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天国


私立の高校に通う、小日向こひなた明日香が、小さな柴犬を手に入れたのは、小学校三年生の時だった。


雨の降るある日、近くの公園で、ずぶ濡れになってうろうろとする仔犬を、明日香は放っておけず、そのまま連れて帰った。明日香にとってその仔犬は、兄弟姉妹のいない寂しさを紛らわせてくれる、可愛くて可愛くて仕方がない存在となった。


母親に頼まれる前に、明日香は「コタロー」の世話を買って出て、毎日の散歩からエサやりまで、面倒を見ていた。コタローも明日香によく懐いて、リビングでは毎日のように、じゃれ合って遊んでいた。


「コタローってば、私の教科書をかじったのよ。こらあ、コタロー‼︎ こんなことしたらダメでしょっ‼︎」


明日香が怒れば、途端にコタローはしょげて、うなだれる。明日香が笑えば、コタローもあちこちを飛び回って、明日香へと喜びをアピールする。そんな様子が可愛くて、明日香は心からコタローが大好きだった。


中学校に入ると、勉強や部活で忙しくはなったが、その合間を縫ってコタローと遊んだり、散歩に連れ出したりしていたし、明日香が勉強している時は、コタローはその傍らで大人しく勉強が終わるのを待っていたりした。


そして、明日香が高校三年生になったこの春、久しぶりにと散歩に連れ出した先で、コタローが事故に遭ってしまったのだ。


「私がリードを離してしまった隙に、駆け出して。勢い余って、車道に飛び出したところを車に轢かれて、そのまま……」


涙が頬を伝って落ちていった。


「まだ息があったコタローを抱っこして、いつもの動物病院に連れていこうとしたら、途中で、息がね、止まっちゃって……」


はああっと、息を吐く。涙はぽろぽろと溢れていたが、明日香は話を続けていった。


途中の河川敷で、泣きながら座り込んでいると、コタローの身体がほわっと光った。眼を少しだけ開けたので、コタローと名前を呼ぶと、コタローは明日香の腕の中でもぞもぞと動き、そのまま立ち上がって歩き出したという。


明日香は、その光景をぼうっと見ていた。コタローの後ろ姿を見ていると、どんどんと歩いていってしまう。


「コタロー、コタロー」


呼んで立ち上がろうとすると、両手にずっしりとした重みと温かみがある。見ると、自分の両腕はコタローの亡骸を抱っこしていた。


再度、遠くへと歩みを進めていく、ぼんやりとしたコタローの姿を見ると、コタローがふと立ち止まって、明日香をじっと見ている。

明日香は抱っこしていたコタローを河川敷の一角へとそっと置き、赤い首輪を外して握ると、幻影のようなコタローを追いかけた。


「その時はね、これは死んだコタローの魂なんだって、分かってたんだ」


涙や鼻水で濡れた布で、目頭を押さえる。


「でも、行って欲しくなくって、追いかけたの。死んじゃったなんて、思いたくなかった。捕まえて、コタローの身体に戻したら、生き返るかもしれないって思って……そんなこと、あるわけないのにね」


追いかけたコタローの姿は、河川敷から横にそれていった。川べりの方へと下っていく。明日香はその時、足元を見ていなかった。でこぼこの岩に足を取られてつまずき、そのまま斜面を転がり落ちていった。


「そこから、記憶がないんだけど」


ロウとユノが息を呑んだ音が、ゴクッと部屋の中で小さく響いた。


「……たぶん、私も死んじゃったんだね。頭でも打ったんだと思う。たんこぶ、できてたし」


泣きながら笑った顔が痛々しく、ロウとユノは眼を逸らした。


「この森、少しだけ覚えてる。薄っすらうろ覚えだけど、コタローが私の目の前を走って去っていったの。死んだコタローがいるってことは、ここは天国とか黄泉の国ってことでしょ。だから、」


明日香が、息を整えてから言った。


「私も死んじゃったんだよ」


✳︎✳︎✳︎


「そんなわけあるか」


「記憶が戻って、混乱してるってのもあると思うけど」


教科書を数冊、机にトントンと打ちつけて揃えてからカバンへとしまうと、ユノはロウの帰り支度を待った。


「あんだけメシを食ってるんだぞ。死んでるわけがないだろ」


乱暴に教科書をリュックに詰め込むと、ジッパーをギャギャッと音をさせて閉めた。


「分かった分かった、分かったって」


「バナナだって、あいつひとりで何本食ったかっての……」


言いかけて、前を歩いていたユノの背中にぶつかる。


「おい、急に止まんなよ」


ロウが不服そうに言うと、ユノの耳がピクピクと動いてるのが、目に入ってきた。こんな時はいつも、ユノは何かの音を拾っている。


ユノが突然、歩き出した。


「先生っ、先生‼︎」


おい、何する気だ、ロウが声をかけたが、それを振り切って小走りで廊下の先へと向かう。


「先生、ちょっといいですか?」


声をかけられたシモン大師は、振り返ってユノを認めると、いつもの厳しくも優しい顔をこちらへと向けた。


「なんだ、ユノ。授業で分からないところでもあったか?」


ロウはユノに追いついて止まると、ユノの顔をチラッと盗み見た。その真剣な表情で、ユノが何を訊こうとしているのかが分かり、ロウは心で舌打ちをした。


(余計なこと、言うんじゃねえぞ)


睨みをきかせたつもりだが、シモン大師を真っ直ぐに見つめているユノの視界には入らない。逆に、シモン大師にその険しい表情を見られ、ロウはさらに舌打ちした。


「先生、ちょっと訊いていいですか?」


「なんだなんだ、ユノ。おまえのそんな顔、久しぶりに拝ませてもらったぞ。進級試験以来じゃないか? はははっ」


「バナナケーキのレシピを教えて欲しいんですけど。確か前に、先生の奥さまが作ったケーキを持ってきてくださいましたよね」


「え、ああ。あいつはそういうのが趣味だからな」


「奥さまに、レシピを貰えるようお願いできませんか」


「ああ、いいぞ、頼んでみる……が……ユノ、おまえが作るのか?」


ユノがニコッと笑って、カバンから一枚の紙を出す。


「ボクが作るんですよ。あ、これ、授業のアンケートです」


「はいはい、それにしてもなんだ、急に? 彼女でもできたか?」


「あはは、まあ、そんなとこです」


ユノの言葉にぎょっとする。ロウは、おい、もう行くぞと言って、ユノの腕を引っ張った。


「じゃあ、先生お願いしまーす」


ようやくシモン大師から離れると、ロウはユノへと抗議の声をあげた。


「どういうつもりだよ」


「バナナケーキを明日香に作ってあげたいと思ったんだけど」


「急に、バナナだなんて、怪しまれるだろ」


『獣−人族』は、基本の食事は草食なので、野菜や果物を好んで食べるのだが、果物の中でも、バナナはとりわけ人気がなく、ほとんどの獣人が敬遠する果物の一つだ。ロウやユノだけでなく二人の友人にも、ねっとりとした舌触りと独特の匂いがだめだという者も多い。けれど、その栄養価は果物の中ではずば抜けて高く、高栄養食品の一つに数えられている。


シモン大師の妻は、そんな嫌われもののバナナを美味しく食べられるように調理し、時々生徒へと配るよう、大師に持たせてくれるのだ。


「先生の奥さんは料理上手だし、明日香はバナナが好きだから……」


ユノが少しの動揺とともに、言い訳をする。


「……大丈夫、別に怪しまれてないと思う」


ユノが安易にそう結果を導いたことに、ロウは少しだけ腹を立てた。が、それよりロウはユノが朝言っていたことの方が、気になっていた。


「それより、あの本の作者の自宅が分かったって、本当なのか?」


「あ、うん。偶然、見つけたんだけどね。本ってさ、奥付ってあるじゃない? 作者の紹介だったり、発行日だったりするページ」


「ああ、分かる。だいたい、最後のページに書かれているだろ。でも、あの本は、その部分が切り取られていたじゃないか」


「そうなんだ。けれど、切り取られた部分が、本文の途中に挟まっていたんだよ」


「そんなの、気がつかなかったぞ」


「小さく折り畳まれていたからね。気がつかなかったんだろ」


ユノと並んで歩くと、ちょうど肩の位置も同じで、ロウは同じように成長していく不思議を感じていた。お互いの背が少しでも抜いたり抜かれたり、ということがなく、いつも同じように成長していく。


「でも、作者の住所なんか、普通は書いてねえだろ」


「そうなんだ。まあ、住所はさすがに書いてはいなかった。けど、この本は昔、学校の授業用の教本として書かれたもので、当時は教師や生徒からの質問を自宅で受けていたらしいよ」


肩と肩がトンと軽く当たった。


「やけに詳しいな」


ロウが眉をひそめた。


「図書室で調べた。『教育史とその変遷』ってのに、ちらっと載ってたんだ」


「いつの間に……」


ユノが言葉を重ねる。


「でね、その著者がね……聞いてビックリするなよ。なんと、シモン大師なんだよ」


「…………」


「……え、驚かないの?」


「驚いたよ。でも、おまえがビックリするなって、」


「……オモシロクナイナ」


「バカか……ってかユノ、おまえ、それでバナナケーキのレシピってことか」


「うん、まあね。レシピについて質問があるって言えば、訪ねていくキッカケにもなるかなと思ったんだ。それに、明日香はバナナが大好きだから、一石二鳥ってね」


つい最近までは、ただただ頼りない先輩だと思っていたのに。


(先輩っていうより、ダチっていう感覚だけどな)


「行くだろ?」


「ああ、もちろんだ」


ロウも力強く、答えた。


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