2-10.“空をしろしめすもの”
福地らを乗せた巨大な生物が夜の森に消えた。
アーシャルらを取り囲んでいた、残るバルドゥーバ兵たちが、彼らへとにじり寄っていく。その数五十名以上。宰相が残していったものも含めて大トカゲはまだ七匹いる。
しばしにらみ合っていた両者は、徒歩の兵がアーシャルへと躍りかかったのを機に、再び混戦となった。先ほどの男が言っていた通り、バルドゥーバはアーシャルを切り捨てることを決めたらしい。
剣で肩を切られ、崩れ落ちた小さなアーシャルの姿から、郁は目を逸らした。
(いくらゼイギャクがいてもこの状況ではおそらく……)
郁は目をギュッと瞑ると、かぶりを振り、暗闇へと歩き始めた。戦闘が始まってかなりの時間が経った。いかに大双月とは言え、これだけの騒ぎだ。血の匂いを嗅ぎつけたイェリカ・ローダがやって来るだろう。あれはそういう生き物だ。できるだけ早くこの場を去らなくては……。
だが、江間がついてこない。振り返れば、眉間に深いしわを刻んだ彼は、殺し合いの現場を睨みながら唐突に呟いた。
「なあ、あいつ、捕まえない?」
一瞬、頭が真っ白になった。
「……あの王子?」
「あいつ、もうどっちにもいられないんだろう? 国を裏切ったってのに、内通先にも殺されかかってるじゃん」
そう呟くと江間は郁を見、「言葉もそうだけど、行き場がないやつって使えそうだろ?」と同意を求めてきた。
「それは、そう、だけど……」
こんな場面でそんなことをよく思いつく、と郁は感心とも呆れとも恐れともつかない目を江間へと向けた。
「あの中からどう連れ出す? しかも相当血が流れている。すぐにでもイェ、森の化け物がやってくる、かもしれない」
「これを目くらましにして攫うってのはどうだ」
「……本気?」
天空から降り注ぐ青と黄色の光は、高い木々の梢に遮られ、斑に地上に降り注いでいる。その明かりの中で、江間は手の内を明かした。発煙筒だ。
「お前だって、あいつ、気にしてるだろ?」
さらりと言い当てられて、郁は呼吸を止めた。江間のこういうところが嫌なのだ。
「……わかった。なら急ごう」
郁と江間は素早く細工を整えると、木の陰を縫うようにして、剣と槍が交差する殺戮の中心へと近づいて行く。
(アーシャルは……――いた)
木を背後に、負傷していない手で剣を握っているが、立っているのがやっとのようだ。その前ではゼイギャクと若いグルドザたちが奮戦していて、周辺に血まみれのバルドゥーバ兵が転がっている。
気配を消し、闇と木立に紛れながら、彼らへとにじり寄っていく。血の香りと雄叫び、肉と骨が立たれる音、雄叫び、殺し合いの狂気に胃の腑がせりあがってくる。恐怖か緊張か、成功の可否を決める道具を握りしめる手に汗がにじんできた。
「五、四、三、」
江間の小声を合図に、郁は左に手にしたものを右の筒へとすり合わせるべく構える。右の筒に結わえ付けた細い蔦は、江間が握っていた。
「二……なんだ、あれ」
その江間の顔に影が落ち、次いで郁の頭上にも闇が落ちた。
見上げれば、樹冠から覗く、美しい青の月が漆黒の影に覆われている。畳二十畳ほどありそうな、巨大な羽をもつ黒い異形――
「来た……」
戦慄したのは、郁だけではなかった。耳をつんざくような咆哮とともに、トカゲが後ろ立ちになり、暴れ出す。
空を覆っていた化け物は、血に吸い寄せられるように、人間たちが殺し合うその場に舞い降りた。キリンぐらいの体高の、月光に浮かび上がるそれは、蝶のものにもコウモリのものにも似た六枚の羽根を持ち、全身が太い針のような毛におおわれている。頭に相当する部位が見当たらず、体部分が丸く膨らんでいた。
『……う、ああああああっ、し、しろしめすものだっっ』
化け物の中央にある穴がぐにゃりと広がった瞬間、立ち尽くしていた人間たちの口から悲鳴があがった。馬一頭丸呑みできそうなその空洞の内部には、白い骨のような棘がびっしりと並び、奥から触手のような物体が何本もチロチロとうごめいている。
その生物は巨大な羽で逃げ場をふさぎ、トカゲに覆いかぶさった。トカゲの背から滑り落ちるバルドゥーバ兵が羽の隙間から一瞬見えた。暴れるトカゲの振動で巨大な羽が揺れる。だが、すぐに断末魔と肉の咀嚼音、骨の砕ける忌まわしい音が響き渡った。
『あああああ、まただ、まだいる、まだ来る!! 来るなああああ』
新たな一匹が舞い降りる。今度はディケセル人たちの目の前だった。
「っ」
郁は我を取り戻すと、筒をこすり合わせようと試みる。恐怖で震える指を全身の意識を集中させて、無理やり動かした。
刹那、光が広がった――人造の光が周囲の人々と木々、獣の姿を闇の中に浮き立たせる。
光から目を逸らしつつ、江間は発煙筒に繋がる紐を、円を描くように振るった。二匹目の目の前を通過させ、別のオオトカゲの目の前へと放り投げる。化け物たちはその光る軌跡を追っていく。
闇と鮮烈な光の対比のせいで一時的に視力を落とした人間たちは、さらなる狂乱状態に陥った。
その隙に郁と江間は身を低くして、アーシャルに走り寄った。無事な方の手を目に当て跪いている彼の後頭部へと郁が手刀を落とし、気を失った小柄な体を江間が抱え上げる。
その間も獣の悲鳴と、骨が絶たれ、すりつぶされて行く音は止まらない。それどころか、新たな一匹が光へと舞い降り、絶叫が増えていく。
『――させぬ』
踵を返して逃げようとする郁の足をゼイギャクがつかんだ。額には脂汗が光り、白い髪は乱れに乱れて全身傷だらけ、背には折れた矢が刺さっている。
『殿下は殺させぬ』
頭から流れた血が目に入り、郁たちがまともに見えていないだろう彼は、郁の足をきつく握りしめ、そう吼えた。
(人を気にしている場合じゃないでしょう。大体、その王子はあなたをも裏切っていた――)
ゼイギャクの姿に愚直な祖父が重なり、郁は顔を歪めた。
必死に掴み寄せようとするゼイギャクの腕を叩き落すと、逆に彼の二の腕を掴んで立たせ、洞窟へと体を向けさせた。背後から血にまみれたその顔を乱暴に袖で拭う。
『このまままっすぐ八ガケル、洞窟に飛び込め』
そして、深手を負いつつもどうにか生きているピンク髪のグルドザの手をゼイギャクに握らせ、『走れ』と乱暴に押し遣った。
「行くぞ」
アーシャルを担いだ江間と共に森へと走り出す。目指すのは月聖岩の集まるあの場所だ。
できるだけ、できるだけ遠くに――
空は巨大な蝶ともコウモリとも言えない生物たちで、覆いつくされようとしていた。
郁はついに目指していた月聖岩の固まる場所に辿り着いた。
牙のように地から突き出した岩が天から降り注ぐ明かりをうけ、辺り全体を青と黄、虹色にほの輝かせている。天空には相変わらず青と黄の月が浮かんでいる。
「限界」
ずっとアーシャルを担いできた江間は、崩れるようにその場に膝を落とした。郁は慌てて江間に走り寄ると、アーシャルを降ろすのを手伝う。そして彼を座らせて、バックパックの中の水を差しだした。
「ごめん、ずっと背負わせて……」
「……いいよ、いくら子供でも、背負って走るのはお前には無理だ」
それを一気に飲んだ江間は、汗で額に張り付いた髪をかき上げると、大きく息を吐きだした。
彼の顔は虹色の岩からの反射光に照らされてなお、蒼褪めて見えた。
「……ひでえ顔色だな」
「江間に言われたくない」
そんな郁の視線に気づいたのだろう、厳しい顔をしていた江間は、ぎこちない笑いを浮かべた。それになんとかいつものように返し、息を吐く。
「マジで違う場所だな」
ある程度こちらのことを知っていて、言葉がわかり、何が起こっているのか把握できる郁ですらこうなのだ。なんの情報もない江間は、どれほど不安だろう? 今度は返す言葉に詰まって、郁はただ首を縦に振った。
話すべきことがたくさんあるはずなのに、口を開けば、叫び声しか出ない気がして、郁と江間は天を仰いだ。
青と黄の二つの月――違う世界。
視線が交差する。直後、眉根を寄せた江間が郁を引き寄せた。きつく抱きしめる。
驚きは一瞬、自分を抱え込む彼の体が細かく震えていることに気づいて、郁もその背に縋り付いた。
ギュッと瞑った目の奥で、殺戮の光景といくつもの異形の化け物、福地たちの顔、祖父の姿がぐるぐると踊っている。
お互いから伝わってくる体温だけが、この世界で唯一現実味のあるものだった。