよう、せいぜい気を配れ』
『ひ……』
何が起きているか咄嗟に把握できない郁の目の前で、アドガンは肉食獣が吼えるかのような顔を見せた。バルドゥーバ人たちが悲鳴を漏らした。
彼と目の合った華美に装飾されたグルドザの制服を着た年嵩のグルドザが、震えながらスオッキに手をかけ、『よ、寄るな、寄るんじゃないっ』と後退る。
それが合図になったのか、宮宰は弾かれるように踵を返し、慌ただしく部屋を出て行った。




