掌編〈箍〉
〈箍〉
勧められるがままに、ラドゥはジョッキに口をつけた。
苦みと、わずかな酸味。舌先ではじける気泡。麦酒だ。思ったよりも悪くない、そう思いながらラドゥは二口、三口と咽喉を鳴らす。
「お、なかなかイイ飲みっぷりじゃないか」
傍らの男が感心したようにラドゥの肩を叩いた。髭面の、薄汚い身なりの男だ。堅い掌、節くれ立った指、黒ずんだ爪。男はラドゥの横顔にニッと笑いかけ、
「おれも負けちゃいられないな」
そう云ってジョッキをぐいと呷り、そのまま一息に中身を飲み干す。髭先を伝う白い泡を手の甲で拭い、男は満面の笑みを浮かべ、
「やっぱり、仕事終わりのビールってのは格別だな。今日一日の疲れが吹き飛ぶってなもんだ。お前さんもそう思うだろ?」
ラドゥが答えるまえに、周囲から賛同の声があがる。
酒場の一席にラドゥはいる。手狭な店内は四阿に板壁を貼り付けただけのような杜撰なつくりで、その店内を埋め尽くすように男たちが犇めいている。髭面の男同様、男たちは薄汚れた身なりで酒を呑んでいる。テーブルの上には茹でた馬鈴薯、串焼きにされた獣肉、山盛りの麵麭など、様々な料理が所せましと並んでいる。食欲を唆る香りに混じって、男たちの饐えた臭いが鼻をつく。汗の臭い、木屑の臭い、樵夫の臭いだ。今日一日、ラドゥは彼等に混じって木材を伐出していた。
野盗の襲撃を避けるために早朝より山道を歩いていたラドゥは、偶然その伐採場を通りかかった。喧々囂々としていた。幾人もの男たちが斧を手に、怒声を張り上げながら、汗みずくになって丸太を担ぎ上げていた。ラドゥは樵夫たちを眺めた。熱心に力仕事に打ち込む彼等の姿が気持ちよかったのだ。しばらくの間、ラドゥは木陰の傍に佇んで伐採場を見つめていた。
「なんだ坊主、仕事の口でも探してるのか」
ラドゥの姿に気づいたひとりが、声をかけてきた。
ラドゥにビールを勧めた髭面の男だ。
「人手が足りなくて困ってたんだ。やってくかい?」
髭面の男は、樵夫たちの親方だった。
ジャックから受け取った報酬により、ラドゥの財嚢は重たい。だが、重すぎて困るということもない。ラドゥは小さく頷き、外衣の結紐に手をかけた。親方はラドゥにさして期待などしていなかった。あくまでも、細々とした雑務を任せるために声をかけたにすぎない。しかしいざ蓋を開けてみると、少年はその小柄な躯つきからは思いもよらぬ働きぶりをみせた。屈強な樵夫たちに混ざって木を引き倒した。重い丸太を平然と担ぎ、手慣れた様子で斧を幹に打ちつけた。枝打ち用の鉈を手渡せば身軽に木をよじ登り、素速く枝を刈落としたと思うと、瞬く間に地面に降り立っている。到底素人とは思えない働きぶりに、親方は思わず舌を巻いた。正午を過ぎる頃には、少年は樵夫たちにすっかり受け入れられていた。
そのまま陽が傾くまで、ラドゥは伐採場で身を粉にして働いた。
盛大に羽目をはずす樵夫たちの姿を眺めながら、ラドゥはパンを囓り、串焼きを頬張り、ビールを味わう。本当に悪くない、そう思いながら、琥珀色の液体を飲み干す。すでに三杯目だ。躯の芯が温かい。視界がうっすらと滲む。ぬるま湯に浸かっているような心地よい感覚に、ラドゥの意識はゆるやかに解けていく。なるほど、これが酔いか。なぜ〈外〉の世界の人々が酒を嗜むのか、これで理解できた。
どれだけの間、そうしていただろうか。
「よお、俺も混ぜてくれよ」
不意に酒場の扉が開け放たれた。
のそりのそりと、ひとりの男が現れた。
樵夫たちと同じ、薄汚れた身なりに饐えた臭い。
男の姿に、店内が静まる。
店内を見廻していた男は酔客の中にラドゥの姿を見出し、下卑た嗤いを浮かべた。「なんだ坊主、オメェもいたのか」
近づいていくる男の姿に、ラドゥはスッと眼を細めた。ラドゥは樵夫たちに受け入れられた。だが、全員にというわけではない。どのような集団にもはみ出し者はいる。
ずんぐりとした体躯に張りつめた筋肉。頬や腕に走る刀創。粗野な言動、横暴な振る舞い。今日一日で、ラドゥはこの男がクズの類いだと理解した。誰彼かまわず噛みつき、気に入らなければ腕力に訴え、自分に楯突くものには容赦しない。そんな男の矛先がラドゥに向かうのに、さして時間はかからなかった。こういう手合いにとって、女子供とはいたぶる対象以外の何ものでもない。男は隙をみつけてはラドゥを怒鳴り、小突き、叩いた。じっと、ラドゥは耐え忍んだ。どうしようもないクズとはいえ、かりにも樵夫として働く堅気の人間だ。極力、手は出したくない。
仕事が終わると同時に、男は早々と姿を消した。
ラドゥはホッと胸を撫でおろした。
酒盛りの誘いにラドゥが応じたのは、男がいなかったからだ。
男は親方を押しのけ、ラドゥの傍らにどしんと腰をおろした。
「よお、愉しんでるか坊主」
男はすでに微醺を帯びていた。情事のあとに特有の、ある種の生臭さも臭う。娼婦を買った帰りかなにかだろう。そのまま塒にでも戻ればいいものを……嘆息し、ラドゥはジョッキを傾け、
だしぬけに、ジョッキが吹き飛んだ。
「おい、俺は愉しんでるか訊いてるんだぜ」ジョッキを振り払った太い腕が、返す刀でラドゥの頭を強く叩いた。「まったく、最近のガキは礼儀がなってねぇな。……なんだ、その眼つきは」
無意識に、ラドゥは男を睨めあげていた。
今のラドゥは、酔っている。
「一度しか云わないからよく聞け」静かに、ラドゥは警告する。「次俺に触ったら、ただじゃおかない」
「なんだと?」男の蟀谷に青筋が立つ。「坊主、もういっぺん云ってみろや」
荒々しく、男はラドゥの胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。もし、男の意識が正常であったなら、男はラドゥの変化に気づいていただろう。声色の冷たさに、眸にこもる瞋恚に、気づけていただろう。だが、男は酔っていた。
酔いは感覚を鈍らせる。本能を、警戒心を鈍麻させる。
そして、同時に、
酔いは感情を、理性の箍を、容易く弛める。
男の指先が、ラドゥの胸ぐらに触れた、その瞬間、
骨の砕ける音と共に、男の人差し指と中指が、あらぬ方向に折れ枉がった。
灼けつくような激痛に、男は悲鳴をあげ、
鳩尾に減り込んだ拳が、男の息を詰まらせる。
喉元に勢いよく反吐が迫りあがり、
しかし、男は嘔吐することができない。
ラドゥの右手が、男の喉笛を鷲掴みにしていた。
「触るなと云ったろ」氷の声。鷹の眸。男は逃れようと、ラドゥの腕に掴みかかる。だが、ビクともしない。その外見からは思いもよらないほど、ラドゥの躯は鍛え抜かれている。堅い骨、分厚い皮膚、強靱な筋肉。膂力に優れ、とりわけ強力なのが握力だ。弐號種と鍔迫り合ってなお剣を取り落とさぬラドゥの指力は、間違いなくこの酒場にいる誰よりも強い。
「アンタみたいな男には虫唾が走る」
野盗、暴漢、悪党。弱者を喰いものにする救いようのないクズ。〈外〉の世界は、そういう輩で溢れている。
ラドゥの指先が、強く、烈しく、男の喉笛に喰い込む。
男の唇から、反吐混じりの泡が噴き出す。
窒息寸前の鬱血した顔を、ラドゥは無慈悲に睨みつける。
こういうクズを生かしておく理由がわからない。
こういうクズを見逃す理由がみつからない。
心の奥処に渦巻く、兇暴な衝動。
ラドゥは指先に、さらに力をこめ、
「おい、もう止めとけよ」
唐突に、背後から肩を掴まれた。
髭面の親方だった。親方は振り返ったラドゥの表情――獲物を狙う猛禽類のそれ――に息を呑み、それでも恐怖をおくびにも出さず、ラドゥを見つめ、
「本当に、もう止めとけ。それ以上やったら、そいつ死んじまう。どうしようもない野郎なのは認めるが、それでも俺の部下なんだ。……後生だ、勘弁してやってくれ」
そう云って、親方は頭を下げる。
酒場の全員の視線がふたりに注がれる。
重苦しい沈黙が、緞帳のように店内に垂れ込める。
不意にラドゥは、指先から力を抜いた。
支えを失った男の躯が、椅子から崩れ落ちる。
「殺してはいません」
男は胎児のように背を丸め、激しく咳き込む。嗚咽。飛散する反吐。頸筋に浮かぶ五指の痣。周囲の樵夫たちが男に駆け寄り、その身を助け起こす。
ラドゥは懐から財嚢を取り出し、
「迷惑をかけました」
数枚の銀貨を親方に手渡し、
「これでこの人を医術師にでも診せてあげてください」
云い残し、ラドゥは酒場を後にする。
誰ひとり、引き留める者はいなかった。
宵はすでに深まっている。
小さな街だ。店灯りは乏しく、人通りはまばら。閑散とした通りを、ラドゥはあてどもなく歩く。火照った肢体に夜気が心地よい。熱を帯びた意識がゆっくりと冷えていく。酔い醒ましにはお誂え向きの彷徨。
右掌に、兇行の感触がありありと残っている。
親方が間に入らなければ、とラドゥは考える。あのまま続けていれば、俺はあの男を殺していた。
それに関して、ラドゥに思うところはない。苦悩や後悔など感じない。そのような感情を抱くには、ラドゥはあまりに永く修羅場に身を置きすぎている。
血、傷、獸、赫眸、澱底。
師の教え。ガロの掟。
人であろうと獸であろうと、それが敵であるならば、ラドゥは躊躇いなく殺せる。
狩人として、ラドゥはこの上なく正しい。
「だが」右掌を握り、ぽつりと、ラドゥは溢す。「それが人として正しいことなのかどうかは、俺にはわからない」
〈了〉




