ラドゥと少女と獣憑き〈漆〉
【13】
エルロはゾルガ国北部国境に近い街〈ビルジ〉を高台から見下ろしている。
北部は深部へ進むにつれ岩山が目立つようになり、ここビルジにまで来ると周辺は急峻な山肌に囲まれることになる。地勢を鑑みるに山越えなどは不可能であり、旅人や隊商の通る道は自然街道となる。それゆえエルロを含む五人の鬣犬は、此処に送り出されたのだ。逃げ場のない一本道となれば、要撃にはうってつけだ。
だが自分たちは、第二支隊はあくまで保険なのだと思っていた。
ドムグ率いる本隊には歴戦の猛者が多くいる。さらには雇い入れた一級狩人までも。小娘の確保は時間の問題だと、そう思っていた。
三日前に鴉の運んできた文により、状況が一変した。
書かれている内容に、エルロは驚きを禁じ得なかった。
シムカ=トドゥクを発見、六人の鬣犬の強襲、しかし、護衛の小僧に悉く退けられる。
たかがガキひとりに、本隊の鬣犬たちが六人も殺されたというのか。そんなことがあり得るのか。
浮かんだ疑問を、しかしエルロは振り払う。首領は嘘をつかない。書かれていることはすべて事実と考えて間違いない。ならば、エルロは自分の仕事を遂行するまでだ。文には第二支隊への指示が書かれている。エルロはその内容に眼を通し、唸る。
現在本隊は窮状にある。
一言にいえば、鬣犬は目立ちすぎた。今大きく動けば、確実に面倒な事態に陥る。本隊はすでに撤退の準備を進めている。だからエルロの率いる第二支隊に、シムカ=トドゥクの確保を命じてきた。獲物の目指す場所が〈憑人の里〉である以上、北部国境砦を通らざるを得ない。獲物は確実に国境へ通じる街道に現れる。そして休息や補給の為に、必ずビルジへ立ち寄る。その時を狙え、というのがドムグからの指示だった。
「現れませんね」
部下のひとりが遠眼鏡から顔を離した。
「まあ、現れる保証なんかどこにもねぇからな」
吐き捨て、エルロは懐からある物を取り出す。
血のこびりついた、指輪。
番鴉の文に同封されていた品だ。
指輪には三本の剣を複雑に組み合わせた紋章が刻まれている。ヨキ国王家直属の近衛にのみ着用を許される紋章指輪だ。持ち主はシムカ=トドゥクの護衛、ゴド=イシズル。山麓近辺を探索していた第一支隊が、山間の聚落で手負いの近衛剣士を発見、使い道があるかも知れないと生け捕りにし、数日前本隊と合流したという。
遠眼鏡を脇に置き、部下の男がエルロの手元を見やる。
「そいつを使って小娘を誘き出すってのが、お頭の案ですか」
「らしいな」苦々しそうに呟く。「穏便に事を進めるのがお望みらしい」
「気に入らないですか」
「当然だ」エルロは眉を顰める。「ただでさえ何日も獲物を待ち伏せしてるだけだってのに、ようやくお鉢が回ってきたと思ったらコレだぜ。つまらねぇだろ」
部下の男が頷く。他の鬣犬たちも同様だ。
「まあ、仕方ねぇ。命令だからな」部下たちが自分と同じ心境だということに満足したのか、エルロはいくらか苛立ちを静め、嘆息する。それに指示自体は真っ当なものだ、とエルロも思う。小娘の護衛に六人殺されたとあるが、山麓の襲撃も含めればその数は九名にのぼる。たったひとりに、これほどの被害を出されている。敵は相当な手練れだ。第二支隊の人数はエルロを入れて五人。それも本隊のような精鋭揃いではない。分が悪い。真正面からぶつかれば、おそらく負ける。
ならば小娘を捕らえる手は、確かにこれしかないのかもしれない。
エルロは指輪を懐に戻す。
シムカ=トドゥク確保の段取りは、一応はつけてある。
あとは小娘がビルジに現れるかどうかだ。
文にもある通り、鬣犬にはあまり時間がない。
期限はあと二日。それまでにシムカ=トドゥクが現れなければ本隊と合流し、撤退する。
「頼むぜ、シムカ=トドゥク」エルロは空に向かって呟く。「お頭にどやされるのは勘弁願いたいんだからよ」
それから数刻が過ぎ去った。
鬣犬たちは交代で街道を見張り続けていた。
「まさか、あれか?」不意に遠眼鏡を覗いていたひとりの鬣犬が声を上げた。「ガキの二人組が、こっちに向かって歩いて来ます」
「何だと」寝転んでいたエルロは自分の遠眼鏡を手に素速く立ち上がり、部下の隣に屈む。「どの辺りだ」
「デカい荷を背負った行商人の後ろです。今、馬車が通り過ぎた辺りの」
「あれか」エルロはその人影を捉えた。随分と距離があるため鮮明とはいえないが、二人組の風体くらいは見て取れる。
文に書かれていた獲物の容姿を思い出す。
シムカ=トドゥクは髪を短く切り、男装し、性別を欺いている。額の痣を隠すために布を巻いているから、すぐにわかる。
二人組の片方が、まさに書かれていた通りの恰好をしている。
にやりとし、エルロはもう片方に視線を向ける。
こちらは薄汚れたマントを羽織っている。乱雑な髪が風に乱れている。文に書かれていた護衛の小僧の身なりに近いが、小娘ほどの確信が持てない。いってしまえばどこにでもいる旅人の風体だ。だから、エルロはその顔を注視する。身なり以外にも、小僧には特徴があると書かれていた。それはお頭が雇い入れた一級狩人の男からの助言だった。
『眼を見ればわかる』
一言、そう書かれていた。
それで一体何がわかるというのか。エルロは半信半疑ながらも、乱雑な髪の隙間から覗く少年の面を追った。
瞬間、鳥肌が立った。
遠眼鏡を抛り、脇にいた部下の首根っこを掴むと、身を伏せた。
言葉はいらなかった。エルロが伏せた一瞬後には、部下たちも身を伏せている。
(あり得ねぇ)
エルロは粟立った腕を擦りながら、荒い息を吐いた。
(あのガキに、見えてるはずがねぇ)
だが、先ほど確かに、マントの少年は立ち止まり、こちらに視線を向けた。
その目つきに、エルロの背筋が震え上がった。
鋭く、獰猛な、獲物を狙う猛禽類のような瞳。
数秒の間を置いてから、エルロは再び遠眼鏡を手に取る。
先ほど同様、ふたりは街道を歩いている。
マントの少年がこちらを気にしている様子はない。やはり見られてはいない。当然だ。これだけ離れていてこちらの姿を視認できるわけがない。同様の理由から、気取られたとも考えられない。敵意や殺気というものは、間近にいなければ感じ取れないものだ。あの少年がこちらを向いたのは、偶々。
そう、偶然だ。
それ以外は、あり得ない。
だが、偶然だったとしても。
「なるほどな」エルロはふたりの姿を追いながら、額に浮いた冷や汗を拭う。「確かにあのガキ、相当ヤバそうだ」
ラドゥは遠方の一点に視線を据えた。
雄大な光景が眼前に広がっていた。澄み切った青空、群れを成す鳥影、そして峻険な山稜。ラドゥが眼を向けたのは、その一部だ。剥き出しの岩肌に、樹木や草叢が散在している。
山裾よりやや上あたりだろうか、草叢の中で、何かが光った気がした。
だからラドゥは立ち止まり、遠方の草叢を見つめた。
眼を凝らし、風に揺らめく枝葉を睨んだ。
特に、異変は認められなかった。
葉に付着した朝露か何かが、陽光に燦めいただけか。
「どうしました」シムカがラドゥの側に寄った。「何か、気になる事がありますか」
「いえ、そういうわけでは」
「そうですか。わたしはてっきり、鬣犬を発見したのかと」
「そんな風に見えましたか」
「はい、その……」シムカは些か躊躇ったすえ、ラドゥの顔をおずおずと見つめた。「少し、怖い顔をしていたので」
意外な言葉にラドゥは押し黙った。そんな意識は全くなかった。彼はただ、遠くを眺めていただけだった。シムカ様に不安を与えるほど、俺は剣呑な顔つきをしていたのだろうか。
(過剰に警戒し過ぎ、か)
歩みを再開してから、ラドゥはそう思った。
渓谷の橋から飛び降りてから、すでに六日が経過していた。
あの日、ふたりは川岸から十分離れてから野営をした。服と荷物を乾かし、焚き火で冷えた躯を温め、簡単な食事を摂ってから、ふたりは一息ついた。〈ゼバ〉で十分な静養を取っていたことが幸いしたのだろう、シムカが再度体調を崩すことはなかった。よく食べ、よく眠り、よく歩いている。良い兆候だ。ラドゥ自身は、張り詰めていた。あの日を境に、ラドゥの警戒心はよりいっそう高まった。鬣犬の襲撃を許したのもそうだが、何より赤毛の男の存在が大きかった。弐號種と同等の、いや、弐號種をさえ凌駕するあの男との一戦が、ラドゥに澱底を、あの最悪の地での感覚を呼び起こしていた。常に周囲に眼を光らせ、あらゆる敵襲に対応できるように備えていた。日を追うごとに、ラドゥは殺気立っていった。
どうやらその様が、シムカの不安を煽ったようであった。
澱底でならば、問題ない。
臨戦態勢こそ常態だ。
だが、ここは故郷ではない。
常に殺気立っていれば、目立つ。
一緒に旅をしてきたシムカの目にさえ奇異に映ったのだとすれば、他の人々には、ここ数日のラドゥの姿はどのように映っていたのか。
人目を惹くということは、人々の記憶に残るということ。
記憶に残れば、口にのぼる。
口にのぼれば、噂となる。
その噂が、何かの拍子に鬣犬の耳に入らぬとも限らない。
通行人の姿が多くなってきた。
街が近い。地図で確かめたところ、この先には〈ビルジ〉と呼ばれる街がある。ふたりが乗るはずだった隊商が目指していた、ゾルガ国最北端の街だ。つまり、国境が近い。この街に立ち寄り、物資の補給をして、一日だけ躯を休めたら、あとは一気に憑人の里まで突き進むのがラドゥの計画だった。
旅の終わりは近い。もちろん、何事もなければ、だが。
この数日、追っ手の姿は無い。諦めたのか、あるいは何か企んでいるのか。
警戒を解くつもりはない。周囲に眼を光らせることに変わりはない。だが、これから街へ入るのだ。
常態でいなければならない。
朝露の反射光にいちいち殺気だってはいられない。
(少し、肩の力を抜かないとな)
内心で呟き、ラドゥは溜め息をつく。
外の暮らしに慣れたつもりだったが、やはり澱底で染みついた癖は、そう簡単には抜けないものらしい。
【14】
シムカは目の前を流れていく人々を眺めている。
背後の建物に凭れながら、彼女はラドゥの用事が終わるのを待っていた。
シムカがいるのは市壁近くの路上の一画だ。通り沿いに出店が散在しており、ちょっとした市場のような雰囲気を醸し出している。だが、その規模はこの前訪なったゼバの市場とは比べるべくもなく、市場というよりは露店通りと言った方がしっくりとくる眺めであった。
ふたりは街に到着すると、まず宿屋を探した。どうやらビルジは宿場町として盛んであるらしく、あまり広くない街並みの至る所に宿屋が蝟集していた。目立たない裏通りの宿に一部屋を取り、ふたりは買い出しに出かけた。
シムカは人混みが得意ではない。先王の庇護があったとはいえ、彼女は獸憑きだ。故国での暮らしは楽なものではなかった。もちろん生活自体は保証されていた。しかし安全については、その限りではない。王弟ドウガシは彼女の処刑要求を取り下げたとはいえ、彼の意を汲んだ配下の者がいつ刺客を放たぬとも限らない。外出時には、常にゴドが護衛として同行した。誰が敵で誰が味方なのか、シムカには杳として知れなかった。痣のこともあった。隠しているとはいえ、もし何かの拍子に額布が解けてしまうような事があれば。
獸憑きだと知れれば、人々に何をされるかわからない。
いつしかシムカは、雑踏を恐れるようになった。一頃は一切の外出さえままならない程であった。
それでも歳を重ねるごとに、少しずつ恐怖心を克服していった。
とはいえ今だに人混みが苦手であることに変わりはない。
ゆえにシムカは、こうして人通りの少ない一画でラドゥを待っている。
ラドゥはいくつかの露店を回りながら、必要な物を調達している。
こちらに眼を向けてはいない。だが、見守られている。
どうやったらあんな風に周囲に気を配れるのか、シムカにはわからない。共に旅を始めてからこの方、ラドゥがまともに休んでいるのを見たことがない。そもそも彼は横にならない。焚き火の前でも宿の中でも、胡座をかくか、壁に凭れるかしながら眼を瞑る。夜更け、彼女が不意に眼を覚ましたり、厠の為に起き上がったりすると、まるでそれを予知していたかのようにラドゥは瞼を開く。常に周囲を警戒し、ほとんど隙を見せることが無い。
ラドゥが異常なほど強いということは、戦いの素人であるシムカの眼にも明らかだった。
彼は鬣犬を軽々と殺す。多勢に無勢だったとはいえ、元国王直属の近衛剣士であったゴドが後れをとった程の傭兵たちを、容易く打ち負かす。
自分とそう歳の変わらなさそうな少年が、どうしてこれ程までに強いのか。
一体、彼は何者なのか。どのような生い立ちを経れば、あそこまで強くなれるのか。
特に、あの男との戦いは凄まじかった。
シムカの脳裡に、燃えるような赤毛が浮かび上がる。
虎のような眼。ざらついた殺気。
背筋に冷たいものが走る。
あの男、確かザルファと呼ばれていた。その名を思い出すだけで、シムカは目眩がする。ヨキ国にいてさえ、その名は聞いたことがある。〈獸人〉、〈赫眸殺し〉、そして〈削刃〉。数々の異名で恐れられる、悪逆無道の一級狩人。もちろんあの男がそうであるとは限らない。同姓同名の別人なのかも知れない。しかし、もし正真正銘あの男が〈削刃のザルファ〉なのだとしたら、彼女は鬣犬だけでなく、一級狩人にまで追われていることになる。
その事実に、シムカの手が慄える。
あんな男に追われていては、絶対に逃げ切れない。
そう思いながらも、シムカは自分が思ったほどの恐怖を感じていないことに、気づいていた。
ラドゥがいるからだ。
自分の用心棒であり、剣の師でもある少年。
彼と共にいれば、憑人の里まで辿り着ける気がする。
いつの間にかシムカは、ラドゥにゴド以上の信頼感を抱いていた。
気がつくと、シムカの前に小さな人影が佇んでいた。
自らの思考に入り込んでいた彼女は、一拍遅れてその存在に気づいた。
薄汚れた身なりの、七、八歳くらいの男の子だった。大きな籠を背負い、人好きするような笑みを浮かべ、シムカを眺めていた。こういう童の群れは故国ヨキでも、ゾルガ国で立ち寄った街々でも、よく見かけた。貧しい家の子供や浮浪児が露天商に雇われ、端金で物品を売り歩いているのだ。この露店通りでもすでに数人見かけている。
何かを売りつけるつもりだろうか。
買うつもりはないが、しかし子供を無下にするのも気が引け、シムカは笑みを浮かべながら話しかけた。
「どうしたの?」
問いに、しかし男の子は答えることなく、懐に手を入れ、何かを取り出す。
そして彼女に差し出した。
「これ」
男の子は無垢な瞳でシムカを見つめた。
「おねえちゃんに渡してくれって」
訝りながらも、シムカは男の子からそれを受け取った。
掌に収まる程度の、羊皮紙の包みだった。
手紙、だろうか。
「ひとりで読んでって」用は済んだというように踵を返していた男の子は立ち止まり、「そうしないと、よくないことになるって、黒いおじさんたちが」
「黒い、おじさんたち?」
「うん。ごどってひとのことだって」
その言葉に、シムカの躯が凍りついた。
そんな彼女を尻目に、男の子は雑踏の中へ消えていった。
シムカは紐を解き、包みを開ける。
血のこびりついた黄金の指輪が溢れ出てきた。
鼓動が速くなる。息が荒くなる。
指輪を手に取る。三本の剣を組み合わせた紋章が見て取れる。近衛剣士の証。ゴドの指輪。
耳鳴りがする。嗚咽が漏れそうになる。
羊皮紙に、文字が書かれている。
恐る恐る、シムカはその文に眼を通す。
速歩に、ラドゥはシムカの元へと戻った。
買うべき物品はまだ残っていたが、シムカの様子が些か気がかりだった。
露店を回りながらもラドゥはシムカを護衛していた。視覚だけが外界の認識方法ではない。聴覚、嗅覚、そして戦いの中で磨かれた第六感。それらすべてを動員して、ラドゥは少女の動向に意識を向けていた。
五軒目の露店に立ち寄った時、それに気づいた。
シムカの前に、小さな男の子が佇んでいた。
それ自体は特におかしなことでもなんでもない。通りには物品を売り歩く浮浪児が多くいる。シムカに何かを売りつけようとしているのかもしれない。
問題はその後だ。男の子が立ち去ったあと、シムカは目眩を起こしたかのように、近くの建物に手をついた。もう片方の手を胸に当て、深呼吸を繰り返している。
何かが、起きた。
そう直感したラドゥは、すぐさまシムカの元へ駆けつけた。
「どうかしましたか」
ラドゥの呼びかけに、彼女はゆっくりと振り返った。
「買い出しは、終わったのですか」
笑みを浮かべながら、彼女はそう訊ねた。
「いえ、まだです。シムカ様の様子に異変を感じて、戻ってきました」ラドゥは頸い眼差しで少女を見つめ、もう一度訊いた。「壁に手をついて、苦しそうにしていました。どうかしましたか」
「すいません」彼女は申し訳なさそうに首を振った。「少し、立ち眩みがしたものですから」
「大丈夫ですか」
「はい、すぐに収まりました。ただ、やはり疲れが溜まっているのかもしれません」再度申し訳なさそうな表情を浮かべ、シムカは頭を下げた。「すいません。この間、街で十分な休息を取ったというのに」
「気にしないでください。この六日間歩き通しでした。疲れるのも無理はありません」そう言うとラドゥは購入した荷物を一纏めにし、肩に担いだ。「ちょうど陽も傾いて来たところです。今日はもう、宿へ帰り、ゆっくりと休みましょう」
「いいのですか」
「だいだい必要な物は揃いました。あとは明日、出発の前に調達します」
「わかりました」シムカはぎこちなく頷く。「それでは、お言葉に甘えて」
「はい。帰りましょう」
そうしてふたりは歩き出した。
ラドゥにはひとつ、弱点がある。
彼は幼少の頃から、ガロと共に澱底にいた。生き残るために、師は徹底的にラドゥを鍛え上げた。ラドゥは体術を、剣術を、そして敵の殺し方を、完璧にものにしていった。そして獸と殺し合った。剣を手に、血に塗れ、ガロと共に獸狩りに明け暮れた。ただひたすらに、闘いのみに身を投じ続けた。
それがラドゥの弱点だ。
澱底では、ラドゥは基本的に師とふたりきりだった。
話し相手はガロしかいなかった。
ラドゥは社交の経験が、圧倒的に不足している。
外に出てきてからラドゥは野盗や暴漢に頻繁に絡まれていたが、その原因は彼の容姿だけではない。確かにラドゥは小柄で童顔だ。そんなラドゥの姿は、悪党たちには恰好の獲物と映ったことだろう。しかしそれだけが喧嘩を売られた原因では、ない。鬣犬とのやり取りを見ればわかる通り、ラドゥは相手の感情の機微を捉えるのが得意ではない。だから相手の感情を逆撫でするような言動を、侮辱するような発言を、平然と口にしてしまう。良くも悪くも、ラドゥは率直すぎる。
もう少し早く、ラドゥが外に出てきていたのなら。
多くの人々と接し、人間関係への造詣を深め、社会というものを解していれば。
あるいはそうなっていれば、ラドゥはシムカの心に生じた暗澹たる機微に、気づけたかもしれない。
だが、今の彼には、気づけなかった。
*****
「目論見通り、指輪は小娘に届いたそうです」
部下の報告に、エルロは頷く。
何とかしてシムカ=トドゥクに接触する必要があった。しかし、鬣犬が近づけば護衛の小僧に気取られる可能性がある。彼等はドムグの命令を遂行する為、何日も前から街の浮浪児を手なずけておいた。
成功する確率は五分五分。エルロはそう見積もっていたが、どうやら賭けに勝ったらしい。
ビルジ南門から幾分離れた山裾に身を潜めながら、エルロは頭上を見上げる。
空に薄暮が兆しはじめる。
山稜の投げかける影が、闇を深めつつある。
「馬車の用意は終わっています。南門の門衛にも賄賂を掴ませました」
別の部下の報告に、
「なら、準備は万端ってわけだ」
エルロはにやりとする。
同意するように全員が口元を歪める。
「よし」彼は森林の間隙から街の明かりを睨む。「あとは夜を待つだけだな」
【15】
宿に帰り着くと、ラドゥはスープを作った。前回同様、疲労回復に効果のある獣肉と根菜のスープだった。
ふたりは部屋で静かにスープを啜った。
シムカの口数は少なかった。匙を口に運んでは戻し、ボーッと壁の一点を見つめていると思うと、不意に我に返ったようにラドゥの視線に気づき、再び匙を口に運ぶ。明らかに彼女の様子はおかしかった。
「熱はありませんか」
少女の挙動に先日の発熱時の様子が重なったラドゥは、心配そうにシムカの顔を見やった。
「……いえ、大丈夫です」
ラドゥはシムカの傍らに立ち、
「少し、失礼します」
そう言って彼女の首元に触れた。
熱くはない。どちらかといえば、冷えている。
「単純に、疲れているのだと思います」少女は暗い眼で窓の外を見やった。すでに夜の帷が降りていた。シムカはスープの器をテーブルに戻し、ベッドに腰掛けた。「……すいません、あまり食欲が……今日はもう、休みます」
「医術師を呼びますか」
「いえ、本当に、疲れているだけなのです。一晩眠れば、恢復すると思います」
「しかし」
「本当です」少女は弱々しく笑った。「もし、辛くなったら、その時は頼みます」
「わかりました」
シムカはベッドに横になり、上掛けを被った。
ラドゥはしばらくシムカを見ていた。
上掛けを被った彼女の呼吸は、一定だ。熱もない。本当に、疲れているだけなのかもしれない。彼女の言うとおり、一晩経てば恢復しているだろう。
ラドゥは食器類を片付け、荷物を整頓し、床に胡座をかいた。剣を傍に立てかけ、マントを羽織り、その中でナイフを握り締める。休む時のいつもの体勢。壁に凭れ、ラドゥは眼を瞑る。眠るには少し時間が早い。彼は瞼の裏側に、直近の戦闘を映し出す。記憶の中の敵と向かい合うのも、重要な鍛錬のひとつだ。自分がもっとも苦戦を強いられた闘い、強敵と呼ぶに足る相手との死闘を、脳裡に描く。最近まで、ラドゥが思い出していたのは〈六肢〉だった。ジャックたちと共に訪れた山林で遭遇した弐號種。名前の通り六本の手脚を持つ異形の獸。ラドゥがこれまで狩猟してきた弐號種の中でも、一、二を争う強敵だった。闘いを思い返しながら、ラドゥは自分の動きに修正をくわえていく。ああ動くべきではなかった、切り返すのではなく間合いを詰めるべきだった、ナイフ捌きが雑だった、剣の握りが甘かった、咽喉を狙うべきだった、脚を切り落とすべきだった、最初から全力で攻め潰すべきだった。自身の所作を洗練させながら、何度も何度も想像の中で〈六肢〉と干戈を交える。
それが日課となっていた。
だが、今日、脳裡に浮かんだのは弐號種ではなかった。
眼裏に立ち上がるのは、赤い毛の、ざらついた刃を握った、獸のような狩人。
ラドゥは眼を開ける。
卓上で燈火が揺れている。
(強かった)
声に出さず、ラドゥは呟く。
燈火の中に、赤毛の狩人の姿を幻視する。
(あの男は、弐號種を殺している)
ラドゥは確信していた。
『刃を交えれば、そいつが赫眸を殺したことがあるかどうか、わかる』
昔、ガロはそう言っていた。その言葉の意味が、あの男と対峙して、わかった。
「あんな男がいる」
ラドゥは殺気立ちながらも、感慨深げに、独りごちる。
「やっぱり、外の世界は広いな」
再び眼を閉じる。
躯の力を抜く。
数秒の瞑想。
記憶の中で、ラドゥは赤毛の男との闘いの口火を切る。
どれだけそうやって、強敵と向かい合っていただろう。
不意に聞こえた衣擦れに、ラドゥは眼を見開いた。
シムカが起き上がっていた。
彼女は悪夢に魘され、身を起こすことがある。また、厠の為に夜更けに眼を覚ますことも。
どちらだろうと思っていたラドゥに、
「……あの」
弱々しい声で、シムカが呼びかける。
異変を察知し、ラドゥはすぐさま少女の元へ駆け寄る。
「どうしました」
片膝をつき、ラドゥはシムカの顔を見上げる。
「すいません」彼女は額の辺りを押さえながら、辛そうな表情でラドゥを見返す。「体調が……やはり、医術師の方を……」
「すぐに呼んできます」
そう言ったラドゥだったが、医術師がどこに住んでいるのかわからないということに、はたと気がつく。窓外を見る限り、夜は相当に更けている。宿の主人や泊客は、すでに床に就いているだろう。しかし、状況が状況だ。礼儀を欠くが、宿の主人を叩き起こし、医術師の居場所を聞き出すしかない。
「医術師の方なら、北門の近くに住んでいるそうです」ラドゥの考えを悟ったように、シムカがそう言った。「部屋を取った時、念のため、街について宿の方に聞いておきました。北の市門の目の前の家屋が、医術師の方のものだそうです」
「わかりました」
ラドゥは扉に向かいかけ、身を翻し、少女の肩に手を置く。
「ひとりで大丈夫ですか」
「はい」シムカは微笑む。「問題、ありません」
ラドゥは頷き、部屋を出る。
「さよなら、ラドゥ」
走り出したラドゥの耳に、その言葉が微かに届いた。
シムカは掌の指輪を見つめる。
それから羊皮紙に再度眼を通す。
ベッドから立ち上がり、卓上の蝋燭を受け皿から持ち上げ、羊皮紙を抛る。燈火を羊皮紙に移す。紙は燃えはじめる。
短剣を抜き、シムカは卓上に文字を彫る。
それが終わると身だしなみを整え、荷物を置いたまま宿を後にする。
少女は駆け出す。
夜気に少しだけ、涙が滲む。
北門へと続く大通りを、ラドゥは駆けている。
夕刻からは想像もつかないほど、往来は深閑としている。
時折、哄笑や怒声が耳を掠めるが、それは通りの向こう、歓楽街から漏れ聞こえるもので、街自体は深い闇に没している。
人通りが皆無の、石畳が敷かれた道は、驚くほど走りやすい。
獸狩りにより鍛え上げられたラドゥの足腰は、瞬く間に彼を北門へと導いた。
閉ざされた市門が見えてきた。
ラドゥは周囲を見回しながら、速度を緩めた。明かりの消えた家屋が軒を連ねている。北門の近くというだけで、医術師の具体的な住居がどこなのかわかってはいない。看板や目印になるような物は、特に見受けられない。
ラドゥは市門を見やった。
焚かれた篝火に、立哨であろう門衛の青い制服が照らし出されている。
ラドゥは門衛の元へ歩いて行く。
市門の左右に配された立哨ふたりは近づいてくる人影に身構えたが、篝火に照らされた人物の姿が露わになると、警戒を緩めた。
「何だ、子供か」
「こんな時間に街を彷徨いていると警邏に引っ捕らえられるぞ」
「すいません。火急の用があって」
ラドゥは立ち止まると、訳を話した。
話を聞き終えたふたりは考え込むように顎に手を当て、
「この辺りに医術師など住んでいたか?」
「いや、聞いたことないな」
「そうだよな、この街の医術師といえば二区の女医と四区の爺さんだけだよな」
「ああ、そのはずだ」立哨のひとりは気の毒げにラドゥに頷きかけ、「どうやら、弟さんは聞き間違えたようだな」
その言葉を聞いた瞬間、ラドゥの全身を、何かいいようのない予感が包み込んだ。だが、なぜこんな予感がするのかわからなかった。
ラドゥは立哨たちに頭を下げ、来た道を引き返しはじめた。
歩きながら、ラドゥは違和感の正体を探った。
医術師の場所が間違っていたのは、特段問題ではない。シムカが聞き間違えたのかもしれないし、あるいは宿の主人が勘違いしていただけかもしれない。
ラドゥは足を速める。
なぜ、こんなに胸騒ぎがする。
俺は一体、何を見落としている。
『さよなら、ラドゥ』
不意に、部屋を出たときの少女の言葉を思い出す。
ラドゥは、さらに足を速める。
先ほどは、ラドゥ自身急いでいた。だから気にとめていなかった。だが、この一言は彼を見送る言葉としては、どこか不自然だ。ラドゥは『さよなら』という言葉を外に出てきてから知った。大抵は、人と人とが別れる時に使われる言葉だった。最近では、山間の村で聞いた。立ち去るラドゥの背に、村人たちは口々にさよならと言った。
なぜ、シムカはそんな言葉を口にした?
医術師を呼びに出ただけの俺に、なぜさよならを告げる必要がある?
ラドゥの眼が鋭くなる。拳を握り締め、走る速度をさらに上げる。
胸騒ぎが強くなる。
嫌な予感がする。
そして大体、ラドゥの予感は当たる。
人の気配がしないということは、入る前からわかっていた。
ラドゥは額の汗を拭う。荒い呼吸を深呼吸で無理矢理整える。扉に視線を向ける。こじ開けられたような痕跡は見当たらない。室内を観察する。争ったような形跡はみられない。ベッドは綺麗に整えられ、ふたりの荷物も無事だ。誰かが押し入ってシムカを連れ去ったわけではない。
卓上の燈火、その受け皿に、黒い紙片を見つける。
焼け焦げた羊皮紙。
ラドゥはそれを取り上げる。
ボロボロと紙片は崩れる。
受け皿近くの天板に、文字が彫られている。
〈ありがとうございました。そして、ごめんなさい〉
ラドゥはその文字をじっと見つめる。
数秒間、ラドゥはそうしていた。
そして、拳を壁に叩きつけた。
怒りを感じていた。シムカに対して、ではない。自分に対して、どうしようもない怒りを感じていた。
敵意や殺気なら、眠っていても嗅ぎ取ることができる。相対すれば、どのような敵であれ、その動きを読むことができる。獸の攻撃を見切るのは容易い。相手の隙に乗じるのはお手の物だ。ラドゥに視えないものは何もない。
戦い。殺し。そして狩り。
こと荒事に関して、ラドゥに視えないものはない。
そして、それだけだ。
ラドゥの勘が冴え働くのは、血腥い事に対してだけだ。
それ以外は、何も見えていない。
だから、守らなければならない少女の心の動きさえ、見逃す。シムカが高熱に倒れた時に、しっかり見守ろうと決意したというのに。結局、また見えていなかった。何もわかっていなかった。
『俺は結局、殺すだけだ』
あの時の、師の言葉。その口調、その顔つき。
『それしか、できねぇのさ』
「そうだな、ガロ」ラドゥは、ただ呟く。「今なら、その言葉の意味がわかる」
次の瞬間には、ラドゥは部屋を飛び出している。
受け皿にあった紙片には炎を逃れた部分があった。
読み取れたのはわずかな記述の欠片。
その中に、〈南門〉という文字があった。
ラドゥは裏道を駆け抜け、大通りに出る。
おそらくシムカは鬣犬の元へ向かった。その経緯までは文から読み取ることはできなかった。しかし、何かしらやむを得ぬ事情があったのだろう。彼女はひとりで出向かなければならなかった。その為に、ラドゥを北門へと誘導した。そう、南門からもっとも遠い場所へと。
(なあ、ガロ)
再びラドゥは、大通りを、先ほどとは逆方向に向かって走り出す。
(たとえそれしか、できないのだとしても)
風のように駆けながら、ラドゥの口から言葉が溢れる。
「俺はアンタに救われたよ」




