5-1.避難民キャンプ
『ミヤベ、これ、エマに。うちの子、昨日の前、エマに、ええと、めんどみてもらった。お礼。伝えて』
惑いの森を南に抜けた先の村にある、難民キャンプのような場所。そこの管理官に居所として割り当てられたキャビンに戻る途中、郁はレモンイエローの髪に、黒っぽい肌をした、クルーシデ人の若い女性に話しかけられて立ち止まった。
呼ばれた二人の名前は、リィアレとエンバと響く。こちらの言語には、日本語のマ行にあたる音がなく、バ行やラ行に近いものになるせいだろう。
ほんのり頬を染めて近寄ってきたその女性から、郁はサツマイモに似た味と触感で、さりとて微妙に土臭い匂いのするシガという食べ物を手渡された。
『そういや、うちの子も一緒に遊んでもらってるって話だよ。毎日毎日「ガッコウ」から戻るなり飛び出して行っちまうから、今日もエマを探して付きまとってるんじゃないかね』
『ほんといい子だよ、あの子は。言葉なんかみんなてんでバラバラなのに、だーれも気にしないで、きゃっきゃきゃっきゃ騒がしいったら』
初夏のきつい日差しを受けながら、水路で洗濯をしている近所の人々が口々に言って笑い合っている。一列に並ぶ彼女たちの髪の色は、青、黒、緑、オレンジ、茶、水色、ピンク、本当に色々、肌の色も様々だ。
「……」
曖昧に頷きながら、郁は彼女らが触れている水路の水を見つめた。
(あの水は、確か飲用水場から流れてくるものだと言っていたっけ。飲用水場は井戸水、深い地層から滲み出る地下水で、飲み水を汲む以外は禁止しているという話だった。なら大丈夫か……)
性質の悪い流行り病が出ているという噂を思い出し、目を眇める。
ふと後ろを見れば、郁の背に隠れるようにくっついているアーシャル王子改めリカルィデがそわそわとしていて、郁もくすりと声を漏らした。
『リカルィデも江間を探して一緒に遊んでおいで』
『っ、ベ、別に遊びたいなんて思ってない。私は子供じゃない……っ』
真っ赤な顔で食って掛かってきたが、郁が応じる前に大人たちの更なる笑いが響いた。
『あはは、子供こそ子供じゃないって言うんだよ』
『まあ、いいじゃないか、リカルィデも元気になってきたってことさ』
『あの怪我で、熱が続いてたもんねえ。ミヤベもエマもつきっきりだったし、ほんとに助かってよかった』
人見知りが激しいリカルィデは、予想外に話しかけられたこともあって、うぐっと変な音を立てて反論を飲み込む。そして、耳まで赤く染めながら、もごもごと『み、皆にも世話になったと……その……あ、ありがとう』と返した。また郁の陰に引っ込む。
温かい笑いが湧き上がる中、『にぎやかだなあ』と初老のディケセル人男性がひょっこり顔を出し、『やあ、ミヤベ、今日も暑いが、調子はどうだい? イゥローニャ人にここの暑さはきつくないか?』と声をかけてきた。
キャンプの各区画にいる世話人の一人である彼は、キャンプに入った郁たち三人を何かと気をかけてくれている。
『ありがとうございます。暑いですが、爽やかですし、リカルィデも含めてなんとか慣れてきました。皆さんにも親切にしていただいています』
『おお、リカルィデも調子がよくなったとエマから聞いたけど、そうかそうか。もう「ガッコウ」は行っているかい?』
『……』
郁の背後にひょいっと手を伸ばし、彼は六本指の手で彼女の頭をとんとんと叩く。また真っ赤になったリカルィデは口をパクパクさせたが、結局言葉を飲み込むことにしたらしい。ただ頷いた。
『エマを借りてしまって悪かったね。あの子こそ「ガッコウ」に行かなきゃいけないだろうに』
『恩返しができると張り切っていました。それに彼の場合、別に「ガッコウ」でなくても言葉を学べますから』
キャンプ内の水路が増水で壊れ、可能であれば一世帯から一人、人手を出すように、ということで、エマは昨日今日とそちらに出ていった。上水と下水がちゃんと分かれているか見てくると言って、出て行った朝の光景を思い出す。
『確かに。言葉が通じなくとも良いやつだとわかるからなあ』
『そうそう。その上あの見た目だから、若い娘なんか色めき立ってるしね、言葉も私が教えてあげるとか言っちゃってさ』
『本人もまんざらじゃなさそうだしねえ。ほら、美人で評判のリロネもエマに本気らしいよ? あんたたち、近々家族が増えるんじゃないかい?』
世話人の背後から囃し立てる声に、リカルィデはむっとした顔をして、小声ながら反論を試みる。
『エマは親切なだけだ。リロネのことだって、別に特別扱いしてない』
『そっかー、お兄ちゃん、取られたくないかー』
『まあまあ、まだミヤベ兄ちゃんがいるじゃないか、祝福してやんなよー』
だが、さらなる笑い声で返されて、リカルィデは口をへの字に曲げると、彼女たちからぷいっと顔を背けた。
「……」
会話についていけているのかいけてないのか、シガをくれたクルーシデ人女性が複雑そうな顔をしていることに、郁は気付かないふりをする。
江間は世界が変わっても変わらず選ぶ立場にいる。彼に関わるとああいう顔を目にすることが増えて、実に面倒くさい。
『……ミヤベはいいのかい?』
声を潜めて聞いてきた世話人の意図を測ろうとして、やはり面倒くさくなってやめた。肩をすくめるにとどめるが、それで逃げ切ることはできなかったらしい。
『つまり、その、気にならないのかと……。イゥローニャの文化は知らないが、この国では同性も結婚できることだし……』
言いにくそうに続ける彼の目も一瞬クルーシデ人女性に向いたのを見て、郁はため息をついた。
≪いかにも処女って子は重たすぎて論外。宮部とか≫
『そういう間柄ではまったく。あり得ないと……ええと、恋というのかな? その対象にならないと、彼のほうもはっきり言っていました』
脳裏によみがえった記憶に顔を顰めそうになるのを抑えて、苦笑程度にとどめて返す。
わかっている、世話人の彼は善意で言ってくれている。でも……面倒くさい。どうして誰も彼も放っておいてくれないのか。
他人に何を言われても言われなくても、彼が自分を選ばない事実に変わりはないし、郁は郁でそれをちゃんと知っている。江間だけじゃない。自分が誰かに選ばれることはない。自分のような人間が、誰かと人生を共にするなんて、そもそも無理なのだ。
『それ、本当か? エマがそう言ったのか?』
割って入ってきたリカルィデに、『見ていれば分かるだろう』と返したが、思いのほか自嘲めいて響いた。それをごまかそうと、『私としてもあり得ない』と首を振る。
『……まあまあ、色々あるさ』
口をとがらせて口を噤んだリカルィデの頭を、長い白い眉を下げた世話人が、困ったように撫でるのを見たら、荒んだ気分が少しだけ和んだ。
惑いの森を抜けて一か月半ほど経っている。
今、郁と江間は、あの晩さらったディケセル王族の子“アーシャル”とともに、ディケセル国南部にある村ギャプフの一画にいる。王弟シャツェランが治めるメゼルディセル領の一部で、当初アーシャルが彼を頼ろうとしていた通り、比較的安定していて、豊かな状態を保っているようだ。
だが、そのせいだろう。そこには向こうの世界で言う、難民キャンプのようなものができていた。
各地の領主が小競り合いを起こしているせいで、戦禍から逃げざるを得なくなったディケセル人、隣国バルドゥーバとの戦争により祖国を失った様々な国の人々、主にバルドゥーバから逃げてきた奴隷たち――雑多な見た目で、使う言葉も異なる人間が入り乱れているせいで、郁たちが疑われることもなかった。
服装だけは改めておこうと、郁と江間は神官の着ていた普段着と思しきものを身につけたが、問題はアーシャルだった。身分が露骨に表れる上着は、郁たちの向こうの服などと一緒に燃やしたが、その他の服もひどく質がいい上に半透明。これだけを着るわけにはいかないのでは、ということになって、結局江間がリカルィデに服を渡した。
それで江間は上半身裸、腰回りだけを服を割いた布切れで覆って、キャンプに入ったのだが、これが結果うまく働いた。
傷を負っていたリカルィデが発熱していたこともあって、故郷を追われ、盗賊にまで襲われてしまった身寄りのない若い三人、しかも身を守らせるために泣く泣く妹の髪を切ったことになって、迎え入れてくれたキャンプの審査官たちにひどく同情されてしまった。
「腰巻一枚になった甲斐があった」
キャンプに入るにあたっての事情聴取の最中に服をもらった彼は、着替えた後そう笑ってのけた。必要だからと半裸でいることをあっさり承知するその感覚に、郁はまたも尊敬と嫉妬を覚えた。
だが、「鍛えといてよかった。というわけで惚れていいぞ、宮部」と付け加えたあたり、計算や忍耐などではなく、生まれつきそういう性格なだけかもしれないとも思う。それはそれで羨ましい気がしなくもないが、鬱陶しい。
その聴取では、もちろん名や出身地などを聞かれた。
江間は「エマ(エンバ)」、郁は「ミヤベ(リィアレ、人によってはリィアメ)」、共に惑いの森の北方に位置する広大な山岳地域の出で、郁は幼少期に、江間は最近ディケセルに降りた親族ということにしてある。アーシャルは親がディケセルに来た後生まれた、という触れ込みだ。
昔その地域に血縁単位で暮らしていたが、今は離散し、滅びの淵にある少数民族ということにすれば、話す言葉が特殊でも疑われにくいだろう、というアーシャルの提案に従った。
ちなみにこの時だ、アーシャルが名を「リカルィデ」に変えたのは。審査官に名を聞かれて、熱のせいもあったのだろう、言い淀んだアーシャルに、郁が咄嗟につけてしまったものだ。
満開の桜を見ながら、祖父が懐かしそうに語っていた、ディケセルの春に一斉に咲くという美しい花――さっさとあちらの世界に帰りたいと思っているけれど、その花だけは見てみたい。
郁には遠慮がなくなってきたリカルィデが、今も何も言わないところを見ると、彼女も気に入っているとみていいのだろう。
さらにちなみに、リカルィデと同じように髪の短い郁の性別は、審査官たちに欠片も疑われなかった。リカルィデが、何も言わないうちに「髪を切られた女の子」と判断されたことを思うと、郁としては乾いた笑いしか出てこない。
『リカルィデ、帰ろう』
『……うん』
世話人の老人や陽気な洗濯場の皆に別れを告げ、郁はリカルィデの手を勝手に取ると、キャビンに向かって歩き出す。
彼女が手に汗をかいていることにも、そうと分からないように周囲の様子を窺っていることにも、敢えて気づかないふりをし、微笑みかける。
「日が長くなってきたね」
「日って太陽だよね? 長くなる?」
「昼の時間が長くなるってこと。サチコさんから夏至って言葉、聞いたことない?」
「あ、言ってた。一番昼が長い日、もうすぐだ。反対が……トウジだ!」
日本語で会話して、彼女の育ての親の日本人について話題にし、彼女の緊張をほぐしていく。
ディケセル国太子の立場をバルドゥーバ派が確保するためだけに、彼女は性別を偽らされたという。そして、それを隠すために、稀人のサチコさんと一緒にずっと王宮の一画に閉じ込められていたと。
(シャツェランはそれを見過ごした……)
この場所にはここの領主であるシャツェラン・ディケセルが郁の知るあの彼であること示す証拠がそこかしこにある。
だからこそ許しがたくて、郁はリカルィデに悟られないよう、嫌悪に顔を歪めた。




