ラドゥと少女と獣憑き〈弐〉
陽が沈みきる前に、ラドゥたちは村に辿り着いた。
薄暗い畝道を歩いていた村人がふたりに気づき、怪訝そうに近づいてきた。
村の入口に立っているのが誰なのか気づくと、彼は驚いたように声をあげた。
「ラドゥじゃないか!」村人は嬉しそうに駆け寄り、そこでラドゥが男を背負っていることに気づいた。ぐったりと両腕が垂れている。意識はなさそうだ。
「一体、どうしたんだ」
ラドゥの息は些か荒い。顔には汗が浮いている。まさか大の大人を担いで山道を登ってきたのだろうか。
彼の隣には少女が佇んでいる。彼女の息も乱れてる。その細い肢体には到底不釣り合いな、重そうな剣を抱え持っている。少女はしきりにラドゥの背の男に、心配そうな視線を投げかけている。
「何があったんだ」
村人は混乱したようにラドゥを見た。
「説明している暇は、今はありません」大きく息を吐き出し、呼吸を整えると、ラドゥは勁い顔つきで村人を見つめた。「この村に、医術の心得のある人はいますか?」
【3】
「で、獲物は?」
唐突に切り出されたザルファの問いに、
「何のことだ?」
ドムグは首を傾げる。
「とぼけるなよ」ザルファは火酒を一気に飲み干し、錫のカップでカウンターをコツコツと叩いた。「お前等鬣犬の縄張りはミカヅツだろ。それがなぜかこの国にいやがる。仕事以外の理由なんざないだろ?」
ふたりがいるのは娼館の一階部分に併設された酒場だ。普段であれば男たちの酒気と欲望が渦を巻く場所には、しかしザルファとドムグの姿しかない。娼婦や店員の姿すら見当たらない。人払いは済ませてある。酒場の入り口には鬣犬たちが佇立している。彼等はドムグの命令に忠実だ。誰であれ、この扉を潜ろうとする者は暴力をもって排除される。
「あんたの疑問はもっともだが、まずは俺の質問に答えてくれよ」ドムグは麦酒を呷り、先ほど放った問いを、もう一度繰り返した。「なんであんたがこんなところにいるんだ、ザルファ」
「当然、仕事だ」
「一級のあんたが、西部で仕事?」
「悪いか?」
「獸なんざこの地方にいないだろ。出現したとしても伍號が関の山、あんたが出張ってくる理由がわからない」ドムグはにやつく。「さては、〈裏〉の仕事だな」
「オイオイ、俺をお前等犯罪者どもと一緒にするんじゃねぇよ」ザルファは嗤笑する。「正規の仕事さ。まあ、協会の〈調査団〉の子守なんていうクソみたいな仕事だったのは確かだがな」
「護衛なんかにあんたを使うのか? この国に六人しかいない一級のあんたを?」
「贅沢だろ?」
「で、仕事が終わったあんたは、西部で休暇中ってわけか」
「そんなところだ。それより、俺の話はこの辺でいいだろ」ザルファは鋭い視線をドムグに向けた。「さっさと俺の質問に答えろ」
「あんたの読み通り、仕事だ」
「どんな」
「獲物は小娘だ」
「ついにガキ殺しにまで手を出すようになったか」ザルファの嗤い声が店内に響く。「お前がゲス野郎なのは知ってたが、まさかこれほどとはね」
「金さえ積まれりゃ手前の親さえ殺すのが鬣犬さ。ガキだろうが何だろうがそれが仕事なら、俺達は殺す」ドムグはビールを飲み干す。「だが、今回の仕事は殺しじゃない。獲物の確保だ」
「生け捕りか?」
「もちろん」
「注文は」
「引き渡し時に、五体満足」
「お前等は殺しが専門だろ。どうして引き受けた」
「腕を見込まれてね。それと、たっぷりと金を積まれた。破格といってもいい」
「その獲物、貴族の娘か何かか?」
「あんたの魂胆は何だ、ザルファ」不意にドムグは親しげな雰囲気を消し、剣呑な視線をザルファに向ける。「なぜ俺の仕事を探る。なぜ獲物の素性を知りたがる。そもそも、なぜ俺の前に現れた。何をたくらんでやがる」
「別に、何も」ザルファはカウンターを回り込み、酒樽から直接ウィスキーを注ぐ。「ただ、退屈してただけだ」飲み干し、注ぎ、また飲み干す。「西部ってのはうんざりするほど退屈な場所だ。お前とは古い付き合いだ。だからわかるだろ、こんなところにいると俺は倦んでくる。俺は休暇を切り上げ、数日中に南部に戻るつもりだった。が、街中を駆けずるお前の手下を見つけた。退屈しのぎに丁度いいと思ったわけだ。おまけに、金も稼げる」ザルファはドムグに向き直り、猛獣が牙を剥くように嗤った。
「俺も一枚噛ませろよ」
「あんたは高くつく」
「俺の暇つぶしだ。通常の半値で引き受けてやるよ」
「相場は協会基準か?」
「馬鹿いうな。裏に決まってるだろ」あれほど強い酒を何杯も呷ったというのに、ザルファの顔に酔いの気配は欠片もない。一級狩人は殺しに酔うなどといわれのない謗りを受けるが、ザルファに関しては的外れというわけでもない。彼は血と暴力に酔う。戮しに、狩りに酔いしれる。
「で、どうする」最後の一杯を呷ると、狩人はずいとその身を乗り出した。「なかなか悪くない申し出だと思うがね」
その提案に、ドムグはしばし押し黙る。
思案するように、ジョッキを指先で撫で回す。
寸刻後、彼は静かに口を開いた。
「獲物の名はシムカ」ドムグは抑揚をつけ、その名前をもう一度繰り返した。「シムカ=トドゥクだ」
医術の心得のある人はいますか、ラドゥがそう問いかけると村人は頷き、すぐさま歩き出した。
ラドゥとシムカはそのあとに続いた。
暗い農道を歩いていると畑仕事を終えた男衆や騒ぎを聞きつけて家から駆けてきた女衆がラドゥのそばに寄り集まった。
皆ラドゥに声をかけようと手を振りあげ、しかしその手を止めた。
ラドゥが意識を失った初老の男を背負っているからか、あるいはその隣を歩く少女の悲愴な横顔に声をつまらせたからか、あるいはその両方か。
村人たちは手を下ろし、ふたりに倣って黙々と歩き続けた。
連れてこられたのはラドゥが世話になっていた村長宅だった。どうやら医術の心得があるのは村長らしい。先回りした村人が知らせていたのだろう、村長一家総出でラドゥたちを迎えてくれた。案内されたのはラドゥが寝泊まりしていた納屋だった。水、酒、薬湯、手拭い、小刀、針、糸……様々な医術道具がすでに用意されていた。ラドゥは床の寝具にゴドを横たえた。苦痛の唸りが漏れた。シムカはしゃがみ込みゴドの手を握った。その手を額に持っていき、
「死なないで」
少女は祈るように声を絞り出した。
ラドゥは納屋から外に出た。夜気が肌を撫でた。空の彼方で揺らいでいた残照が静かに消えていった。彼にできることはなかった。戦いなら得意だ。殺しなら、狩りなら、完璧に熟せる。だが怪我をした人間を救うことは、ラドゥにはできない。
『俺は結局、殺すだけだ』
不意に、ガロの言葉を思い出した。
焚き火に薪をくべながら、ガロはラドゥに語りかけた。いや、あれは独り言だったのかもしれない。あの時の不寝番はガロだった。ラドゥは横になり眼を瞑っていた。だが寝てはいなかった。あれは確か、はじめてひとりで獸を殺した夜だ。伍號種だった。ガロは腕を組み、ラドゥの初狩猟を真剣な眼差しで眺めていた。激戦だった。ラドゥは教えられたすべてを出し尽くし、猛攻を掻い潜り、獸の胸を短剣で穿った。あの頃は一撃で獸を仕留めることなどできなかった。だから何度も、何度も、獸が霧散するまで心臓に刃を突き立てた。疲れ果てていた。夕食を食べ終えると、すぐに横になった。だが眠れなかった。戦いの余韻がラドゥを寝かせなかった。躯が熱かった。意識が殺気立っていた。なんとか眠りにつこうとラドゥは頭の中を空にした。その時、ガロの呟きが聞こえた。俺は結局、殺すだけだ。ラドゥは眼を開けた。爆ぜる火の粉を見つめながら、ガロはもう一度呟いた。
『それしか、できねぇのさ』
ラドゥは夜の村を横切り、山道に出る。
水底のような闇が横たわっている。
この闇夜だ、追っ手は足止めを食うだろう。
もっとも、この村はわかりにくい場所にある。ここまでの道々、ラドゥは鬣犬についてシムカから聞き出している。奴等はこの国の人間ではない。で、あるなら地理には詳しくないはずだ。山道はほとんど獣道といっていいし、それにラドゥは山道入り口に痕跡を残していない。よほどの技術をもった追跡師でもなければ、この山道を見つけることはできないだろう
追っ手は無いと思っていい。
だが、だからといって警戒を解いてもいい理由にはならない。
何が起こるかはわからない。
ラドゥは水面に沈むように、森に入る。
シムカについては何もわかっていない。話が自分のことに及ぶと、彼女は押し黙ってしまう。
ゴドについても同様だ。シムカのお付きの剣士という以外、何もわかっていない。
無理に詮索する気はない。ふたりは命を狙われている。今はそれがわかっていれば十分だ。
ゆっくりと、ラドゥは歩く。
意識を研ぎ澄まし、周辺を警戒する。
あの時、ガロが何であんな事を口走ったのかわからない。
(俺には、戦うことしかできない)それだけで十分だというように、ラドゥは腰の剣に触れる。(だから、俺は俺にできることをやろうと思う)
警邏を終え、ラドゥは村に戻った。
不審な物は何ひとつ見つからなかった。
ラドゥが納屋に到着したのと村長が納屋から出てきたのは、ほぼ同時だった。
「一命はとりとめたよ」村長はラドゥに笑いかけた。だが、その顔には濃い疲労が滲んでいた。「私はこれでも都の医術生だったんだよ」村長は地面に座り込んだ。「まあ、ずいぶんと昔の話だし、いろいろあって、結局は故郷の村長におさまったわけなんだけどね。しかし、久しぶりに施術なんかしたよ。止血と縫合だけだからなんとかなったけど、もう少し傷が深かったら、私ではどうにもならなかったと思う。運がよかったね」
「ありがとうございます」ラドゥは頭を下げた。
「気にしないでくれ。けが人を助けるのは当然のことだ。しかし、一体なにがあったんだ?」
「街道であのふたりが襲われていました」
「それで」
「助けました」
「そうか」村長は頷いた。それ以上の詮索はされなかった。
ラドゥはもう一度頭を下げた。
なんでもないというように村長は首を振り、それから納屋を見やった。
「彼の意識は戻っている」村長はそう言ってラドゥに向き直った。「あの男性、ゴドといったかな、彼が君を呼んでいたよ。なんでも、話があるそうだ」
ゴドは納屋の壁にもたれ、傍らのシムカがその口元に水の入った器をあてがっていた。
ラドゥの姿に気づくと、シムカは器を床へ置き、姿勢を正し、深々と頭を下げた。ゴドも寝具をのけ、痛みの赦す限界までその頭を垂れた。ふたりは薄汚れた身なりをしている。その躯からは疲労が滲み出ている。だが彼等の動作は流れるように美しかった。ラドゥが初めて触れる、それは品位というものだった。
最初にふたりの前に立った時点で、ラドゥは彼等が平民ではないことに気づいていた。
ゴドの握る剣は切っ先から柄頭にいたるまで職人の意匠が施されていた。
シムカはどこにでもありそうな無地の寛衣を着ていたが、その生地はあきらかに上質な代物であり、その仕立ては粗ひとつ見当たらなかった。
おそらく貴族か、それに類する身分の人間。
「先ほどは命を救っていただき、まことにありがとうございました」シムカはそう言うと、顔をあげた。言葉遣いこそ大人びているが、その表情には年齢に相応の幼さが感じられた。「ゴドが傷を負ったことで、気が動転していました。御礼が遅れたこと、どうかおゆるしください」
「シムカ様に聞きました。君が、いやあなたが私をここまで運んでくれと」ゴドは腹部の繃帯に触れた。「あなたはシムカ様だけではなく、私にとっても命の恩人だ。本当に、ありがとうございます」
「気にしないで下さい。俺は自分にできることをしただけです」
「あの状況で助けに入るのは、誰にでもできることではない。まして、相手が鬣犬ともなると」ゴドの顔には、尊敬とも憧憬ともとれる表情が浮かんだ。「あなたは、強い。よほど名のある剣客とお見受けする」
「俺はしがない旅人です」
「わたしはかつて、宮廷の近衛剣士を務めていました。若い頃から剣に生きてきた。だからこそ、わかるのです。あの脚運び、あの剣筋……あなたの腕前は尋常ではない。鬣犬たちを、赤児の手を捻るかのごとく、ああも易々と、しかもその歳で……」ゴドは意を決したようにラドゥの眼をみつめた。「あなたに、頼みがある」
「頼み、ですか?」
「不躾なのは承知しております」咳き込んだゴドの代わりに、シムカが口を開いた。「命を救っていただいたというのに、このうえ頼み事などと……」顔を歪め、下唇を噛み締め、それでも彼女は声を絞り出す。「嘆願などできる立場にないということは、重々承知しております。ですがどうか、どうかお話だけでも、聞いてはいただけないでしょうか」
「どうか、お願いします」
ゴドとシムカは再び頭を下げる。
そんなふたりを、ラドゥは見つめる。
ラドゥは腰を下ろす。
勁い眼差しをふたりに向け、
「話してください」
静かに、ラドゥはそう言う。
「トドゥク」ザルファは呟くと、脳裡を探るように眼を細めた。「聞いたことがあるな。確かどこぞの貴族か王族の称号じゃなかったか?」
「よく知ってるな」ドムグは頷く。「そうだ。トドゥクってのはヨキ国の王族の子供たちに与えられる称号だ」
今現在、彼等がいる此処は大国ゾルガ。そのゾルガと国境を接する、こちらも大国ミカヅツ。そのミカヅツ国周辺に点在する小国のうちのひとつ、それがヨキ国だ。広大な草原と美しい海が両立する、交易の盛んな国である。
「獲物は王族か」
「みたいなものだが、正確には違う。シムカって小娘は先王ドウガシの庶子だ。妾の子なんだよ」
「へぇ。そうなると継承権絡みのゴタゴタか」
「いや、ヨキ王国では庶子に継承権は与えられない。本来なら称号を付与することさえ許されちゃいないんだが、あの小娘は先王に寵愛されてたらしくてな、ドウガシは小娘のために色々無理を通したらしい。まあ、さすがに継承権は無理だったらしいがな」ドムグはくつくつと嗤う。「小娘が狙われている理由は継承権じゃない。いってしまえば、面子だ。政治だよ。あのガキの存在は王家の沽券に関わる。シムカ=トドゥクの血は”穢れ”ているんだよ」
「なるほど」ザルファは愉快そうに唇をつり上げた。「〈獸憑き〉か」
ドムグは正解とばかりに拍手する。
この世界では稀に、その身内に獸を宿した赤児が産まれる。原因はわかっていない。そもそも夜霧がなぜ発生するのか、獸がどうして出現するのかすら解明されていないのだ、獸憑きがどうして産まれてくるのかなど、わかろうはずもない。わかっているのは彼等彼女等には特有の痣が躯に浮かび上がるということ。その血が霧の役割を果たし、獸を喚ぶということ。そして獸憑き本人は、喚び出した獸に決して襲われないということ。
獸憑き。穢れ血。あるいは憑人ともいう。
「王族から憑人が出るとは、傑作だな」ザルファは呵々と嗤う。「間引かれなかったところをみるに、後痣か」
「ご名答。小娘の躯に痣が浮かび上がってきたのは、幼少期の頃らしい。その時にはすでに先王は小娘のことを可愛がっていたようでな、情に負け、殺せず、匿った。だが先月、先王は死んだ。実弟のガウリャが王座を継承した。小娘の後ろ盾はなくなった。シムカの近衛剣士は先王崩御の報を聞くがはやいか、小娘を連れヨキ国をあとにした」
どこの国の王族も皇族も、あるいは貴族も例外なく、自分たちの血筋から獸憑きが排出されるのを赦さない。獸とは〈闇〉であり、霧から産み落とされる〈穢れ〉であり、何より〈魔〉そのものなのだ。その身に獸の巣くう獸憑きは狩人同様、いやそれ以上に恐怖と嫌悪の対象として忌み嫌われる。由緒正しき高貴な血筋から憑人が産まれた場合、まず間違いなくその存在は抹殺される。
そんな赤児は産まれなかった。
名もなければ墓もない。
文字通り存在しない。
ドムグは中指を立て、首を掻き切る身振りをした。
「ヨキ国の王家は、シムカ=トドゥクを消すことに決めた」
ドムグはジョッキをカウンターに置き、酒場の出口を睨む。
『俺は街外れの協会支部を宿にしている。準備ができたら呼びに来い』
ザルファはそう告げ、夜の街へと消えた。
ドムグはジョッキを口に運び、ビールを飲む。
手の甲で泡を拭い、視線を傍らに向ける。
鬣犬のひとりが、そこに佇んでいた。
「何か用か、ジジ」
「本当に、あの男を使うんですか」先ほど殴られた頬の腫れのためか、いくらか舌足らずになった喋り方でジジは言う。「狩人を今回の件に関わらせるのは、危険じゃないですか」
答えずに、ドムグは再びビールに口をつける。
重苦しい沈黙。
ジジは、ただ待つ。
もしジジが新入りだったなら、この時点で殺されていてもおかしくない。鬣犬の起こりはミカヅツ国の軍隊だ。不名誉除隊を言い渡されたドムグ他数名により結成されたのが、傭兵集団〈鬣犬〉だ。ゆえに完全な縦社会であり、下の者が上の者の考えに口を差し挟むなどあり得ない。ましてドムグは首領だ。誰であろうと、口答えは赦されていない。もし鬣犬の中で彼に意見できる者がいるとすれば、それはジジただひとりだけだろう。
「お頭」ジジはそう言ったが、考え直したように「兄貴」と呼びかけた。
ドムグが剣呑な眼つきでジジを睨めた。
「テメェが鬣犬でいるうちは、そう呼ぶなといったはずだぞ」
「わかってる。だが俺が部下でいる間は、兄貴は俺の言葉に耳を傾けないだろ?」
今日、ジジはヘマをやらかした。それなのに頬を殴られただけですんだのはなぜか。
彼がドムグの弟だからだ。
「兄貴はあの一級狩人に嘘をついている」ジジは鬣犬としてではなく、ドムグの兄弟として喋る。「そもそも俺たちに持ち込まれた依頼は、シムカ=トドゥクの殺害だろ。ヨキ国の王家が待ち望んでいるのは小娘の生首だ。シムカ=トドゥクを生け捕りにするのは、あくまでも俺たちの事情だ」ジジは真剣な表情で兄を見据える。「シムカ=トドゥクの首を持ち帰る前に、俺たちは〈蜈蚣〉に小娘を引き渡す」
「だからなんだ」
「蜈蚣が絡んでる仕事に狩人を関わらせるのか? それも、一級狩人を?」
「怖いのか?」
「弐號種を殺す化け物を怖がらない方がどうかしてる」
「まあ、そうかもな」
「狩人と蜈蚣は犬猿の仲だ。ましてあの男は、あのザルファだろ。もし、奴に蜈蚣のことを知られたら」
「彼奴は舐められてると思うだろうな。そして奴は、舐められるのが好きじゃない」
「なら、どうして」
「どこかの誰かさんが小娘の確保に失敗したからだろうが」ドムグはジジを鋭く睨む。「おまけに俺は手駒を三人失った。もっともギルヴァンたちが殺られたなんて話は、まだ半信半疑だけどな」ドムグは立ち上がり、ゆっくりと酒場の中を回る。「なんにせよ、人員の補充は必要だ。その辺で集めた三下よりも、ザルファひとり雇った方がはるかに効率がいい。それに奴は一級だ。奴の持つ権限はデカい。ザルファがいるだけで、俺たちはこの国でだいぶ動きやすくなる。リスクを上回るメリットだと、そうは思わねぇか?」
ドムグはジジの後頭に手を当て、ぐいと引き寄せる。
額と額が突き合うほど、両者の顔が近づく。
「俺の決定に、何か問題があるか?」
殺気立ったドムグの瞳がジジを射る。
数秒間、ふたりは見つめ合っていた。
「いえ、問題ありません」ジジは弟ではなく、鬣犬として口を開いた。「お頭の命令に従います」
ドムグはジジの頭髪をくしゃくしゃと掻き撫で、突き放すようにその額を押した。
「全員に伝えておけ。ザルファの前で蜈蚣の名を口にするなと」
ジジは一礼し、酒場を後にした。
ドムグは窓外に眼を向けた。雑踏。熱気。嬌声。盛り上がりを見せる夜の街。その脳天気な光景と、今現在自分が置かれている状況を比べ、ドムグは舌打ちする。
国境を越えただけでも面倒だというのに、再度小娘を取り逃がし、そのうえあのイカれたザルファまで出張ってくるとは。
「まったく、面倒なことになってきやがった」
毒づき、ドムグは手の中のジョッキを壁に叩きつけた。
【4】
ラドゥは納屋の近くに佇んでいた。
朝まだき、空はわずかに白みはじめている。が、いまだ闇は濃い。
ラドゥの足下には雑嚢がふたつ置かれている。村の人たちが用意してくれたものだ。水、食料、地図。旅に必要なものを揃えてくれた。ありがたいことだ。
納屋に動きはない。準備はまだ終わっていないのだろう。
だが、そろそろ出発する時刻だ。
あまり悠長には構えていられない。
追っ手がかかるのは、まず間違いない。
ラドゥはナイフを抜く。手に馴染んでいる。使うことにならなければいいが、そう思いながら鈍い輝きの刃を一瞥し、鞘に戻す。
腰裏のガロの形見に触れる。こちらも、抜くことにならなければいいが。
「楽観的すぎるか」
ラドゥは先ほどのゴドの話を思い出す。ヨキ国、庶子、王族、獸憑き、逃走、鬣犬。ゴドはなにひとつ包み隠さず、すべてを語った。ラドゥは黙ってその話に耳を傾けた。澱底で育ち世事に疎いという側面がラドゥにはある。階級というものへの捉え方が、些か鈍い。シムカが貴人だということは察していた。ゆえに王族の血脈だという事実には驚かなかった。だが彼女が憑人だと明かされた時には、さすがに驚いた。知識として、そういう人々がいるとは知っていた。その身に痣を刻み、その内奥に獸を宿す特異な人々を獸憑きと呼ぶと、ガロから教わってはいた。だが、実際に出会うことになるとは思ってもみなかった。
『私たちが目指していたのは、〈憑人の里〉です』
老剣士は、傍らの少女の手を握った。
『あの里なら、シムカ様を受け入れてくださいます』
ゴドがいうには、ゾルガ国の北部国境を抜けた先に横たわる山岳地帯、その奥深くに獸憑きの聚落があるという。憑人の歴史は嫌悪と恐怖、そして虐殺の連続で綴られている。人々は痣を持つ赤児を間引き、獸を喚ぶ彼等を見つけ出しては、処刑した。火刑、断頭、腰斬……何十年、いや何百年もの間、迫害と殺戮は続いた。あるとき何人かの獸憑きが里を作った。憑人がひとりでこの世界で生きることは難しい。自衛のためでもあり、孤独を癒やすためでもあった。その里は痣を持つ者だけを受け入れた。国や人種は関係なかった。ただ、獸憑きだけを受け入れた。里は徐々にその規模を大きくしていった。彼等にとって、痣を持つ者は家族だ。多かれ少なかれ、住民たちは差別と迫害を経験している。ゆえに彼等の仲間意識は尋常ではない。ひとたび里に受け入れられれば、彼等は家族を全力で愛し、全力で守る。死すら恐れぬ獸憑きの集団と戦いたいとは、誰も思わない。損得勘定で動く傭兵ならば、間違いなく手を出さない。ヨキ国でさえ、自国が被る損害を考えれば手を引くだろう。
『里に辿り着けさえすれば、シムカ様は安全です』ですが、とゴドは続ける。『そこに行き着くまでが、問題なのです』
施術後の躯だ。ただでさえ体力は消耗しているというのに、こうも長々と物語れば、肉体の疲弊は著しいだろう。痛みに傷口をおさえ、息も絶え絶えに、しかしゴドは真摯な顔つきでラドゥを見つめる。
『どうか、シムカ様を憑人の里まで、連れて行ってはくれないだろうか』
納屋から少女が歩み出てきた。
薄闇の中をさっと見回し、ラドゥを見つけ、立ち止まった。
ラドゥはその少女に歩み寄る。
「どう、ですか」そう言ったシムカの顔つきは、いくぶん硬い。
「似合っていますよ」ラドゥは頷く。
シムカは先ほどまでのゆったりとした寛衣姿ではない。今の彼女は薄汚れた粗服と、丈の中途半端な下穿を身につけている。両足は上質な布靴ではなく、頑丈な造りの革編靴に取って代わられている。両手で抱え持っているのは、ラドゥが羽織っているような外衣を丸めたものだ。
シムカは旅装に身を包んでいた。それも、少年用の。
ラドゥは少女の服装から、頭髪に視線を移す。
綺麗に結い上げられていた黒髪は、バッサリと断ち切られていた。いくぶん乱雑ながらも、全体的に丁寧に整えられたその断髪姿は、服装も相まって少年の面影をシムカに重ねている。
それが狙いだ。
鬣犬が追っているのは少女。少年ではない。この姿なら、追っ手の眼を欺けるかもしれない。
それに欺けるのは追っ手だけとは限らない。旅路において少女に降りかかる災厄は数多い。人攫い、破落戸、野盗。
もしかしたら、あまり効果はないかもしれない。思春期に特有の中性的な面立ちをしているとはいえ、間近で見れば彼女が少女であると見抜くのは容易い。
それでも、何もしないよりは遙かにいいはずだ。
自らの躯を見下ろし、シムカはしきりと身を揺する。
「動きにくいですか」
ラドゥの問いに、
「いえ、大丈夫です。ただ、慣れない服装ですから、少し違和感が」
「すぐに慣れますよ」
「そうですか」そう呟いたあと、シムカは指先を額に持っていった。金糸のあしらわれた額布は服装に合わせ、暗い色合いの粗布へと変わっていた。
いつもと違う額布なのが不安なのだろう、彼女は眉根を寄せ、
「あの、透けていたりしませんか?」
怖々と、そう尋ねた。
ラドゥはゆっくりと首を振り「大丈夫です」と受け合った。
シムカが額布を巻いているのは、身なりを飾り立てるためではない。彼女が身に宿す獸を、隠すためだ。
先ほどラドゥは、シムカの額に走る痣を見ている。
ラドゥが彼女の用心棒として雇われた、直後のことだ。
ゴドが提示した報酬は、あまり高いとはいえない額だった。急いでヨキ国を出てきたこと、国境を越えるために使った袖の下、水や食料など諸々の経費を差し引くと、財嚢はだいぶ軽くなってしまったらしい。それにくわえ昼間の鬣犬の襲撃により馬車、荷物、その他諸々を失ってしまったふたりには、ほとんど持ち合わせがなかった。ゴドの提示した額は、ふたりのほぼすべてといってよかった。
命を懸けるには些か頼りない額だった。
だが、ラドゥはふたつ返事で請け負った。
ここまで関わってしまった以上、今さら見捨てるつもりはなかった。
答えを聞いたシムカは、おもむろに額布をほどいた。ゴドが止める間もなかった。
命を預ける相手への、それがせめてもの礼儀だと、彼女は思ったのだろう。
ラドゥは少女の額に視線を据えた。眉間から左右に、黒い痣が、蛇のようにうねっていた。
「やはり、気味が悪いですか」額布に撫でながら、少年姿のシムカは呟く。眉目に、微かな自嘲と羞恥が滲む。「先ほどお見せしたとおり、わたしは、獸憑きです」
「気にしていません」
「しかし」
「俺がそういう人間だったら、ゴドさんは貴女を俺に託さなかったと思います」
「それは……」シムカはしばし押し黙り、やがて小さく頷いた。「そうですね。そのとおりです」
ラドゥは足下の雑嚢のひとつを肩に担ぎ、もうひとつをシムカへと差し出した。
彼女はマントを羽織り、雑嚢を受け取る。
山々から、鳥の鳴き声が上がりはじめる。
夜空が瑠璃色に移ろう。
闇は、薄れつつある。
「そろそろ出発します」
「はい」
「おそらく、辛い旅路になると思います。それは覚悟して置いてください」
「わかりました」
薄闇の森林に、ラドゥは踏み込む。
緊張した面持ちで、シムカがそれに続く。
*****
ラドゥの宣言した通り、旅路は険しいものとなった。
ふたりが歩むのは街道ではなかった。
鬣犬はシムカが目指している場所を知っている。里に辿り着かれてしまえば、彼等には手が出せない。ゆえに西北へ向かう街道に網を張るはずだ。もちろん追っ手の数は限られるだろう。街道すべてを見張ることなど出来ようはずもない。だが待ち伏せをされているとわかっていて街道を使うのは、あまりに迂闊すぎる。
ラドゥに負ける気はない。用心棒を引き受けた以上、何があろうとシムカを守りきるつもりだ。
とはいえ、無駄な危険は避けるにこしたことはない。
だから、ふたりは道なき道を行く。
ラドゥが前を歩き、シムカがその後を追う。
谷間の村を出発してからすでに数日が経過していた。
今日ふたりが行くのは、広大な草原地帯だった。
爽やかな風が吹き抜ける。
周囲の緑が、ざわざわと靡く。
空は蒼く澄み渡り、太陽は真上に昇りつつある。
南の方に、彼等が下りてきた山の稜線が横たわっている。
街道からはずいぶんと離れている。人の姿も、気配も、微塵もない。あるのは遮るもののない、どこまでも続く大自然。
ラドゥはゆっくりとした速度で歩くよう心がけていた。
庶子とはいえ王家の血筋であり、先王の寵愛を一身に浴びて育ったシムカだ。貴族のような暮らしをしていたわけではなかったとはいえ、必要最低限の暮らしは保証されていた。城下町から出たこともない少女だ。そんな彼女が、土が踏み固められているわけでも、石畳が敷かれているわけでもない剥き出しの野を歩んでいる。シムカにとってこの旅路は辛いはずだ。
街道を使えない以上、必然的に旅程は長くなる。
一日で踏破できる距離も、二日、三日とかかる。
ならば、いたずらに強行軍を重ねるよりも、ゆっくりと、着実に進む方がシムカへの負担は軽くなるはずだ。
ゆるやかな歩みはラドゥにも利点があった。
速度が遅ければ、それだけ周囲に警戒の眼を光らせることができる。
何よりもシムカの安全こそが第一だった。
「そろそろ休憩にしましょう」ラドゥは立ち止まり、前方を指さした。平坦だった草原が、おだやかな起伏を描いている。ラドゥが指し示しているのは、ゆるやかな丘の上に生えている一本の樹だった。生い茂った枝葉は陽を遮る庇としてうってつけに思える。丘自体も高さがあり、見晴らしがよさそうだ。もし追っ手が迫っていたとしても ──もっともラドゥの警戒網には何も引っかかってはいないが── あの位置からなら、すぐに発見できる。
一刻後、ふたりは丘の木の根元に腰掛けている。
ラドゥは野兎の血抜きをしている。丘を登る途中、草叢の合間を駆け抜ける薄茶の毛皮が垣間見えた。ラドゥは足下から手頃な石を拾い上げ、指先で軽く握った。シムカに立ち止まるよう身振りで示し、ラドゥは足音ひとつ立てず獲物の方へ歩み寄った。兎は草を食むのをやめ、耳を立て、後脚で立ち上がった。その瞬間を読んでいたように、ラドゥは石を投擲した。風を切る音、次いで礫が野兎の頭蓋を砕いた鈍い音が耳に届いた。ラドゥはゆっくりと獲物に近づき、兎を持ち上げた。腰帯に後脚を括りつけ、ふたたび歩き出した。シムカがその後に続いた。
雑嚢の中には干し肉などの保存食が入っている。だが、先のことを考え、ラドゥは極力その日の糧を狩猟と採取でまかなっていた。
血抜きを終えると、ラドゥはナイフで兎の皮を剥ぎ、内臓を抜き、頭部と足先を切り落とした。雑嚢から燧石を取り出し、シムカが組んでくれた細枝の薪に火を熾す。余った細枝に兎を刺し肉を炙る。昨日山中で採集しておいた木の実と兎肉を器に乗せ、昼食は完成した。
ふたりは黙々と食べた。
時折ラドゥは鋭い眼つきで周囲を一瞥し、問題なしと頷いた。
食事を終えたラドゥたちは少し休憩し、旅路を再開する。
ひたすらに歩き続けた。
陽が暮れてきたのでふたりは眼についた巨岩の近くで夜営をした。ぽつりぽつりと、言葉を交わした。慣れぬ相手に戸惑っているのだろう、少女の口数は多くはなかった。ラドゥは黙って耳を傾けた。やがて夜が更けていった。シムカは眠りにつき、ラドゥは岩に背を凭れ、干し肉を嚼みながら夜闇に眼を光らせていた。不意に今の状況が澱底での夜と重なった。まだ彼が獸と戦う術を身につけていなかった頃の話だ。獸の吠え声に怯え、夜霧の臭いに顔を顰めていた、幼い自分。過去と現在。記憶が今と重なる。重なり、しかし、ズレが生じる。不寝番をしていたガロがラドゥに、不安を抱えて眠りについていたラドゥがシムカに、あの頃とは立場が引っ繰り返っている。焚き火越しに少女の寝顔を眺めながら、
「不思議だな」
ラドゥは独りごつ。
火勢の弱まった焚き火に薪をくべる。
炎が少女を赤く照らす。
その寝顔を、ラドゥはしばらく眺めている。
「剣を教えてほしいんです」
翌日、シムカにそう頼まれた。
黄昏、小川のほとりで夜営の準備をしていた時のことだ。
川で捕った魚を数えている最中、背後に少女の気配を感じた。
意を決したように唇を引き結び、いくぶん固い声でもう一度頼み込まれた。
「わたしに、剣術を教えてください」
彼女は短剣を佩いている。護身用としてゴドに持たされた物だ。最初の夜、ラドゥはシムカにその剣を見せてもらった。良い剣だ。鞘と柄の、過剰とも思える装飾はラドゥの好みではないが、刃は鋭く、また軽い。これなら少女の細腕でも充分扱うことができるだろう。
「なぜ剣術を?」
ラドゥの問いに、
「強く、なりたいからです」
シムカは答える。
ラドゥは魚から手を離し、彼女に向き直る。
少女は真剣な眼差しでラドゥを見ている。どうやら本気のようだ。とはいえ、ここ数日は歩きづめの旅路を続けている。ラドゥはまったく問題ないが、シムカは疲労しているはずだ。休める時は休んでおいた方がよい。
そう説明したのだが、
「大丈夫です」
シムカは引き下がらない。街道で襲われゴドにしがみついていた姿と、納屋から不安げに歩み出てきた彼女の印象が強いラドゥは、シムカの強情ともとれる態度に些か驚いた。だが、彼女は慣れぬ旅路に今日まで一度も弱音を吐いていない。思い返せば襲撃の日、村への険しい山道を、ラドゥの荷物を抱えながら、泣き言ひとつ漏らさず登りきった。その後はゴドの側を離れず、施術が終わるまで付き添った。休むようラドゥや村人がさとしても、頑として首を縦に振ることはなかった。存外に、勁い娘なのかもしれない。
ラドゥは薪束の近くへ移動する。シムカが森林から集めてきたものだ。雑多な枝々の中から手頃な二本の太枝を選り出し、木剣とする。
一本をシムカに差し出す。
受け取ったシムカは、
「教えて、くれるのですか?」
「あなたが引き下がりそうにないので」
ラドゥは右手の木剣を二、三回素振りする。重さも長さも丁度よい。本当は躯を休めた方がいいんだけどな、そう思いながら溜め息をつき、ラドゥはシムカに向かい合う。「少しでいいなら、教えます」
「ありがとうございます」シムカは頭を下げた。その所作の丁寧さに、ラドゥは彼女が王族の血筋であることを思い出す。同時に、危惧する。彼女の身の熟しは一介の旅人にしては細やかすぎる。もう少しくだけた態度をとるよう、注意したほうがいいかもしれない。
ラドゥは川辺から少し離れた草原に移動する。踝程度までしか草丈がない、動きやすい場所だ。
少女から三歩ほど離れた場所にラドゥは立つ。
「その木剣を構えてみてください」
「剣は、使わないのですか」シムカの手が腰に伸びる。
ラドゥは首を振る。「鍛錬ですから、真剣は使いません」
「そうか、そうですよね」頷き、シムカは木剣を構える。
その立ち姿に、ラドゥは見覚えがあった。
足を前後に軽く広げ、背筋を伸ばし、右手で剣を握り、その切っ先を敵に向け、左手を柄頭に添える。
ゴドだ。彼が鬣犬に立ち向かった時と同じ構え方だ。
見よう見まねというには隙の少ない、しっかりとした立ち姿だった。
「なかなか様になっていますね」
「時々、ゴドに教えてもらっていたんです」面映ゆそうにシムカは身を揺すった。
ラドゥは半身になり、軽く腰を落とした。一見すると何ともないような構えだが、見る者が見れば、その立ち姿に一切の隙が無いと気づいただろう。余計な力みも、過剰な緩みもない、理想的な臨戦態勢だ。
「好きなように打ってみてください」
ラドゥの言葉に、シムカは力強く頷いた。
「悪くなかったですよ」
ラドゥは焚き火を挟んでシムカの前に腰掛けた。串焼きにしていた魚を一本手に取り、頬張る。
「そう、ですか」同じように魚を食べていたシムカは手を止め、落胆を滲ませた。「本当に、そう思いますか」
「信じられませんか」
「そういうわけではないのですが。なんというか、その、思うように動けなかったもので」
「最初はそんなものですよ」
「それは、そうなのですが。もう少し、その」
「そう簡単に自由自在に剣を操れれば、誰も苦労しません」ラドゥはナイフを引き抜き、掌で踊らせた。順手持ち。逆手持ち。投擲に適した指先挟み。様々な持ち方を披露し、次の瞬間にはナイフは、すべるように左掌に移っている。あたかも曲芸のようなナイフ捌きに、シムカは眼を瞠る。「俺がこうやって刃物を操れるのは、血の滲む鍛錬を続けてきたからです」ラドゥは刃を鞘に戻す。「どんな技術もそうですが、一朝一夕で身につくものではありません。技を磨きたいなら、そうして強くなりたいなら、ひたすらに研鑽を積み重ねるしかないのです」
シムカは居住いを正し、ラドゥの言葉に耳を傾けている。
不意にラドゥは苦笑する。
まるで剣を習い始めた当初の自分のようだ。
俺もこんな風に、ガロの話を聞いていた。
彼女は本当に強くなりたいんだな。
ラドゥは口元を引き締める。
「確かにシムカ様の足捌きは拙かったです」ラドゥは頷き、「ですが、悪くなかったという俺の言葉に、偽りはありません。筋は良いと思います」
ゴドから剣の手ほどきを受けていたというのは本当なのだろう。ぎこちないながらも、基本的には悪くない躯の使い方だった。もともとの運動神経が良いのだろう、磨けば光るかもしれない。だが、ゴドに教わったという剣術はいただけなかった。彼女は剣に体重を乗せ、正面から、真っ直ぐに打ち込んでくる。あまりにも愚直かつ直線的なその剣筋は、十分な体格と膂力を持ち合わせているならば問題ない。が、華奢な少女の体つきに適しているとは、到底思えない。
小さい者には、小さい者なりの戦い方がある。
それは他ならぬ彼自身が身に染みてわかっている。
師であるガロとラドゥの戦い方はまるで違う。ガロはその巨躯と膂力をもってすべてを一撃で断ち斬る、豪腕の剣士だった。だが小柄なラドゥには師のような戦い方は不向きだ。ガロはラドゥの強みを見極め、彼の長所を磨いていった。すなわち疾さと体術。そうしてラドゥは、まさに技巧の剣士と呼ぶに相応しい剣術を身につけた。
自分と同じ戦い方をシムカが出来るとは思っていない。
ガロをして『天稟がある』と言わしめた戦闘センスあってこそ成立するのが、ラドゥの剣術だ。
教えられるとしても、基礎的な部分だけろう。時間も限られている。
それでも〈憑人の里〉に着くまでの間、彼女の師になるのも、悪くないかもしれない。
「ゴドさんに教わった剣術は、一旦忘れてください」
焼き魚を食べ終えるとラドゥは立ち上がった。陽が沈みきる前に周囲を警邏するのが日課だった。緩やかな歩様で川辺を歩き、振り返り、シムカを見やる。
「明日からは、俺の剣を教えます」