3-1.お守り
「……、っ」
耳慣れないさえずりに意識が浮上する。瞼越しに明かりを感じて郁は薄目を開け、その瞬間全身を硬直させた。
目の前に喉と顎が見える。その脇の両肩は自分の方にそれぞれ伸びていて、左腕は郁の頭の下に、右は背に回されている。
「……」
数ミリずつ静かに距離を取りながら、おそるおそる目線を上に動かせば、すでに起きていた江間と目が合って、息を呑んだ。
淡い青紫に染まって、すべてのものの色がわからない世界の中で、彼は柔らかく目元を綻ばせる。
「はよ、宮部。よく眠」
「お、はよう、あと、ごめん」
慌てて起き上がろうとして、背に回された腕に阻まれた。そのままぐっと引き寄せられて、額に彼の吐息がかかった。
「……もうちょっと」
真っ白になって止まった思考は、彼らしくない弱気を含んだ声にすぐに動き出した。
いつも自信に満ち溢れて見える彼でも不安に思うことがあるのか、とほっとしたような気分になると同時に、置かれている状況を思い知らされる。
悪夢のような夜が明けて、新しい一日が始まる。でも、その今日もまた悪夢になるかもしれない。
「……」
(私がその状況に巻き込んだ――)
後ろめたさをなんとかしたくて、郁は自由になる左腕を彼の背に添えると、服の背をぎゅっと握った。拘束が強まるのに合わせて、郁は江間の腕の中で懺悔を含んだ息を吐き出した。
朝日が射しこむのを合図に、どちらからともなく離れた。周辺の岩に含まれる半透明の部分が曙光にきらめき、周囲は青と金色に溢れている。ひどく眩い。
江間は一番大きな月聖岩の陰にあった小さな泉に空のペットボトルを浸すと、蓋をして、別の岩の上に置いた。
「殺菌?」
「あの“太陽”に紫外線が含まれているなら、いけるはずだ。まあ、湧き水だし、細菌的にはそもそも汚染されてないと考えるなら、ただの気休めだな」
それから野営した場所に戻って、手近な岩に腰を下ろした。
「さて、これからどうする?」
「まずこの森を抜ける」
黄金色の朝日の中、郁はずっと首から下げている守り袋にあった手書きの地図を取り出し、岩の上に広げて見せた。
その地図には、「洞窟」と記された場所、〇で示された「野営場所」が三十ちょっとあり、その近辺の川や巨石、大樹などの地形の特徴が細かく記されている。そしてそれらを囲む線には「惑う森」とあり、その西から南部にかけてディケセル、東部にバルドゥーバなどと記してあった。洞窟から〇の場所を辿る形で、いくつかディケセルに繋がるルートが書かれている。
地図の片隅には、日本で見られるような方位記号が記してあり、三角の対方、日本の地図であれば南とみなされる方角に太陽の絵が描いてあった。つまり、この世界における『太陽』の方角を南とみなせ、という意味だろう。
「今は多分この〇印の場所にいる。このルートを辿っていけば、ディケセル国の南端のあたりに出られるはずだ」
だが、本当の問題はそこじゃない。
「……いい加減聞き飽きた質問だろうが、ほんと、なんでそんなものを持ってるんだ……」
「私も知りたい」
唖然とした後、呻くように吐き出した江間に、郁は心情をそのまま吐き出した。
母方の祖母である桜子の手によって、丁寧に縫われた、まちのある守り袋は、ある日彼女がくれたものだ。「本当に困った時に開けなさい。おじいさまがあなたを思って誂えてくださったのよ」と。
「中身は、祖父が用意してくれたものだ」
そう言いながら、郁は守り袋に入っていた他の物を、江間へと並べて見せた。
郁と江間が今見ていた地図と、それと同じだが、紙質が荒い上に古く、ディケセル語で書かれたもの。周囲に散らばる岩と同種の、だが比較にならないほど高い透明度の月聖石のネックレス。金貨と銀貨、銅貨――祖父がいた当時のこちらの通貨だが、以前シャツェランに、「こんなのがある」と言って聞いたところ、その時点では使えるはずとのことだった――が十枚程度。あとは三ミリほどの厚さに伸ばした、親指の爪ぐらいの金が十枚。硬貨はすべて平らに並べられてラミネートされ、音が出ないようになっていた。
江間はそれらを見ながら、真剣な顔で沈黙する。多分郁と同じことを思っているのだろう。
「まるでお前がこっちに来ることを知っていたみたいだな」
その通りだ。思い返せば、言葉だけじゃない。祖父も祖母も不自然なまでに、ディケセルのことについて詳しく教えてくれた。文化や風俗、人々など社会のこと、政治のこと、自然、果ては、貨幣の価値やその素材があちらでいう金・銀・銅と同じであることまで。
(夢の中でおじいさまと同じ言葉を使う子と会った、と話した時からだ)
小学校に入る前だったはずだ。そう言った郁に祖父は顔色を変えた。いつも冷静な彼の顔が恐ろしくて、それからはシャツェランのことも含めて、できるだけ夢のことを話さないようにしたのだが……。
「理由がわかれば、帰る方法もわかるんじゃないかと思う」
ここまで周到に準備をしていた彼らは、なぜその核心を教えてくれなかったのだろう――。
亡くなった今も郁が唯一のよりどころとする彼らが、他ならぬ郁に隠していたことに、不安がこみあげる。一方で、守り袋には生前の彼らが確かにくれていた思いやりが見えて、ひどく混乱する。
「まあ、でも愛されてたんだな」
あっけらかんとした響きの江間の声に、郁は知らず伏せていた顔を跳ね上げた。
「だってそうだろ? ここに飛ばされたから、袋の中身の意味が分かったけど、そうじゃなかったら「じいさん、ボケてたんかな?」って済まされちまうとこじゃん。そんなリスクを冒してでも、お前の万が一を助けてやろうと思ったってことだ」
ぽかんと口を開けて江間を見つめれば、彼は笑いながら、「理由を言えなかったのもその辺じゃね?」と肩をすくめた。
「……」
朝の陽光を浴びて彼の染められた髪は、今は金色に見える。
同様に今は茶に見える瞳が郁を見、小さく緩むのを見た瞬間、「絶対に帰してやらなくては」と強く思った。
『ん、ぅ……』
「さて、そちらさんもお目覚めだ」
郁の傍らで寝ていたアーシャルは身じろいだ瞬間に唸り声をあげ、薄目を開けた。
「大丈夫? 水、飲める?」
一抹の緊張を抱えつつ、郁はアーシャルに近寄ると、湧き水を差し出す。
『…………、っ、何者だっ』
郁へとぼんやりと視線を向けた彼は、目があった瞬間飛び起きた。そして、顔をしかめながらもきつい目で『名乗れっ』と叫び、腰の剣を抜こうとする。ふらついていることといい、顔が真っ赤なことといい、肩の傷は相当痛み、熱も出ているのだろう。
「剣ならないぞ。何言ってんのか、わからんが、大人しくしとけよ」
江間はそんなアーシャルを一瞥すると、その剣幕に一切かまわずに頭を押し、「もう少し寝とけ」と言い放った。
「……どうぞ。お水」
もう一度水筒を差し出し、口元へと運ぶ郁へと、子供は目を戻して『……ま、れびと』と呟く。傾いた水筒から唇へと流れ出る水を半ば呆けたまま、飲むともなしに口にした彼は、「にほ、ん、人……サチ、コ……」と日本語で呟いて泣きそうな顔を見せると、再びその場へと崩れ落ちた。




