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ラドゥと旅路と獣狩り  作者: あびすけ
【ラドゥと少女と獣憑き】
10/16

ラドゥと少女と獣憑き〈陸〉






【12】

 ラドゥは赤毛の男から眼を逸(そ)らさなかった。

 いや、逸らせなかった。

 男の一挙手一投足、そのどれかひとつでも見逃した瞬間、機先を制されるという感覚が、ラドゥに纏(まつ)わりついて離れなかった。

 こういう感覚には幾(いく)つか覚えがある。はじめての獸狩りの時、限りなく実戦に近い模擬戦でガロと戦った時、そして最悪の獸、弐號種と対峙した時。

「あの」シムカが不安げにラドゥの傍に寄った。「いったい、どうしたのですか。少し様子が」

「シムカ」ぴしゃりと遮り、ラドゥは少女の名前を呼び捨てた。「俺がいいと言うまで、そこを動くな」

 彼女は息を呑んだ。

 普段からは考えられないほど粗雑(ぞんざい)な口調にも、自分の名が呼び捨てられたことにも驚いたが、何よりシムカが驚愕したのは、ラドゥの顔つきだった。

 引き結ばれた口元。冷酷な眼差し。そしてその瞳の奥に静かに座す、獰猛な闘争心。

「絶対に、動くな」

 もう一度、冷え冷えとした声色でラドゥは念を押した。

 こくりと少女は頷いた。それしか出来なかった。

 ラドゥはナイフの柄を強く握り直し、腰を落とした。


「シムカ」赤毛の男が愉快そうに嗤った。「やっぱりそっちのガキがシムカ=トドゥクか。ようやく見つけたぜ」

 ラドゥは少女をその背に庇(かば)うように、一歩踏み出す。「アンタも鬣犬か」

「オイオイ、俺をあんなちんけな傭兵どもと一緒にするなよ」男は心外そうに眉根を寄せ、しかしすぐにくつくつと嗤いだす。「いや、まあ似たようなもんか。俺もアイツ等も、どうしようもないクズであることに変わりはないしな」

「アンタの狙いもシムカ様か」

「仕事なもんでね」赤毛の男は唇をつり上げる。「話は聞いてるぜ。凄腕の護衛がいるって。お前のことだろ」男はラドゥの背後に倒れ伏す鬣犬の亡骸を眺める。的確に急所を狙った鮮やかな手口に、男は口笛を吹く。「なるほど。話半分に聞いてたんだが、ジジの野郎の報告は事実だったらしいな」

「シムカ様は渡さない」

「俺も乳臭いガキなんざ趣味じゃないんだが、言ったろ? 仕事なんだよ」

「手を引くつもりはなさそうだな」

「これで俺もプロでね、そういうくだらない期待はしない方がいい」

 何も対話を求めてラドゥは赤毛の男との会話を引き延ばしているわけではない。これが鬣犬相手であれば、ラドゥはすでに仕掛けている。だが今対峙している敵は、文字通り格が違う。迂闊に攻め入れば、こちらが返り討ちに合いかねない。

 だからラドゥは、言葉を交わしながら、口火を切るための隙を探していた。

 そしてそれは相手も同様だ。虎のような双眸は、ラドゥのいかなる隙も見逃さぬというように、彼の全身に絡みついている。

 お互いの力量を見抜いているからこその均衡状態。

 ギリギリのバランスで保たれているこの状況は、おそらく些細な出来事で簡単に崩れ去る。


「ザルファさん、俺にやらせてくださいよ」


 赤毛の男、ザルファの背後から黒衣の男が進み出てきた。

 ザルファを探しだし、ここまで案内してきた年若い鬣犬だった。若者は敵意に充ち満ちた眼つきでラドゥを凝視していた。

「仲間をこれだけ殺(や)られて黙って見てるだけなんて、ありえませんよ」

 そう言って剣に手をかけた若者はしかし、次の瞬間ザルファに殴り飛ばされていた。

「空気を読めよ」這いつくばる若者を横目で睨み、ザルファは嗤笑(ししょう)と共に吐き捨てる。「どう考えてもお前みたいな三下の出る幕じゃないだろ。少しは身の程をわきまえろ。それとな、俺は獲物を横取りされるのが嫌いなんだよ。その面(ツラ)削ぎ落とされたくなきゃ、街にでも戻ってドムグの到着でも待ってろ」

「……なんで……あんたに、そんなこと言われなきゃなんねぇんだッ……」ボタボタと唇から垂れる血を拭いもせず、若者は殺意を漲らせた顔でザルファを睨んだ。「あんたは部外者だろうが……こっちは面子がかかってんだ……引き下がれるわけないだろうが、ふざけるんじゃねぇッ!」

「ふざけてるのはお前だ」ザルファの口元から嗤いが消える。「ここはもはや俺の狩り場だ。さっさと消えろ」

「少し名前が通ってるくらいで、調子に乗りやがってッ……」

 若者は剣を引き抜く。

「俺に剣を向ける意味を、まさか知らねぇわけじゃないだろうな」

 ザルファの瞳が殺意に沈んだ。

 鬣犬を挑発しながらもラドゥへの警戒を一切怠っていなかったザルファの視線が、ほんのわずかとはいえ、ラドゥから逸れた。

 その隙を、ラドゥは見逃さない。

 この間隙を利用し、さらに大きな隙を赤毛の男に作り出す。

 ラドゥはナイフを投擲した。

 予備動作の無い、不意の一撃だった。

 高速で飛来した刃が、若者の首に深々と突き立った。

 血が噴き出した。

 ザルファの視線が、反射的にナイフに向かう。


 ラドゥがザルファを狙わなかったのは隙を作り出したかったのもそうだが、何よりこの程度で仕留められる相手ではないとわかっていたからだ。それに、ラドゥはアドバンテージを保っておきたかった。自分に向かってナイフが投擲されれば、弾(はじ)き落とすために十中八九、赤毛は得物を抜き放つだろう。ラドゥはナイフを抜いているが、ザルファは未(いま)だ抜剣していない。このアドバンテージを維持したかった。


『相手に抜かせないのもひとつの手だ』

 ガロの言葉。

 痛みと共に叩き込まれた戦闘の極意。

『抜く前に仕掛け、圧し潰せ』


 ザルファの頬を鬣犬の血が伝う。

 視線を戻した時には、すでにラドゥの姿が消えている。

 ザルファは剣に手をかける。

 が、それよりも半秒速く、ラドゥは攻撃を放っている。

 地疾(ちばし)りで距離を殺し、そのスピードを足腰の撥条(バネ)に乗せ、ザルファの下方から、跳ね上がるように掌底を撃ち込む。

 狙いは顎。

 獸の骨さえ砕く、全力の一撃。

 いつもであれば、これで終わる。

 鈍い衝撃。薄い手応え。顎を砕いた感触は、ない。

「速いな」

 驚いたような声がラドゥの耳に届く。

「それに重い」

 ラドゥの掌底はザルファの右腕に阻まれていた。

 ぎらついた双眸がラドゥを見下ろす。

 鋭い眼光がザルファを睨み返す。

 両者の殺気が入り交じる。

「お前、何者だ?」

「さっきの奴にも言ったことだが」ラドゥは冷たく言い放つ。「悪党に名乗る名前は、俺にはない」




 シムカは唖然と目の前で繰り広げられる闘いを見つめていた。

 気づいた時には、ふたりの男は拳を交えていた。

 一方は速く、鋭く、精密に。

 一方は荒く、激しく、狂暴に。

 彼女は闘いの素人だ。ふたりが何をして、どう動いているのか、わかっていない。

 だが、これが想像を絶する闘いだということだけは、理解できる。

 弐號種を殺せる者同士の、殺し合い。

 息をすることさえ忘れ、シムカはその闘いを見守る。

 今の彼女には、それしかできない。




 相対する敵の腕前に、ザルファは舌を巻いた。

「やるな小僧」

 ザルファは敵の顔面を殴りつける。

 確実に捉えたと思った拳は、しかし空を掻く。

 左右から、手刀と脚技が迫る。

 ザルファは両腕を使い、これを防ぐ。

 次の瞬間には、さらなる攻撃がザルファめがけ放たれている。

 とんでもないガキだ。

 嵐のようなラドゥの攻撃を受けながら、ザルファは内心で称賛する。

 一発一発は軽い。直撃したところで大したダメージにはならない。だが、とにかく速い。多くの獸狩りで培われた一級狩人の動体視力だからこそ視(み)えているが、普通の人間では拳の軌跡を見切ることすら叶わぬだろう。それに、この異常なまでの回転数。流れるように、眼にもとまらぬ打撃の数々が、次々と繰り出されていく。

 一発一発の軽さを補ってあまりある速度と回数。

 そのふたつにより、ザルファはたえず両腕での対応を強いられている。

 ゆえに、剣を抜けない。

 あきらかにこの小僧は、俺に剣を抜かせないように立ち回っている。

 それだけでも十分驚異的だが、この小僧にとってそんなものはたんなる小手先だ。

 コイツの真価は、速い連打に致命の一撃を織り交ぜてくるところにある。

 確かに一発の威力は、軽い。しかし遠心力や足腰の撥条を利かせた打撃は、驚くべき破壊力を秘めている。ガードの上から骨に響くほどの重さ。直撃を喰らえば、ザルファとてただでは済むまい。

 人など簡単に撲殺できる。

 獸でさえ、この小僧なら素手で殺せる。

 それ程の一撃が、連打の影から放たれるのだ。


 ザルファは視界の端に刃の軌跡を捉える。

 半身を逸らし、その閃光を躱(かわ)す。


 さらには、このナイフだ。初撃を俺に受けられた次の瞬間、このガキは一瞬で鬣犬の首からナイフを引き抜いていた。その刃を連打に絡め、こちらの隙を見定め、狙い澄ましたように差し込んでくる。

 連打、脚技、致命の一撃、そしてナイフ。

 これらを縦横無尽に、こちらの動きに合わせ、的確に攻撃の手を選択してくる。

「なるほどな」ザルファは牙を剥くように嗤った。「鬣犬程度じゃ相手にならないわけだ」




 ラドゥは赤毛の男の実力に、純粋に驚嘆していた。

 男が強いことはわかっていた。街ですれ違った時から、先ほど対峙した時から、この男が並々ならぬ力量を有していることはわかっていた。

 だが、まさかこれ程までだとは。

 ラドゥの打撃は速く、回転数がある。

 赤毛の男といえど、そのすべてを防げているわけではない。

 ラドゥの拳も、蹴りも、何度も男の躯に届いている。

 確実に、ダメージを与えている。

 だが、それだけではこの男を倒すことはできない。

 ラドゥの繰り出す連打は軽い。野盗の類いであれば問題なく打ち倒せるが、これほどの相手ともなると、軽い攻撃では致命傷を与えられない。

 重い一撃を叩き込まなければならない。

 ナイフの一閃を決めなければいけない。

 しかしそういう攻撃は、悉(ことごと)く防がれるか、躱(かわ)される。

 説明がつかなかった。

 赤毛の男の動きには、およそ鍛錬と呼ぶべきものがなかった。剣術、体術、格闘術。いわゆる〈武〉と呼ぶべき技術を、男は何ひとつ身につけていなかった。彼の防御や攻撃は、そこらの無頼漢と同じように荒削りで、洗練さが欠片もなく、ただ、暴力的なだけだった。

 赤毛の男は、ラドゥの動きを完璧には見切れていない。だからこちらは拳を打ち込むことができる。蹴りを決めることができる。

 格闘戦において、あきらかにラドゥは男を上回っている。

 だというのに、ラドゥ必殺の一撃は、どれひとつ男に届かない。

 異常なまでの勘の良さ。

 ラドゥが辿り着いた答えは、それだった。この男は自身に致命傷を与えうる攻撃を直感的に見抜いている。そうだとしか思えない。そしてその勘の良さは、攻撃にも活かされている。赤毛の男はラドゥの動きの緩み、連携の遅れ、躯捌(たいさば)きの瑕疵(かし)、そういったわずかな隙を嗅ぎ取り、強引に拳をねじ込んでくる。

 暴力だ。

 技術、経験、思考、そういったものを経由せずに、本能の赴くままに、動物に備わった最も原始的な、剥き出しの暴力のみで、この男は闘っている。

 人間の戦い方ではない。

 これではまるで。

「獸みたいだ」

 ラドゥは思わず、呟いていた。

 夜霧から現れる魔物。

 人を喰らう化け物。

 この男の狂暴さは、まさに獸を彷彿とさせた。

 それもただの獸ではない。

 ラドゥの脳裡を過(よぎ)るのは、赫眸(あかめ)の怪物。

 赤毛の男の姿が、最悪の獸の姿と重なる。

 ラドゥは二重写しの敵を睨む。

「アンタ、本当に人間か?」




 シムカの眼には、ふたりの攻防に終わりが見えなかった。

 彼女の体感では、戦いは永遠に続くかに思われた。

 しかし、その実ラドゥとザルファの肉弾戦は、わずか数十秒程度の、短いものだった。

 死闘とは、そういうものだ。

 両者が相手を殺そうと死力を尽くしている。

 長引くものではない。

 だからこそ、一瞬で流れが変わる。

 刹那、両者はお互いの首に手をかけた。




 ザルファの拳を、ラドゥは廻転しながら躱す。

 ラドゥにとって廻転は攻防一体。

 避けると同時にその躯は攻撃を放っている。

 速度と遠心力。

 必殺の廻転肘打ちがザルファの顔面を狙う。

 ザルファは瞬時にラドゥの意図に気づく。

 そして、ラドゥの間合いに、自ら踏み込む。

 必殺の一撃にはどうしても溜めが入る。それは針の先ほどの小さな隙とはいえ、ラドゥの動作のわずかな瑕疵となる。先ほどまでであれば、ザルファは防御に専念した。ラドゥの動きが速すぎて、見切ることができなかったからだ。だがザルファは協会の〈一級狩人〉だ。数多くの獸を殺し、弐號種すら屠(ほふ)ってきた生粋の殺し屋。これだけ打ち合ったのだ、ザルファの眼はすでにラドゥの速度に慣れている。そして本能 ――異常なまでの直感力、あるいは嗅覚といってもかまわない―― により、彼はラドゥの動きの瑕疵を、嗅ぎ取る。

 ザルファの眼が、本能が、その一点を掴み取る。

 カウンターをねじ込むことのできる、その隙を。

 暴力のみで一級にまで昇りつめた男。

 その圧倒的な狩りの才能。

 必殺の肘打ちが届く、数瞬前。

 ザルファの蹴りが、ラドゥの脇腹に減(め)り込んだ。

 だが、圧倒的な天稟(てんりん)に恵まれているのは、ザルファだけではない。

 一級狩人の爪先が触れた瞬間、ラドゥは後方に跳んでいた。

 カウンターは間違いなく決まっていた。

 回避することなど不可能なはずだった。

 しかし、ラドゥの反射神経と運動能力が、それを可能にした。

 それも、ただ回避したわけではない。

 跳ぶと同時に、ナイフの一閃が空を裂いた。


 わずか一、二秒の攻防。

 はじめて両者の間に距離が生まれた。


 ザルファは頬に手を当てる。

 血が指先を濡らす。

「あの状況から、俺の命を獲りにきたか」

 蹴りが決まらないことを悟ったザルファは、追撃を加えるため、さらに踏み込んだ。

 それを、読まれていた。

 頬を伝う鮮血。

 あと半歩踏み込んでいれば、咽喉(のど)を裂かていたかもしれない。

 ザルファは血を舐めとる。

 鉄錆の味。

 死の味。

 血を流すのは久しぶりだ。

 これほど剽悍(ひょうかん)な獲物と闘うのは久しぶりだ。

 ザルファは満足げに嗤う。

「たいしたガキだ」



 ラドゥは脇腹に手を当てる。

 鈍痛が凝(こご)っている。おそらく内出血を起こしている。

 だが、肋骨に異常はない。内臓も無事だ。

 この程度の痛みなら、問題ない。いつも通り動ける。闘える。

 しかし、衝撃を殺してなお、このダメージ。

 直撃していれば、ただでは済まなかった。

「強い」

 ラドゥは赤毛の男を見据える。

「まるで弐號種だ」



「素手喧嘩(ステゴロ)も悪くないが」ザルファは剣に手をかける。「やっぱり俺はこっちの方が好きでね」

 一級狩人の剣が抜き放たれる。

 抜かせず勝負を決めるというラドゥの狙いは、潰(つい)えた。

 陽光にぎらつく刃をラドゥは睨む。

 片刃。刃渡りは二尺ほど。外に出てきてからよく眼にする、至って平均的な長さの剣だ。握り(グリップ)には滑り止めの柄巻がされているが、こちらもとりたてて珍しいものではない。だが、抜き放たれた瞬間に、ラドゥはそれが人を殺す為に鍛えられた剣ではないと気づいた。

 刃だ。

 男が握っているのは、鋸のような異形の刃。

 斬る為の剣ではない。断つ為の剣ではない。

 ガロに聞いたことがある。

 肉を削り、骨を殺(そ)ぐ為の剣があると。

 狩人の得物。

 獸を屠(ほふ)る為の武器。

「〈削刃(サクジン)〉か」

 呟き、ラドゥは腰裏の剣の柄を、握る。

 抜くつもりはなかった。

 人を殺す為の剣ではない。

 有象無象の血を流す為の武器ではない。

 これは獸を戮(ころ)す為の刃だ。

 だが、そんなことを言っている状況ではない。

 目の前の男は弐號種に匹敵する程の強敵。

 ラドゥは〈重剣(ジュウケン)〉を抜き放つ。



 その刃の燦めきに、ザルファは眼を細めた。

 ラドゥの抜いた剣に、見覚えがあった。

 緩やかな曲線を描く、幅広の剣身。呉鉤(ゴコウ)や湾刀(サーベル)とはまた違う、独特の形状をした獸狩りの武器。

 ゾルガ国の剣ではない。協会の職人たちはあのような刀剣を鍛えない。

 あれは、異国の武器。

 そう、ミカヅツ国の。

「驚いたな」ザルファはラドゥの顔を興味深げに眺めた。「お前、まさか〈狼(オオカミ)〉か?」

 その問いにしかし、少年は答えない。

 ただ、睨み返してくるばかりだ。

 しかし少年の顔に一瞬、怪訝とも困惑ともとれる、曖昧な表情が浮かんだのをザルファは見逃さなかった。

 まるで彼の質問の意味がわからないと言っているかのような顔つきだった。

「なんだ、違うのか。てっきりアイツ等の一匹(・・・・・・・)だと思ったんだがな」

 そう言って赤毛を掻く。

 だが確かに、少し考えてみればわかることだ。ミカヅツの〈狼〉がヨキ国の庶子の護衛など引き受けるわけがない。

 たんに奴等の使う得物と形状が似ているだけか。

 まあ何にせよ、とザルファはにやりとする。

「お前は狩人ってわけだ」

 そうなんじゃないかとは思っていた。その匂いから、その眼つきから、この小僧が自分と同類だということはわかっていた。戦ってみて、その確信は深まった。小僧必殺の打撃は、あきらかに獸を想定した重さだった。その手が操るナイフの分厚さは、間違いなく奴等の骨肉を断つ為の物だった。そしてあの剣、〈狼〉どもの扱う得物に酷似したあの剣は、間違いなく獸を戮(ころ)す為の刃だ。


『獸と戦い血を流す者は、等しく俺の同胞』


 暴力に生きてきたザルファの、それが唯一の信条。

「俺は狩人を殺すのが好きじゃない」剣の峰で肩を叩きながらザルファはラドゥを見やる。「それがいい狩人となると尚更だ。だから、ひとつ提案してやる」削刃の切っ先を、シムカ=トドゥクへと向ける。「小娘を置いて今すぐ俺の前から消えろ。そうすりゃ、お前は見逃してやる」

「ふざけてるのか?」

「どうかな」

「本気で言っているんだとしたら」ラドゥは冷え切った眼差しをザルファに向け、「ずいぶんと、見くびられているんだな」剣とナイフを構える。「シムカ様を置いて、俺が逃げるように見えるか?」

「見えねぇな」

「なら、それが答えだ」

「まあ、そうなるよな」ザルファの顔から、嗤いが消えた。「じゃあ、しょうがない」

 一級狩人はだらりと腕を垂らす。

 削刃が不気味に輝く。

 虎の双眸が、殺意に染まる。

「削(そ)いで、殺(ばら)して、仕舞いとするか」



 凄まじいな。

 そう思いながら、ラドゥはザルファを睨む。

 視認できそうなほど濃く、重い殺意が、男から迸っている。

 先ほど戦っていた時とは比べものにならないほど、まるで決壊した河川のように、殺気が激流となってラドゥを呑み込む。

 皮膚がひりつく。

 うなじの毛が限界まで逆立つ。

 ラドゥは重剣を握る手に力を込める。

 こういう感覚には覚えがある。

 弐號種がその〈形態〉を露わにした時だ。

 獲物を殺す為、血肉を喰らう為、全力を出した獸が、こういう殺気を放つ。

 赤毛の男はそれと同質の、いや、それ以上の殺意の化身となってラドゥの前に立ちはだかっている。

 ラドゥは確信する。

 目の前の男は間違いなく、自分が今まで戦ってきたどの弐號種よりも強い、と。

 だが、負けるわけにはいかない。

 ゴドに、必ず送り届けると約束した。

 シムカに、必ず守ると誓った。

 この状況を必ず切り抜ける。

 そうして必ずシムカを憑人の里へ送り届ける。

 そう、必ず。

 重剣を右手に、ナイフを左手に、ラドゥは殺意を練り上げる。


『生きろよ、ラドゥ』


「わかってる、ガロ」

 静かに、だが決然と、ラドゥは断言する。

「俺は必ず生き残る」




 殺意と闘志が膨張する。

 両者の間の緊張が、限界に達する。

 お互い、間合いを計るようにゆっくりとした歩様で、距離を詰める。

 不意に両者の動きが止まる。

 間合いの限界点に差しかかったのだ。

 ラドゥは、重心を左足に移す。

 ザルファは、剣を握る手に力を込める。

 この先の戦いがどういうものになるか、ふたりにはわかっている。

 虎の双眸から殺気が溢れる。

 鷹の眼光が殺意を湛える。

 削刃が不気味に輝く。

 重剣が鋭い光を放つ。

 ザルファは嗤う。

 ラドゥは睨む。

 そして両者は、胸中で呟く。

 獸さえ凌駕する圧倒的な暴力を持って、

 師に叩き込まれたすべての技術を使って、

 一級狩人の誇りにかけて、

 ガロの名に誓って、

 この小僧を、

 この男を、


「「殺す」」

 

 そうして両者が動き出そうとした、その瞬間。



「貴様等、そこで何をしているッ!」


 怒号がふたりの耳を震わせた。

 響きわたる複数の蹄音(つまおと)。

 煙る後塵(こうじん)。

 馬に乗った集団が、ふたりを目指して駆けてくる。

 騎乗するのは制服に身を包んだ兵士たち。ゼバの衛兵だ。おそらく先ほど街へ戻った隊商の乗客たちが知らせたのだろう。

「双方、即刻剣を収めよッ、早くしろッ!」

 先頭を走る馬の上で、指揮官らしき男が声を荒げる。

「オイオイ、今いいところだってのによ」

 ザルファが舌打ちするのと、

「シムカ様!」

 声を張り上げラドゥが少女に向かって走り出したのは、ほぼ同時だった。

「ハァ?」思いがけないラドゥの行動に、ザルファは間の抜けたような声を上げた。衛兵の介入、予想外のラドゥの逃亡に、ザルファの動き出しが半秒、遅れる。

 空を切る音と共に、彼の前方の地面に矢(ボルト)が数本突き刺さる。

「動くなッ、次は当てるぞッ」

 再び怒声が響く。

 どうやら弓か軽弩(ボウガン)を所持した兵士がいるらしい。

 ザルファはラドゥとシムカの後ろ姿を見やる。

 わずか数秒のうちにだいぶ離された。

 追えない距離ではないが、しかし。

「興が削がれたな」

 ザルファは剣を鞘に戻した。小さくなっていくふたりの影を眺める。

「あの小僧、まさか逃げるとはな」理解できないというように吐き捨て、しかしその口元はすぐさま自嘲に歪む。「いや、アイツの立場を考えれば、そりゃ退くか」あの小僧はシムカ=トドゥクの護衛だ。つまりその最優先事項は小娘の身の安全にこそある。おそらくシムカ=トドゥクを護る為に必要なら、あの小僧はザルファとの殺し合いを続行しただろう。だが、衛兵の出現により状況が変わった。奴等の登場は小僧にとって渡りに船だった。撤退するのは、しごく当然の事だ。

「どうも俺は熱くなると周りが見えなくなってダメだな」

 一級狩人は嘆息し、周囲を見回す。

 蹄音が乱舞している。

 砂埃が立ちこめている。

 人馬の熱(いき)れが肌を撫でる。

 衛兵たちがザルファを取り囲んでいる。

 街道には六体の死体が転がっている。

 血と臓物の臭気に、兵士たちは顔を顰める。

「この惨状は一体なんだッ!」

 指揮官の男は騎乗から、怒気を露わにザルファを見下ろす。

「貴様がこの殺戮の下手人かッ!」

 ザルファは答えない。

 周囲の兵士たちなど眼中にないというように佇んでいる。

「貴様、私の質問に答えろッ、さもなくば」

「黙ってろ」指揮官の指が剣の柄にかかった瞬間、ザルファはけだるげに男を見た。粗雑(ぞんざい)な口調とは裏腹に、その双眸は殺意に猛っていた。「戦いの余韻がまだ引いてないんだよ。そいつを抜いたら皆殺しにするぜ」

 立ちのぼる鬼気に、指揮官は息を呑む。

 周囲の兵士たちも同様だ。

 ざらついた殺気の奔流。

 彼等ははじめて獸(ケモノ)を目撃した子供のように、身動きが取れなかった。

 この男に逆らってはいけないと、本能が告げていた。

 不意にザルファは鎌首をもたげた。

 蹄音。後塵。街道を駆ける馬の集団。衛兵の増援、ではない。騎乗しているのは黒衣の傭兵ども。ザルファはにやりとする。瞬く間に彼の元に駆けつけた鬣犬は、衛兵を取り囲むように陣を形作る。

「よお、ザルファ」

 浅黒い肌の男が馬上から咆(ほ)えた。首領のドムグだ。

 ドムグは部下の死体を眺め、衛兵たちを睨(ね)め、最後にザルファに視線を向けた。

「何がどうなってやがる。小娘はどうした」

「生憎(あいにく)逃がした」

「あんたがいたってのにか」

 ザルファは衛兵たちを顎でしゃくり、「邪魔が入ってね」肩をすくめ、「だが、まだ間に合うぜ」

「なに?」

「追えよ」ザルファは街道の先を指さし、嗤う。「今ならまだ、追いつけるぜ」




 ラドゥは立ち止まり、背後を振り返った。

「どうしました?」

 喘ぎながら、シムカが訊く。

「追っ手です」答え、ラドゥは自分たちが逃げてきた街道の方を指し示す。砂埃を曳(ひ)いた人馬の集団が、こちらに迫って来ている。距離はまだ遠いが、馬上の人間たちが衛兵ではないことは一目瞭然だ。

 全員が黒衣に身を包んでいる。鬣犬だ。

(すぐに追いつかれるな)

 内心で舌打ちし、

(どうすればいい)

 鬣犬の集団にもう一度目を向ける。

 先ほどの判断は間違っていなかったはずだ。シムカ様の身の安全を考えれば、あのままあの男と戦うのは危険すぎた。撤退を選択したのは、間違いではない。本当は馬を手に入れたかった。だが、隊商の馬車馬から輓具(ハーネス)を取り外している時間はなかった。ならばと周囲に視線を走らせたが、襲撃してきた鬣犬たちの馬は、街道から外れた場所に逃げてしまっていた。赤毛の男の実力を考えると、撤退に手間取った瞬間、追いつかれる。だから走るしかなかった。幸いなことに、赤毛の男は馳せ参じた衛兵たちに囲まれ、身動きが取れないようだった。この隙に逃げ切る。ラドゥはそう決意した。

 だが、どうやら見通しが甘かったようだ。

 鬣犬と自分たちの距離がどんどん縮まっていくのがわかる。

 このままでは逃げ切れない。

 戦う、という選択肢はない。

 鬣犬だけならどうとでもなる。

 シムカを守り切れる自信はある。

 だが、あの男がいる。あの赤毛の男が。

 鬣犬と同時に相手をできる敵ではない。

 挟撃されれば、まず間違いなくシムカ様を奪われる。

 ラドゥは北を、逃げるべき街道の先を見つめる。

 この少し先には渓谷があり、橋が架かっている。

 遙か下には流れの早い大きな川。

 この前観察してわかったのは、水深が浅くはないということ。

 ラドゥは逃げ切れる手を思いつく。

 しかし、それは危険な賭けだ。

 下手をすれば、ふたりとも死ぬ。

 ラドゥは眼を閉じる。逡巡する。が、それは一瞬のことだ。瞼を開いた時には、すでにラドゥは決心している。

「シムカ様」勁(つよ)い眼を、ラドゥは少女に向ける。「俺を信じますか?」




 ドムグは先陣を切る。

 街道の先を少女と少年が駆けている。

 まだ距離はあるが、徒(かち)と馬だ。すぐに追いつく。

 ドムグは牙を剥く。

 ようやく獲物を追い詰めた。国境付近で、山麓の街道で、二度も取り逃がした。だが三度目の正直だ。今回は逃がさない。必ずシムカ=トドゥクを捕らえる。そして蜈蚣(ムカデ)に引き渡し、奴等の目的が終了次第遺骸をヨキ国へ持ち帰り、大金をせしめる。必ずせしめてみせる。

 鬣犬の貪欲な眼光が前方を睨(ね)める。

 獲物は立ち止まり、こちらを見、また走り出す。

 すでにふたりの容姿を視認できる距離にまで迫っている。

 ひとりは男装断髪(だんぱつ)の少女。彼等が追っていたヨキ国の庶子。

 もうひとりはマントを羽織った少年。素性はわからない。だが、奴に部下を九人も殺された。

 ドムグは内奥の猛りをぶつけるように、馬の腹を蹴る。

 乗り手の感情に同調し、馬は荒々しく速度を上げる。

 背後の鬣犬たちも、首領(ボス)に同調し、馬の速度を上げる。

「獲物はすぐそこだッ!」ドムグが咆える。「小娘は鄭重(ていちょう)に扱え。だが護衛のガキは殺せ。いいか、ただで殺すんじゃねぇぞ、俺たちに楯突いたことを後悔させてやれッ!」

 鬣犬たちが雄叫びを上げる。

 全員が、血に餓えている。

 満足げに、ドムグは嗤う。

 その時、獲物の動きが止まった。

 風音に混じって川の轟音が耳に届く。

 橋だ。渓谷に架かった橋の中央付近で、ふたりは立ち止まっている。

 遠目にもふたりが何をしているのかわかる。雑嚢を躯に縛り付けているのだ。

 なぜ、追われているこの状況でそんなことをする。

 嫌な予感がした。

 焦慮に、さらに荒々しく馬の腹を蹴る。

 ドムグの顔が、怒りに歪む。

「まさか、あいつら」




「いいですか」

 これからすることを話し終えると、ラドゥはシムカを見た。

「それしか、手がないのですね」

「そうです。逃げ切るにはこれしかありません」

「……わかり、ました」

 声尻を震わせながらも、シムカは力強く頷く。

「あなたを、信じます」

 ラドゥは欄干(らんかん)を越える。シムカが続く。

 降り注ぐ心地よい陽光。

 風音と川の音。

(こんな状況でなければ、いい景色なんだけどな)

 ラドゥはそう思いながら、直下の川面から視線を外し、シムカに頷きかける。

 一拍の間を置き、

 ふたりは橋を蹴る。




 あと十秒もあれば追いつけた。獲物を捕らえられた。

 仕事を終え、国に帰れた。大金を手にすることができた。すべてが上手く運ぶはずだった。

 だというのに。

「ふざけるんじゃねぇッ!」

 ドムグが吐き捨てたと同時に、彼の視界がそれを捉えた。

 橋から飛び降りる、少年と少女の姿。

 走馬灯を見ているかのように、ドムグの眼に、ふたりは緩やかに落ちていった。それは一時的な錯覚だ。次の瞬間には、ふたつの影は飛沫を上げ、激流に呑まれた。

 橋に辿り着いたドムグは馬から飛び降り、手摺りから身を乗り出す。

 高い。まともな神経の持ち主なら、こんな場所から飛び降りたりはしない。

 川面にふたりの姿はない。落下の衝撃で息絶え沈んだのか。あるいは生き延び、流れに乗って逃げたのか。

 どちらにせよ、最悪の展開であることにかわりはない。

「クソがッ」激怒したドムグは、欄干を殴りつける。「もう少しだったってのによッ」

 続々と背後に集まって来た鬣犬たちは、しかしドムグに声をかけない。首領(ボス)の危険性を、彼等は熟知している。普段は冷静沈着なドムグだが、怒りに駆られると手がつけられないほど凶暴になる。古参の鬣犬はもちろん、弟のジジでさえ迂闊に近づけば何をされるかわからない。ボスの怒りが静まるのを、鬣犬たちはただ待つしかない。

「なんだ、逃げられたのか」

 嗤笑と共に、鬣犬たちの背後から声が上がった。

 ザルファだ。

 一級狩人は馬から降りると鬣犬たちを尻目に、ドムグの隣に並ぶ。

 欄干から身を乗り出し、

「ここから飛び降りたのか」

 ザルファは可笑しそうに咽喉を鳴らす。

「どうやらあの小僧、イカれてるらしいな。いいね、嫌いじゃないぜ」

「ずいぶん嬉しそうじゃねぇか」ドムグは剣呑な顔つきをザルファへ向けた。「獲物に逃げられたんだぞ。俺たちにはあまり時間が残ってねぇ。あんたもわかってるだろうが」


 鬣犬はここゾルガ国へ不法入国している。だから本来であれば速やかにシムカ=トドゥクを回収し、ミカヅツ国へと戻らなければならなかった。だが、予定が狂った。その狂った予定を埋め合わせるためにザルファを雇った。一級の肩書きは鬣犬を動きやすくした。多少無理をしても、衛兵を黙らせることができた。だが、それにも限界がある。白昼堂々街道のど真ん中であれほどの殺し合いが演じられたのだ。ここがゾルガ南部であれば、たいした問題にはならなかった。獸狩りの最前線において人死になど日常茶飯事だ。しかし平和な北西部ではそうはいかない。死体の量を考えるに、おそらく一級狩人証だけでは、そう長いこと衛兵を抑えていられない。悪名高いミカヅツ国の〈鬣犬〉が領土を荒らしてるとなれば、ゾルガ国も黙ってみてはいないだろう。


 ドムグはもう一度欄干を殴りつける。

「俺はこんな国の監獄にぶち込まれるのは御免なんだよ」

「そりゃ進んで入りたいって野郎は見たことないからな」

「今はあんたの軽口に付き合う気分じゃねぇ」

「お前の気分なんて、俺に関係あると思うか?」

「何人部下を失ったと思ってる、どれだけ経費が嵩(かさ)んだかあんたは知らねぇだろッ」怒気に顔を赤くしたドムグが咆える。「なんであの小娘を取り逃がした、あんたは一級狩人だろうがッ」

「さっき言ったろ、邪魔が入ったんだよ」

「そんな戯言は聞きたくねぇな」

「オイオイ、少し頭を冷やした方がいいぜ」あたかも親友のようにザルファはドムグの肩に腕を回す。が、その眼は据わっている。「俺に当たり散らすのは筋違いだろうが。俺が到着した時には鬣犬どもは皆殺しにされていた。不甲斐ないのはお前の部下で、俺じゃない。むしろ俺はお前等の尻拭いをしてやったんだ。感謝されこそすれ、非難されるいわれはない。わかるか?」

 殺意を湛えた狩人の瞳がドムグを射る。

 鬣犬の首領はその顔を見つめ返す。

 緊迫した沈黙が流れる。

「悪かった、あんたの言うとおりだ」やがてドムグは嘆息する。「頭に血が上って冷静さを欠いていた。許してくれ」

「気にするなよ。俺とお前の仲だろ?」ザルファはドムグから身を離す。「だが次、俺にふざけた口の利き方をしたら、指の二、三本削ぎ落とされると思え」忠告し、欄干にもたれ掛かる。「で、これからどうする」

「決まってる。小娘を追う」ドムグは直下の川を眺める。「死んでなけりゃな」

「生きてるさ」

「どうしてわかる」

「直感だ」

「狩人の勘ってヤツか」

「まあ、そんな所だ」

 不意にふたりの顔を、影が過った。

 ドムグは頭上を見上げた。

 低空を一匹の黒い鳥が舞っている。

「〈番鴉(ツガイガラス)〉か」

 ザルファが呟く。

「ああ。何かあったらしいな」

 ドムグは歩き出す。


〈番鴉〉は通信手段として活用されている鳥類だ。この鴉はどれだけ離れていようと番いの元に戻る習性がある。帰巣本能を利用した伝書鳩よりも応用が利き、軍はもちろん南部の狩人たちもこの鴉を通信手段として用いている。現在の鬣犬は三つの隊に分かれている。連絡を取り合うため、当然鴉を所持している。第一支隊は山麓街道付近の探索。第二支隊は北の国境近くでの待ち伏せ。どちらからの連絡なのか。


「第一支隊からです」

 文からジジが顔を上げ、ドムグに笑いかける。

「吉報か?」

「おそらくは」

 差し出された文を受け取り、ドムグは眼を通す。「なるほどな」ドムグは顎を撫でる。「確かに、使えるかも知れねぇな」しばし黙考していたドムグだったが、

「第一支隊がこっちに向かってる。まずは奴等と合流する」

 部下たちに言い放つ。

 鬣犬たちは頷き、各々馬に跨がる。

 ドムグも馬に上がり、ジジに指示を出す。

「合流後、第二支隊に鴉を送る。用意しておけ」

「わかりました」

「ずいぶんと張り切ってるな」ザルファが馬上のドムグを見上げる。「文の内容はなんだったんだ?」

「支隊の奴等がシムカ=トドゥクの護衛の老い耄(ぼ)れを見つけ出した」

「それで?」

「小娘を追うのは、やめだ。あいつ等はしばらく泳がせる」

 ザルファは怪訝そうな表情を浮かべる。

「ちょいと俺に考えがある」ドムグは獲物の消えた川の果てを眺める。「うまくいけば、俺やあんたが出張らずとも小娘を捕らえられる。いや、うまくいって貰わなきゃ困るな。おそらくこれが、シムカ=トドゥクを確保できる最後の機会だろうからな」



     *****



 ラドゥはシムカの腕を掴むと、川岸に引き揚げた。

 ずぶ濡れのシムカは地面に倒れ込み、苦しそうに喘ぐ。こちらもずぶ濡れのラドゥは少女を気遣うようにしゃがみ込み、その背を軽く叩く。

 シムカがラドゥの手を強く握る。

「……わたし、たち、生きてる……?」

「はい、生きてます」

 励ますようにラドゥは少女の手を握り返す。

 それからラドゥはシムカの全身を観察する。激流に揉まれている間にできた擦り傷や青痣が目立つ。が、大きな怪我は見当たらない。うまく落下できたようだ。

 シムカは蹲(うずくま)り、水を吐く。荒い息遣いを整える為に深呼吸をする。


 思っていたよりも川は激しかった。ラドゥはもう少し早く川岸に上がるつもりだったが、想像以上に流されてしまった。シムカと自分を溺れさせないように立ち回るのは骨が折れた。しかし流されたことにより鬣犬から逃げ切ることができた。結果論ではあるが、流されに呑まれたのは正解だったのかもしれない。


 ようやく呼吸が楽になってきたシムカは、ゆっくりと立ち上がった。

「もう少し休んでいてください」

「いえ……大丈夫です」シムカは首を振る。「鬣犬が諦めていないことは、わかっています。時間を無駄にできない、そうですよね……?」

「その通りです」ラドゥは答える。橋から川まであれだけの高低差があったのだ、鬣犬たちが川縁へ降りるには、相当の回り道を強いられるだずだ。たとえ辿り着いたとしても、奴等にはふたりがどの地点で川岸に上がったのかわからない。鬣犬の捜索は困難を極める。ふたりを見つけ出すのは事実上不可能だ。とはいえ警戒に警戒を重ねるに越したことはない。移動できるのであれば、今すぐにでも移動したい。休むのはその後だ。

「わたしなら、平気です」

 ラドゥの考えを察したように、シムカが力強く言う。

「わかりました」

 ラドゥは革編靴(ブーツ)から水を抜き、服を軽く絞る。

 シムカも彼に倣(なら)う。

 雑嚢を背負い、腰の剣とナイフを確かめ、ラドゥはずぶ濡れの地図を開く。自分たちが流された川はすぐに見つかった。青空を見上げ太陽の位置を確認し、周囲の樹々から伸びる影の長さを元に、自分たちの居場所におおよそのあたりをつける。

 シャフ森林地帯。

 おそらくふたりがいるのはそこだ。

 位置的には悪くない。ゼバよりも北側だ。これなら旅程を大きく外れることはない。

「とりあえず、森に入ります」地図を仕舞い、ラドゥはシムカを見る。「俺が安全だと判断するまで、歩き続けます。一息つき、服を乾かすのはその後になります。辛い道行きになります」

「本当に、大丈夫です」

 ラドゥの懸念を振り払うように、シムカは歩き出す。

「行きましょう」

 そんな少女の後ろ姿を見つめ、

(はじめて会った時より、少し逞(たくま)しくなったかな)

 そう思いながら、ラドゥはシムカの後を追った。






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― 新着の感想 ―
[一言] こういう小説を待ってた。応援してます
[一言] 面白かった
[一言] もともと餓狼っぽい名前だなぁと思っていましたが、いよいよガロはせいかくあには餓狼、もしくは牙狼の可能性が出てきましたね 続き、楽しみです
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