飛び降りた
白い部屋。エストが斬り壊した窓ガラスは直されていた。
死体もない。パパだったやつもいない。部屋に生活感もなく、鼻についた薬品臭も消えている。
虹彩の種族の一人は傲慢に頬杖をつき、テーブルに足を載せたまま、ワイングラス越しにエスト達をジッと睨み据えた。
ルドヴィコ・アーヴェのほか、シルヴィと同じ種族の怪物が数名、鋭い睥睨をガスマスクへ向け佇む。
薄紫、桃色、白。無数の色に煌めく髪。人間、それも少女のような容貌でありながら妖艶蠱惑。シルヴィ・ラヴィソンより成長した個体。
彼女達は皆、【緋刃】を前にしながらも怯える様子もなく堂々と、勝ち気な笑みを浮かべていた。垣間見える鋭い牙が赤い色に濡れている。
「ほう、随分と派手に暴れてくれたようだが我らが同胞と共に来たということは取引に応じるということか?」
「悪いがシルヴィ・ラヴィソンからは依頼を受けている。街から出してくれと、そう頼まれた。交渉に応じるつもりはない。ルドヴィコ・アーヴェは個人的に回収しに来ただけだ」
「ふぅむ。人間のくせに我等よりよっぽど傲慢な考えではないか。交渉をしないなら貴様の大切な弟子は幸福のまま自害し、シルヴィ・ラヴィソンを無理矢理回収するだけだというのに」
虹彩の種は嘲りながらパチンと、軽快に指を鳴らした。
ルドヴィコは力なく項垂れ、紅く濁った瞳を向けたまま自身の首に折れた【白影】の刃をあてがう。
瞬間、目を覆い隠すほどの火光が瞬き、【緋色の剣】が鞘から抜かれた。刹那の居合。距離があるにもかかわらず刀が抜かれたその衝撃だけで斬撃の間合いを作り上げる。
「――――ッーー……!」
虹彩の種は息を呑んだ。刃は掠めもしていない。だというのに、色鮮やかな髪が強く靡き、長かった髪が解けるように散っていく。ルドヴィコ・アーヴェを操る少女は引き攣った笑みで蒼白しかけた表情を取り繕った。
「戦争をするつもりか? おぞましい色付き。されど所詮は便利屋個人だ。我々と長く争えば貴様も破滅は避けられんぞ」
「そうだろう。だが開始と同時にお前は死ぬ。お前たちの種族が血を啜り幸福を与える以外にも膂力、反射神経……全ての身体能力において人間を凌駕していようとも、お前は助からない。ルドヴィコ・アーヴェを傷つけるならばな」
エストの殺意、苛立ちに同意するようにレーヴェが鋭い気配で周囲を狙い澄ます。殺し合いになった瞬間、少なくとも二人の虹彩の種は死ぬだろう。
レーヴェは素直で、従順で、正直さは盲目的なぐらい残虐だ。
「……ッ! ちょ、ちょっと待って! 私だって、当事者なんですけどぉ?」
冷や汗を描きながら、シルヴィは虹彩の種族達とエストの間に割って入った。大袈裟に腕を突き伸ばし、気まずいように口を深く結びながらジッと彼女達に視線を向ける。
「我が同胞、貴様の首にかけた薬を全て差し出せ。そしてお転婆はもうやめろ。いずれはこの出来事もただの思い出となる。そしてもう二度と貴様を脅かす者も、謀る者も存在はさせない。だから戻ってくるがいい」
「わ、私は……ぁ。いや、我は我々を脅かし、抑圧するクスリは全て飲み切った。幸福を正し打ち消すクスリは最後の一粒だ。ここでルドヴィコ・アーヴェに飲ませるだけでその存在は消える」
少女めいた言葉遣いを一度やめた。真摯な眼差しを同胞へ向け、凛とした声を響かせる。部屋に充満していた突き刺すような気配が消えた。彼女達は黙ってシルヴィ・ラヴィソンの言葉に耳を傾ける。
「我が……、私がまたどこかの悪い奴に騙されて、捕まったりすることを心配してくれてるならぁ……問題はないよ? 見ての通りエストは……私のエストは雑魚雑魚のなかで一番強いんだから♡」
エストとの繋がりを強く主張するように猫撫で声でべったりと腕にしがみついた。頬を押し付けると、ジッと見据えていた虹彩の種の一人が不快そうに眉間に皺を寄せる。
「我々の血が我々を殺す薬となる。貴様の心配などしていない。貴様に何か事があれば我々、種の存在に危険が及ぶのだ。そうした可能性は排除すべきだろう。仮に【緋刃】が貴様に仇を成したらどうするつもりだ? 貴様に何ができる。自らの力よりもおぞましい者を信じるな。何かあれば貴様は――」
ニヤリと、シルヴィは牙を見せつけるように微笑んだ。
「無いよ? 食べちゃったもん♡ ……我の体液はとっくに【緋刃】の体を巡っているのだからな。エストの血もまた、我の中に捧げられている」
シルヴィはじんわりと頬を赤らめて意味深げに下腹部を撫でた。ガシャンと、脚を組んでいた虹彩の種がワイングラスを落とした。困惑に目を揺らしながら頬を引き攣らせ、神妙に首をかしげる。
「まさか……貴様は既に」
「血を飲ませただけだ」
「黙れ人間! 今は我々種族の話をしている。黙っていろ」
エストは即座に訂正の言葉を重ねたが険しい言葉にかき消された。感情の機微を示すように瞳の光は激しく揺れ、髪が淡く揺れ動く。
「人間の血を飲まなければ生きていけない我々が共存できることはないぞ。だからこそ我々は幸福を操る力を持っているんだ。……その人間と行けば苦しむことになる。もっと先を見ろ。先の見えない未来に身を委ねるべきではない」
「ほう、さっきは我の心配などしておらぬと。そんな態度だったのにぃ……。やっぱり心配してくれてたんだ♡」
クスクスと嘲り茶化して見せる。力の片鱗さえ見せることなく口先だけで場を掌握し、誰に止められることもなくルドヴィコの前まで歩み寄った。
細い指先で一錠の薬を手に取り、そっとルドヴィコの口に押し入れ、飲み込ませてしまう。それで薬瓶は空っぽになった。
「……襲わないの? 捕まえないの? 私は自由に出歩きたい。同胞に迷惑がかかるのはわかってる……それでも、自由になりたい。それがダメなら私を籠の鳥にしないとダメだけどぉ? …………いいの?」
ふんと、虹彩の種族は、エスコエンドルフィア製薬の支配者は自分自身と、目の前の我儘な同胞を自嘲混じりに鼻で笑った。
「いいものか。だが我々は支配者でなくてはならない。人間の都合でシルヴィ・ラヴィソン、貴様を殺めることは絶対にできない。加えて言うならば、人間ごときが原因で我等が同胞が不幸になることも許されない」
プライド、矜持。人間を支配する彼女達は傲慢な言葉で言い訳を並べる。気難しげに頬の紅潮を誤魔化しながら更に言葉を続けた。
「我々が力ずくで貴様を繋ぎ止めたとしてなんの意味がある? 我等の同胞の多くが緋色に斬られ、色はやがて潰える。貴様は全てを失う。そんな未来に何の意味がある?」
――――沈黙。シルヴィは黙ったまま言葉を受け止めた。静寂のなか階下の炎の音だけが響く。心地よい音だった。
「…………ありがと。最初にルドヴィコをここに送ったのだってさ。騙されて、辱められてたことにも気づかなかった私を助けるためなんでしょ。……だから、その。少し仲間として話がしたかったの」
「我々と言葉を交わすぐらいなら、とっととどこへなりとも行けばいい。だが不幸にだけはなるな。その男は我々種族のために存分に利用しろ。その緋色を貴様の色に染めろ」
コクコクと、シルヴィは深く頷いた。レーヴェだけが苦笑いを浮かべる。
「いいよ。エスト。ルドヴィコも回収してさ。私を外にぃ……誘拐して♡」
「…………お前も変わったな。初めて見た時はもっと、弱々しくて、自分には何もできないと思っていそうな声だった」
エストは片腕でルドヴィコを脇に抱えると大窓にまで向かっていく。刃の一振りでガラスは花火のように砕け、熱を灯し緋に染まりながら散っていった。
「おい。【緋刃】。貴様が壊した全ての物品の請求書を送るからな」
「全財産を使い果たした。返済はツケろ。――シルヴィ、レーヴェ。飛び降りるが平気か?」
「もしかして平気だと思うわけ? た、高いとこが苦手って前も言ったじゃん! 忘れちゃったの? バカ、バぁカ♡」
シルヴィはわざとらしく最初の言葉を真似た。
「猫を被るな」
「被ってないよ。被ってるのはぁ……これ♡」
あざとく頬に指を当て口角を上げる。満面の笑みで真っ赤になった顔を誤魔化しながら牙を見せた。
「…………そうだったな」
砕けた窓を踏む音と共に、エストはひょいと、荷物でも持つかのようにシルヴィの体も脇に抱える。
「し、師匠……。その、わたしも今は少し高いところが怖い気がするので失礼します」
むぎゅりとエストの背に熱と重みが寄り添った。レーヴェは躊躇いなく腕を回ししがみ付く。
「…………問題はない」
エストはガスマスクの奥から呆れにも等しいため息を零した。安堵の混じった、暖かな呼気。虹彩の種族達の視線は険しかった。
「エストぉ……その、離さないでね? すっごいギュってしてるから大丈夫だと思うけどぉ」
「……余計な心配はしなくていい。だが喋るな。舌を噛むぞ」
もう慌てふためくことはなかった。シンと、数秒の沈黙を置いて、エストはたしかにガスマスクに隠れて笑ってみせると。
――――飛び降りた。




