第1話 『オールド・ワールド・ブルース①』
大阪府大阪市北区、梅田。
この場所がそう呼ばれていたのは、百年以上前のこと。
多くのカップルたちが乗っていた赤い観覧車は朽ち果て、赤の塗料は剝げ落ち、人が乗り込む丸いキャビンはいまにも落下しそうなほど風で揺れている。
阪急の駅ビル、リンクス梅田、梅田スカイビル。
これらのランドマークも例に漏れず、ガラスは割れ、至る所に蔦や草木が侵食し、鳥獣やそれ以外の何かの住処となっている。
地面のアスファルトはひび割れ、そこから雑草が生え始めていた。
百年以上にわたって放置されている街路樹は、無造作に伸び放題となっている。
かつて多くの人々で賑わった繁華街、梅田の町並みはそのほとんどが旧時代のモニュメントと化してしまった。今や、文明よりも自然が支配する場所となっている。
この世界は一度、文明が崩壊した世界なのだ。
「あぁ、無情ですね。人の知恵が、人の愚かさによって飲み込まれ、朽ちていく。そして、それを人の知恵が生み出したアンドロイドであるワタシが観測する……。ワタシの未発達な感情表現では、この状況を表現しきれません」
「悲しい、っていうのはどうかな、リイナさん」
そんな荒廃した梅田を歩く、一組の男女。
リイナと呼ばれたメイド服の少女は、首筋の辺りでまとめられた自らの長い銀髪をさらりと右手で触り、変わり果てた梅田の地を見ている。
「悲しい、ですか。アスタ様は、そう感じられたのですね。ありがとうございます、今後の参考として、学習させていただきました」
「……違ったんだね」
リイナからアスタと呼ばれた少年は手に持った地図を見ながら、気まずさを誤魔化すように笑う。
その出で立ちは履き古されたブーツ、ゲートルを膝に巻いたズボン、袖を捲ったシャツ、ナイロン製のショルダーホルスターに背中のリュックサックと、まるで兵士のようであった。
ホルスターには、当然ながら半自動拳銃が収まっている。
「けど、未だに信じられないよ。リイナさんが崩壊前に作られたアンドロイドだなんて。たしかに、この辺りの住民にしては変わった格好をしているし、髪とか肌とかも綺麗すぎるな、とは思ったけど」
「ワタシも、未だに驚愕しています。この世界が、ワタシの作られた世界から百年以上も経過した世界で、これほどまでに文明が後退していようとは」
「日本なんて国、もう存在しないからね。いまこの辺りは、色んな勢力が入り乱れているんだ。中には危ない連中もいるから、気をつけないと。────あっ、ここが入口みたいだ」
目的地にたどり着いたアスタは、リイナに向かって手招きをする。
そこは、地下街への入口であった。
下へと降りる階段はとうの昔に照明が切れており、二段三段先ははっきりと見えないほどに薄暗く、入ろうとするものを拒んでいるような雰囲気さえあった。
リュックサックからマッチとオイルランタンを取り出したアスタは、慣れた手つきでマッチをシュッと擦り、その火をランタンの芯へと近づけて明かりを灯す。
「……ここは?」
「梅田の地下街──、だった場所への入口さ。こういう場所を見つけると、回収者魂が燃えてくるよ」
回収者。
この文明崩壊後の世界で、崩壊する前の物品や、まだ稼働可能な施設を探す職業である。
いわば、この世界におけるトレジャーハンターや冒険者のようなものだと、リイナは理解していた。
「かつて、自分が何気なく歩いていた場所が、まるでゲームや物語のダンジョンのように扱われている……。笑えばいいのか、悲しめばいいのか、判断に困りますね」
「えっ、リイナさんはここに来たことがあるんだ?」
「はい、ワタシの生みの親である夢島博士と共に、社会見学を兼ねてワタシの服を買いにきました」
へぇ、と驚きながらも、アスタは臆することなくランタンを左手に持って階段を下りていく。
リイナもまた、それに続いた。
リイナがこのアスタという少年と行動を共にして、はや三日。
きっかけは、リイナが眠っていた施設を、アスタが探索に訪れたとき。
崩壊前の記憶を持つ、極めて人間らしい、もしくは人間じみたアンドロイド。
そういったリイナの事情を知りながらも、アスタは他の人間と同じようにリイナと接し、この世界の事情を彼女に教えた。
崩壊前の世界ですら、人とアンドロイドの間には社会や倫理、感情や偏見などいくつもの壁が存在し、アンドロイドやロボットなどを嫌悪する人間も少なくはなかった。
生物ではない。
使い捨ての消耗品。
血と魂が通っていない人形。
そういった心ない言葉がリイナに投げかけられたことなど、一度や二度ではない。
「いいなぁ、リイナさんは……。こういうお好み焼き屋とか、うどん屋とかにも行けたんだ。いま露店とかで売っているまがい物じゃなくて、本物のお好み焼きやうどんを食べられたんだもんなぁ」
しかし、いまリイナの前を歩きながら、地下街だったものをキョロキョロと眺める少年。
アスタは違った。
彼がリイナと出会い、その事情を彼女から聞いた時、まず行ったのはリイナを抱きしめることだった。
寂しいだろう。辛いだろう。
自分でよければ、どんなことでも言ってほしい。
涙を流し、声を震わせながら、リイナよりも背の低い少年は、どうにかリイナを慰めようと、必死に彼女を抱きしめていた。
この涙と抱擁は、リイナがアスタをひとまずは信用するに足る十分な要素となった。
それを思い出し、アスタの背中に僅かな頼もしさを感じながら、リイナは彼の三歩後ろをついていく。
「……ワタシには博士が特別につけてくれた味覚や、食べ物を消化する機能を備えた動力炉が備わっていますが、お好み焼きやうどんはそこまでワタシの口には合いませんでした」
「な、なんて贅沢な……。じゃあ、リイナさんは何が好みだったんだい?」
「ハンバーガー」
「えっ?」
思わず、アスタが歩くのをやめた。
「ハンバーガーです。どうやら、ワタシの味覚は博士のものを基準に作られたようで。非常に大雑把で安上がりな味覚を持っていた博士と同様に、いつしかワタシもあの安っぽくて、やたらに味付けの濃いハンバーガーが好きになっていました」
「ハンバーガー好きで、皮肉屋のアンドロイド……。妹や所長に言っても、信じてくれなそうだなぁ」
「皮肉屋ではありません。少し、他者とは異なる視点で物事を見て、そこから得られた情報に、僅かながら人間への当てこすりや意地の悪さを加えて話しているだけです」
「人間よりもずっと口が達者だなぁ……」
再び、他愛もない話をしながら地下街を進んでいくリイナとアスタ。
ピピッ。
この音がした瞬間、二人がほぼ同時に喋ることを止めた。
次に歩みも止めて、アスタはゆっくりと左手のランタンを前に掲げながら、右手で左脇のホルスターから半自動拳銃を抜く。
リイナもまた、聴覚と視覚センサーの感度を高め、周囲を警戒し始めた。
「自然の音じゃない……。単なる警報とかセンサー類かな」
「崩壊直前、日本全土には緊急事態宣言に伴う国防軍の厳戒態勢が敷かれていました。軍、警察用の警備ドローンがまだ稼働していても、何らおかしくはありません」
アスタは固唾を飲み、目の前の暗闇へと拳銃の銃口を向ける。
軍用のドローンであるならば、アスタの九ミリ弾を使用する半自動拳銃では歯が立たない。
崩壊前、緊迫化する東アジア情勢から、第三次世界大戦の発生を見越して日米合同で設計された軍用の戦闘ドローンは、フルサイズのライフル弾や手榴弾の直撃すら耐え、歩兵一個小隊を単機で殲滅可能な性能を持つという。
そんな怪物と真っ向から勝負するなど、命がいくつあっても足りない。
現にアスタは、同じ回収者仲間のグループが運悪く軍用の戦闘ドローンと遭遇し、遺品すら残らないほど徹底的に殲滅されたという話を一週間ほど前に聞いたばかりであった。
────せめて、リイナだけでも逃がさなくては。
自身の後ろにいるリイナへと、視線を向けるアスタ。
そのとき、梅田地下街の暗闇で、赤く光る何かがリイナとアスタを捉えた。