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異世界と性犯罪者が嫌いです。〜ざまあごときじゃ済まさない〜  作者: 小村ユキチ
ツヴァイヘンダー

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5

 なぜそんな距離に来るまで気がつけなかったのだろう。確かに厳戒中とは言い難い会話をしていた二人だが、それでもそんな位置にまで魔物が来るのに気が付かなかったのはおかしい。

 だがそいつは間違いなく川の向こう、切り株の前に立っていた。姿は暗くてよくわからないが、それは人にも大きな鳥にも見える。


「人だったら両手を上げて返事を!!」


 うららが叫んだ。今まで聞いたこともないくらい力強い声だった。既に弓につがえた矢を引き絞っている。テツジは自然に身を引いて、バットを構えるように剣を持った。正面から見ればさぞ不格好に映っただろう。

 剣を持つ手が震えている。重いからではない。


「テツジさんは左右を警戒してください!」


 彼女の声。言われて確かにそうするべきだと気がつく。剣を振り回せる範囲だけうららから離れた。

 だが、目が川向こうの魔物からうまく離せない。どうしても視線が、意識がそこに吸い寄せられる。


 逃げたい。


 想像していた何倍も強く彼はそう思った。闇の中に未知の生き物が佇んでいるという事実が単純に恐ろしかった。夜道で熊に出会ってしまったようなものだ。この状況で逃げを選べない……人を守るとはそういうことなのだ。覚悟ができていたとはとても言えなかった。


 横で弓引くうららとは大違いである。


(ほんとにエルフみたいだ)


 ついついそう思った。


ちます!」


 決然と彼女は宣言する。


「2! 1!」


 風が切れる。

 軌跡すら目に残らないほど真っ直ぐに、矢が魔物を撃ち抜いた。

 そのはずだった。

 まるで霧の塊のように、魔物の姿がくうに消える。

 甘臭いキノコのような香りが突然辺りに満ち満ちた。

 霧が漂う。

 白い闇。

 その中に瞬く青、桃、緑……まるで夢の中で歩いているように景色が不安定で、たくさんの色がチラチラと光っては消えていく。

 青、桃、緑……。


〝ホォ……オオ……オゥ………〟


 フクロウの鳴き声。

 右から、

 、らか左

 音が動いている。

 霧が幽霊のように静かにテツジたちを取り囲み、その中を何者かの影がうごめいた。

 全身に鳥肌が立ち、闇雲に剣を振り回したい衝動に駆られる。

 それでもじっと動かず音を追いかけられたのは、胆力か、臆病風か。

 うららがどこかへ矢を放った。

 弦の震える音。

 何かに当たった気配はない。

 できるだけテツジは、何も考えないようにした。

 もしかするとこれは本当にやばい状況だとか、死ぬかもしれないとか、そう思ってしまう方が良くない動きをしてしまいそうだったからだ。


 何が見えても、剣を振る。それだけは決めていた。


(たとえ人が見えたとしても……)


 影。


 川の水が跳ねた。


 タタタと、足音が近づいてくる。


 右から左、横ざまに振り抜いて、


 予期していたように空を切った。


〝うあっ……〟


 呻くような音。

 明らかに人の男の声に聞こえた。

 瞬間、目の前の霧の中でバサッと音がした。先までとは違う、明らかにそこにいる、そう思わせる肉肉しい音だった。


〝ホォ……ホホォ……〟


 逡巡する体。

 考えないようにしていたはずの頭脳あたまが、勝手に、恐ろしいほど早く動く。


 最悪、そこにいるのが、人だったとして。


 それでもこれだけ悪意に満ちた襲撃をしてきた相手ならば、殺してしまっても、仕方がない。


 存外、自分の命がはかりにかかっていれば覚悟など簡単に決まってしまうものである。


 二振り目を、思い切り左から右へ。


 ズブリと何かに食い込む感触がした。


 瞬間、体に電流のように激痛が走った。


 それと同時に、色々なことが起きた。強烈な痛みすら後回しにせざるをえない量の情報が、テツジの眼前に飛び込んできた。


 まず、テツジの振った剣が()()()の体に届いた途端、立ち込めていた霧が一瞬で消え去った。まるで別の宇宙に飲み込まれたようだった。


 鼻に残るキノコの匂いと、突然クリアになる外界の景色。


 なんらかの催眠効果が消えたような、そんな感覚がテツジにはあった。魔物に斬り掛かったときの彼の思考も正常ではなかった可能性がある。本当に、夢から覚めたような気分だった。


 そして、そのせいで余計にわからなくなってしまったことがある。


 魔物に斬りかかった時、視界の端に人の顔が映った……気がした。清潔とは言えないヒゲを生やした男の顔で、おそらく日本人である。


 真っ先に思い浮かべたのは凪の奴隷たち。


 だが見たことがある顔かどうかは確信が持てなかった。凪の奴隷は500人以上いて、テツジはその半分近くは顔を見ていた。いくら顔や名前を覚えるのは得意な部類のテツジでも「あの時のあいつだ」と引き出しを開けることができなかった。


 ともかく、彼は誰かの顔を見た。見開いた二つの目……単なる幻だったのかもしれないが、それでもその充血した目玉の記憶だけ確実に脳裏に焼き付いていた。


 そしてその直後に飛び込んできたのは、悪辣あくらつな猿の戯画のような、見るだけで心臓をグイと掴まれるようなエグい魔物の顔だった。


 テツジがへっぴり腰で振りかぶった剣がその魔物の体に食い込んだ瞬間、柄からドロリと生暖かいエネルギーが腕に流れ込んできた。


 勢いが足りていなかったはずの横薙ぎが不可思議な力で加速する。


 激痛。


 魔物はやはり大きなフクロウだった。黒っぽい羽毛に包まれた恐ろしい怪鳥の、その首を翼ごとテツジの剣がね飛ばした。血が噴き出したが、首を刎ねたにしては随分と少なかったように思う。


 同時にテツジは崩れ落ちた。


 立っていられないくらい痛かった。


 恐らく叫んでいたのだろう。うららが慌てて彼の名前を呼ぶのが聞こえた。だが視線も上げられない。ジットリと不快な汗が背筋を這う。


「テツジさん!」


 ほんの少しだけ時間を置いて(周囲を警戒していたんだと思う)、うららが近づいてくる。


「大丈夫ですか!?」

「ま、魔物は……」

「クリアです! 怪我ですか!?」


 まだしっかりと返事ができなかった。


「だっ……」

「見せてください!! 応急処置ならできます!」

「つうっ……」

「しっかり! しっかりしてください! 血は出てません!」

「いや……」

「大丈夫ですか!? 意識はありますか!?」

「あ……ある……」

「テツジさん! テツジさんっ!!」

「わ……」

「わ!?」

「わき……」

「脇ですかっ!?」

「脇腹……った…………」


 ようやく言葉になった。


 風が涼しい。


「……つった?」

「だ、だから、大丈夫……だけど……あだ、いだだだ…………」


 ゲッソリと玉の汗を垂れ流しながら、テツジはなんとか笑顔を彼女に向ける。岩の上の置かれた光晶はまだ消えておらず、うららの表情は逆光で見えない。


「ええと……」

「僕、昔からすじとかりがちで……やっぱ戦うとか向いてなかったかも……いっ!? うげ……」

「だ、大丈夫……ですか?」

「だいじょばない……かも……とほほ……」

「……とほほって」


 クスっと笑うのが聞こえた。


「ははは、やっぱ準備運動って大事だね……こんなでかいのいきなり振り回せないって……」

「ですよねえ」

「ま、魔物は……大丈夫なの?」

「はい、このタイプは霧が晴れたら大丈夫です」

「そう……」

「あの……ホントに大丈夫ですか?」

「……かっこいいね、うららちゃん」

「え?」

「僕はこのザマです……クソ雑魚ナメクジでゴメンナサイ……」

「なめくじ?」

「ナメクジです」

「……なめくじだったんですか」

「実は……」


 クスクスと、キャンドルが揺らめくような優しい笑いがしばらく続いた。

 生汗をかきながら、改めてテツジは魔物の死体を見る。眼の前に現れたときは随分大きく見えたのだが、その体長はテツジどころかうららと同じかやや小さいくらいだった。鳥としてみれば破格だが魔物としては大したことはない。切り落とされた頭は川の側まで転がっていて、クチバシからダラリと血の跡が伸びている。冷静に考えればかなりグロいが流石にテツジももう何も感じなかった。


(ここまで派手に攣ったの……高校以来かな)


 最後の体育祭での格好悪いエピソードを思い出しながら痛みに耐えていた彼の右肩に、そっとうららの手が触れた。

 とても温かい。

 あの時も、当時仲が良かった女子に似たようなことをされたことをテツジは思い出す。その相手には卒業式の日に告白されて、返事をする前に走り去られた。こっそり見ていた友人に笑われ、冷やかされた。絵に描いたような青春の終わり、あまりにもクラシカルな構図、甘酸っぱいと呼ぶことすらはばかられるような青いエピソード……。


 それでも、この世界にはなかったもの。


「大丈夫そうですか?」

「うん……だいぶ落ち着いてきた。わりとすぐ治りはするんだけど……」


 彼女の手が、左の肩にも触れた。


 やや間を置いて、とんっとゆるく背中に重さを感じる。


 体に寄せられた彼女の頭。


 薄く甘いゾクリとするような感覚が、白湯さゆを飲んだようにじわりと体の底から湧き上がった。思わず緊張したせいで余計に痛みが走り顔が引きつったが、彼は意識して呼吸を抑える。


 小さな呼吸が、彼の背中で震えている。


 本当に色々なことが起きる夜だとテツジは思った。いつの間にか辺りは暗い。異世界に降る星と月の明かりは原初の輝きを維持していて、それでも決して暖かくはなく、ただ小さな二人を冷たく無音で見下ろしている。


(……そうか)


 一分くらいか、お互い無言でそのままだった。

 やがて彼女から身を離す。


「あ、あの、ご、ごめんなさい……」


 小さい、小さすぎる声だった。


「どうして?」


 そう言って彼は立ち上がった。脇をさする。痛みは本当にだいぶ落ち着いた。気持ちの整理もついていた。


 うららは、また、あの顔をしている。


 ひどく暗い、病的な、陰鬱な表情。


 だがもうテツジは驚かなかった。


 もしかすると、空の月よりも冷たい顔をしていたかもしれない。

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