第1話 35歳独身、気がついたら公爵令嬢でした――平民落ちしたい
「小久保、これやっといて」
丸の内のオフィス街に建つ高層ビルの一角。
振り向きもせずに放られたファイルが、机の上でぱさりと音を立てた。
時計を見る。定時まで、あと三分。
私は無言でそのファイルを開いた。中身を確認するまでもない。
どうせまた、上司のミスの尻拭いだ。
「……ここ、数字違いますよ」
「細かいこといいから、直して出しといて」
細かいこと、ね。
その“細かいこと”のせいで、後でクレームになり、事務リスクとなるんだけど。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。言ったところで、空気が悪くなるだけだ。経験上、よく知っている。
周囲の視線が痛い。
――また始まった、あのお局。
そんな声が聞こえてくる気がする。
別に好きでやってるわけじゃない。
ただ、間違ってるものを間違ってると言ってるだけだ。
それだけなのに。
評価は「扱いづらい係長」。恋人歴なし。三十五歳。
……まあ、いいけど。
ため息をついて、キーボードを叩く。
どうせ今日も帰りは遅くなる。
今月の残業時間、あとどれぐらい残ってたっけ……
帰ったら、あの子を撫でて、酒でも飲もう。
人間より、猫のほうがよっぽど素直で可愛い。
――そう思った瞬間だった。
視界が、ぐらりと揺れた。
あれ、と思う間もなく、足元が崩れる。
机に手をつこうとして、空を切った。
ああ、まずい。
……産業医面談、行けって言われてたな。
そう思ったところで、意識が途切れた。
「聞いているのか、リザベッタ!」
部屋中に響き渡る声で気位が高そうな中年男が額に青筋を立ててがなっているが、私はそれどころじゃない。
どうやら私は気を失っていたらしい。
気づけば、見も知らない中年男に怒鳴れている。
混乱して叫び声をあげなかっただけでも褒めてほしいもんだ。
どこよ、ここ。
しかも、体が軽い。
いや、軽すぎる。
殊勝なふりをして俯きつつ、周囲を盗み見た。
細やかな模様の入ったクリーム色の壁。立派な作り付けの暖炉があり、足元の絨毯は厚みがあり、ふかふかだ。決して我が家のような6畳7980円の安物ではない。
腰かけているソファセットも肌触りのいいクッションが敷かれており、全体に繊細な細工がされている。特筆すべきは全ての脚が猫足なのだ。一目でお高い家具だと分かる。
目の前の中年男の服装や自分が着ているドレスをみてもシルク素材で袖口のレースなどよくぞここまで編んだものだと感心するくらいの繊細さだ。
察するによほど裕福な家に違いない。
問題は、なぜ、私がここにいるのかということだ。
……せめて、あの子だけでも一緒ならよかったのに。
……いや、その前に。
私は、小久保恵子。三十五歳。
大手生保会社勤務、勤続十八年。
――いわゆる、お局。
上司のミスを指摘すれば煙たがられ、
正しいことを言えば空気が凍る。
恋人?いない。
いるのは両親と弟に愛猫が1匹。
趣味は休みの日にアルコール片手に猫を構い倒すこと。
「こんなことでは、王太子殿下の婚約者の座を射止めることなど、できないぞ!ぽっと出の男爵家の小娘なんぞに出し抜かれおって……エヴァンス公爵家の恥ではないか!」
目の前の中年男の台詞から推測するに、エヴァンスというのが姓で、地位は公爵。
この男は公爵家の家長というところか。
で、私の名前はリザベッタで多分、公爵家の令嬢。
現在、王太子殿下とやらの婚約者の座を狙っていると。
……なるほど……
……ベタだな。
「申し訳ございません」
こういう理不尽に怒る人間には何を言ったところで無駄だということは、顧客窓口の経験上嫌というほど身につまされている。
ひたすら黙ってクレームを聞き、たまに、相槌を打つ。
で、激昂していた感情が落ちついてきたころに説明をするのがセオリーだ。
穏便に済ませたいので、殊勝な態度で聞いているふりをしていると、父親の表情からふっと怒りの色が薄れた。
「お前、なんぞ体のどこかに不具合があるのか?ひとにはいえない悩みがあるとか……専属の侍女からは報告は上がってないが……子をなせない体とか…特殊な性癖があるとか……」
「そういう悩みは一切ありません!」
私はぎょっとして、きっぱりと言い切った。
(いや情報量どうなってるのこの人)
父親とはいえ、年頃の娘になんということを聞くのだろう。
驚きすぎて、心臓が止まるかっと思った。
父親も踏み込み過ぎたと思ったのか、咳ばらいをして場を誤魔化した。
「ともかくだ、学園に戻ったら、王太子殿下に謝り、好かれるようにしなさい。そして、必ずや婚約者の座を射止めるようにな」
「鋭意、努力いたします」
「……なにやら、使用人のような物言いだな…?」
首を傾げる父親に焦る。
ヤバい。つい社会人としての口調が出た。
――これ以上ボロが出る前に。
逃げるに限るわ。
「失礼します」
私は顔が引きつるのを笑みで胡麻化して、部屋をでた。
お読みいただきありがとうございます。気楽に楽しんで読んでいただければと思っています。




