十六歳、“熱気”の作り方を知る
黒板に、権田が一行だけ書いた。
「tan1°は有理数か。証明せよ」
白髪まじりの数学教師は、生徒をぐるりと見回して、面白そうに笑った。
「高校の範囲じゃ、まず手が出ん。毎年出しとるが、答えを書けたのは、数えるほどしかおらん。解けたら、購買のパンでも奢ってやる」
俺には、退屈な問題だった。答えは、読んだ瞬間に出ている。全知演算にとって、この手の証明は、頭のなかで九九を並べるのと変わらない。解けてしまう。それだけの話だ。
放っておくつもりだった。だが隣で、澪が肘で俺の脇をつついてくる。
「結城。分かってる顔してる」
この幼馴染は、俺が黙っているほど鋭くなる。澪の前でだけは、見栄が抑えきれない。一問だけ、と思ったのが運の尽きだった。気づけば、手が挙がっていた。
「もし、tan1°が有理数――整数どうしの分数で書ける数だと、仮定します。加法定理を使えば、tan2°はtan1°から計算で出せる。同じことを繰り返せば、tan3°も、tan30°も、ぜんぶ整数の分数で書けることになります。……でも、tan30°は1/√3。√3が無理数だから、整数の分数には直せない。分数になるはずが、ならない。だから、最初の仮定が間違っています。tan1°は、無理数です」
権田は、しばらく黙って俺を見ていた。それからチョークを置いた。
「……まともに計算しにいけば、一生かけても解けん問題だ。わざと間違った仮定を立てて、そこが破れるのを突いたか」
「まぐれです。たまたま思いついただけで」
嘘だった。だが、そう言っておくのがいちばん収まりがいい。教室の何人かが探るような目で俺を見た。目立ちたくなかったのに、まったく。この頭は、こういう時ばかり気が利かない。
もっとも、退屈しのぎのネタは、教室の外に転がっていた。
放課後、澪が珍しく硬い顔で、俺の袖を引いた。
「結城。従姉の里穂ちゃんのこと、聞いてくれる?」
里穂さんは、就職につまずいて塞ぎ込んでいたのが、半年ですっかり明るくなったという。ただ、その明るさが澪には引っかかるらしい。
「半年前から、自己啓発の教室に通いだして。最初は元気になって、よかったねって話してた。でも、だんだん、笑って『いまはあなたと見えてる世界が違うだけ』って、線を引くようになって。友達とも会わなくなった。……この前は、五十万払って、そこの"認定講師"になるんだって」
"認定講師"。その言葉で、輪郭が見えた。
「その教室、どういう仕組みか分かるか」
「ええと……最初はタダの説明会。次が数千円のお茶会、そのあと何万かの講座、いちばん上が本講座。里穂ちゃんは、その先の"認定講師"になる手前なんだって」
「なるほどな」
金の取り方が階段みたいにできている。ただで釣って、少しずつ払う額を吊り上げ、いちばん深く信じ込んだ人間から、まとまった金をもらう。おまけに、"認定講師"になった人間は、今度は自分で新しい客を連れてくる。信じた者が次の客を連れてくる。放っておけば、際限なく広がっていく。里穂さんは、その最後の一段を上ろうとしている。
「来週の日曜、無料の説明会があるの。里穂ちゃんも来るって」
「行ってみよう。どういう手口か、この目で見たい」
日曜。貸し会議室は、駅から歩いて十五分の、中途半端な場所にあった。窓はひとつもなく、時計もない。座っていると、いま何時か、外が昼か夜かも、じきに分からなくなる。並んだパイプ椅子は、座面がほんの少し前へ傾いていて、腰を下ろすと自然に上体が前に出た。
――時間の感覚を薄れさせて、話にのめり込ませる。よく考えられた部屋だ。
参加者は二十人ほど。里穂さんは、いちばん前の真ん中にいた。
壇に立った神代は、三十代半ばの、物腰のやわらかい男だった。
「僕もね、昔は借金まみれで、夜も眠れなかったんです」
自分の失敗談から入る。「この人も自分と同じだ」と思わせて、警戒を解く。話す速さも、間の取り方も、聞き手の呼吸にすっと合わせてくる。声を張らない。むしろ、聞き手が耳をそばだてたくなるくらいの、ぎりぎりの小声で話す。うまい。人の心のほどき方を、体で覚えている。
だが、俺が見ていたのは神代じゃない。客のほうだ。
二十人のうち大半は、腕を組んだり、パンフレットをめくったりして、まだ神代を値踏みしていた。当たり前だ。初めて聞く話を、そう簡単には信じない。
ところが、三人だけ様子が違った。前の列の女、中ほどの男、後ろの若い女。ばらばらの席に座っているのに、この三人は、神代のどんな話にも、深く頷いている。
しかも、頷くのが早い。
神代が「そこで僕は気づいたんです」と切り出す。その言葉が終わるより前に、三人はもう頷きはじめていた。笑い話も、落ちを言う前から、三人だけが笑っている。
初めて聞く話を、先回りできる人間はいない。
――あの三人は、この話を何度も聞いている。
配られたパンフレットは、休憩までのあいだに、隅から隅まで読んでおいた。今日の流れも、神代が語る予定の"体験談"の見出しも、そこに刷ってある。後半に「どん底からの再起」という一節がある。まだ、その話は出ていない。
やがて、十分の休憩が入った。ロビーで、参加者が紙コップを手に、ぽつぽつと言葉を交わす。俺は、中ほどにいた男のそばへ、それとなく寄っていった。人の好さそうな、四十がらみの男だ。
「すごい話でしたね」俺は、いかにも感心した子どもの顔で言った。「ぼく、あの"どん底から這い上がった"話が、いちばんぐっときました」
まだ、神代はその話をしていない。パンフレットの後半に載っている、これから出てくるはずの話だ。初めて来た客なら、「その話は、まだですよ」と直すところだろう。
だが男は、茶をすすりながら、うんうんと頷いた。
「ああ、あれね。あれは効くよなあ」
――あれね、と来たか。
まだ聞いてもいない話を、この男は聞いた顔で頷いた。しかも「効く」と、まるで他人事みたいに値踏みする言い方だ。初めての客は、話が"効く"かどうかなんて、品定めしない。この男は、神代の話を、別の日にも、何度も聞いている。
もう一つ、見えた。この会場は、トイレの場所が分かりにくい。参加者は受付で訊いたり、いちど廊下を逆へ行きかけて戻ったりしている。だが、後ろの席にいた女だけは、迷いなく角を曲がって、まっすぐ向かっていった。初めての場所で、あんな足取りにはならない。
初めての客のふりで、前のほうに座り、誰より深く頷いてみせる。神代に雇われた、"感動する係"だ。二十人のなかに、こんなに夢中な人が三人もいれば、初めて来た人間は「これだけの人が変わったなら、本物かも」と思ってしまう。
――"熱気"は、こうやって作る。
席に戻りながら、俺は神代という男を、あらためて見きわめた。
これは、口のうまいだけの詐欺師じゃない。「必ず変わる」「必ず儲かる」とは、ひとことも言わない。無理に契約も迫らない。さっきも「今日決めなくていい、家族と相談してから」と、自分から言っていた。契約したあとでも、八日以内なら返金に応じるという。……なのに、それでも人は、財布を開く。
法律では、殴れない。嘘の約束をしなければ、詐欺には問えない。強く勧めもしない。おまけに、"認定講師"に新しい客を連れてこさせても、その紹介で金は渡していない。人に人を勧誘させて稼ぐ商売なら別の法に触れるが、神代はそこも避けている。ぜんぶ、計算ずくだ。だからこの男は、たぶん一度も、警察の世話になっていない。
まいったな、と少し思った。ここまで用心深い相手は、久しぶりだ。
だが、たった一つ、はっきりした嘘がある。
あの三人だ。神代の話も、この部屋の作りも、法律のかわし方も、ぜんぶ本物で、手が出せない。けれど、"みんなが夢中になっている"というあの景色だけは、雇われた三人が作ったまやかしだ。
そして、この教室は、その景色だけで客を増やしてきた。「あそこに行くと人が変わるらしい」という評判が次の客を連れてくる。里穂さんも、その評判に誘われた一人だ。だから、あの三人が仕込みだと大勢の前で見せてやれば、評判は根から崩れる。この街ではもう、誰も新しい人を連れてこなくなる。
問題は、それを、神代自身の目の前で、逃げも言い訳もできない形でやることだった。
説明会が終わり、人がはけていく。壇の上から、神代がふと、こちらを見た。客を数える目じゃない。もっと静かな、値踏みするような目だった。
「……君、いい目をしているね。またおいで」
気づかれたわけじゃない。だが、あの目は、俺が今まで会った誰とも違う色をしていた。
会議室を出ると、澪が里穂さんと少し話して、肩を落として戻ってきた。
「……里穂ちゃん、来週の日曜、"認定講師"になるって。五十万、もう用意してるって」
「間に合う。来週、そこで里穂さんを連れ戻す。今日は、その下見に来ただけだ」
澪が俺を見上げて、何か言いかけて、やめて、小さく頷いた。




