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第1話

「クロエ、口元にスープがついていますよ」


落ち着いた低い声とともに、白い絹のハンカチが差し出された。


王立第一学園のカフェテリア。午後の木漏れ日が差し込む特等席で、クロエ・ヴァルハイトは手に持った羊皮紙から目を離さないまま、言われるがままに口元を差し出した。


「ん……ありがと、ヴィンセント」


「いいえ。今日の魔法薬調合の実習、集中するのは結構ですが、昼食の時くらいは目の前の食事に意識を向けてください。栄養が偏るとまた体調を崩します」


完璧に仕立てられた制服を纏い、隙のない動作でクロエの口元を拭うのは、グランツ公爵家の次期当主ヴィンセントである。


冷徹で感情を表に出さないことから『氷の公子』と恐れられているはずの彼は、いまやクロエの専属執事か母親かというほどの甲斐甲斐しさで、彼女の皿に小さく切り分けた肉料理を運んでいた。


「だって、昨日の抽出実験の成分比率が気になって……。あ、このお肉おいしい」


「お口に合って何よりです。あなた好みにソースのハーブを微調整するよう、学園の料理長に伝えておきましたから」


「流石ね」


淡々と会話を交わす二人だが、周囲からの視線は穏やかではない。


ヴィンセント・フォン・グランツ。容姿端麗、成績優秀、魔力保有量も国内トップクラスという超絶スペックのスパダリイケメンである。そんな彼が、学園一の変人と名高いクロエに尽くし抜いている光景は、毎日の名物となっていた。


当のクロエはというと、生まれつき他人にまったく興味がない。


興味の対象は魔法薬学と、幼馴染として幼い頃からずっと側にいてくれるヴィンセントだけ。


それ以外の人間に関しては、顔も名前も一向に覚えられないという致命的な欠陥を抱えていた。


「……いたわ! ヴィンセント様!」


静かなカフェテリアに、甲高い声が響き渡った。


高価なレースをあしらったドレスを揺らし、取り巻きを従えて歩み寄ってくる一人の令嬢。縦巻きツインテールを誇らしげに揺らす彼女の名は、エレノア・フォン・バートレット。伯爵家の高貴な令嬢であり、ヴィンセントの婚約者候補を自称する女子生徒だった。


「ご機嫌よう、ヴィンセント様。このような場所で、品の欠けたお食事をなさっているなんて……お可哀想に。わたくしとご一緒に、特別席でお茶をいただきませんこと?」


エレノアは扇子を優雅に広げ、熱っぽい視線をヴィンセントに送る。


しかし、ヴィンセントは一切の表情を変えず、クロエのお冷やのグラスに氷を足しながら冷ややかに応じた。


「バートレット嬢。私は今、クロエとの大切な時間を過ごしています。お引き取りを」


「なっ……! またその冴えない女ですか!? ヴィンセント様、騙されてはいけませんわ! その女はあなたの身分と財産に群がっているだけの、無愛想で愛嬌もない陰気な薬草オタクですのよ!」


激高したエレノアの言葉にも、ヴィンセントの眉根ひとつ動かない。ただし、その瞳の奥には凍てつくような殺意が宿っていた。


ヴィンセントが口を開き、徹底的に排撃しようとしたその時――。


クロエがようやく羊皮紙から顔を上げた。


「……?」


クロエは、目の前で真っ赤になって怒っているエレノアを、ぽかんとした表情で見つめた。


そして、首を傾げてぽつりと言った。


「ねえ、ヴィンセント」


「何でしょう、クロエ」


「この縦にくるくるした髪型の、赤いリボンの人は誰……? 学園の新しく雇われた給仕の人?」


静寂がカフェテリアを包み込んだ。


エレノアの顔から、一瞬で血の気が引いていく。


「な……っ!? きゅ、給仕……!?」


「クロエ、彼女はバートレット伯爵家の令嬢です。以前も三回ほど、あなたの研究室の前に押し掛けてきたでしょう」


ヴィンセントが丁寧に説明するが、クロエはうーんと眉をひそめて記憶を掘り起こそうとした後、あっさりと諦めたように息を吐いた。


「ごめんなさい、覚えてないわ。人のかたちをした背景だと思ってたから」


「はい、クロエはとても正直で素晴らしいですね」


「ふざけないでちょうだいーーっ!!」


エレノアの金切り声がカフェテリアに響き渡る。


彼女は震える指先でクロエを指さした。


「このわたくしを……エレノア・フォン・バートレットを『人のかたちをした背景』だなんて……! 許さないわ! 覚えていらっしゃい、ヴィンセント様は絶対にわたくしのものにしてみせますわ!!」


捨て台詞を残して走り去っていくエレノアの後ろ姿を、クロエは不思議そうに眺めていた。


「なんだか騒がしい人ね。……ところでヴィンセント、あのお肉もう一口頂戴」


「ええ、喜んで。あーんしてください、クロエ」


「あーん」


周囲の生暖かい視線を浴びながら、クロエはヴィンセントの手からお肉を受け取り、エレノアのことなど一瞬で頭から消し去るのであった。


こうして、エレノアによる凄惨な(?)邪魔工作の幕が開けたのである。



お読みいただきありがとうございました!


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