おれはお前なんかに
「えっ? 風太くんと美晴ちゃんは、知り合いじゃないの?」
「うん……。ちょっと、よく分からない……」
ウソだ。真っ赤なウソ。『風太』は平然と、雪乃にウソをついた。
『美晴』は耳を疑った。この裏切りは、何もかもを狂わせる。
(分からないわけないだろっ! この姿は、この身体は、元々お前のものなんだからっ!! この野郎っ、ふざけやがって!!)
言いたいことはたくさんあったが、口より先に身体が動いた。
「お前っ……!!」
「きゃっ!?」
ベッドから降りた『風太』に、『美晴』は掴みかかった。
(その驚いた顔も、元々はおれの物だっ! おれから奪った物、全部、返せっ……!!)
ケンカをしたことくらい、いくらでもある。親友の健也とだって、今までに何度もやってきた。そのたびに、雪乃から「ケンカはしちゃダメっ!」と、怒られてきた。
だから『美晴』は、胸ぐらを掴めば相手を殴りやすいことを知っていた。裏切り者である『風太』のシャツの襟元をねじり上げ、ギリッと鋭くにらみつけた。
「……!」
しかし、『美晴』の急襲に対して、『風太』は少しも抵抗しなかった。
(なっ、なんだ!? その目はっ!)
自分は殴られても当然、とでも言っているかのような。恐怖も、度胸も、闘争心も感じられない哀しい目をして、『風太』はただ立っていた。
(こっちはケンカを仕掛けてるのに、どうして何もしないんだ!? おれに殴られるのを待ってるのか……!?)
おそらく、殴られることに慣れている。突然の暴力に対しても、それを受け入れるように生きてきたのだろう。
しかし、美晴みたいな「弱い女子」が、殴られることに慣れているなんて、風太には到底理解できなかった。「弱い女子」は守られるべきものであり、「弱い女子」は暴力をしないし、暴力を受けることもない……というのが、風太の騎士道的な常識だ。
(くそっ、なんだよそれ……! ズルいじゃないか……! 今から殴る相手の気持ちなんて、考えたくないのにっ……!!)
それに加えて。
「美晴ちゃん、やめてぇっ! け、ケンカしちゃダメだよっ!」
雪乃がそばにいる。必死に、このケンカを止めようとしている。
雪乃が見ている前で、無抵抗の女子をぶん殴る……なんて、できるわけがなかった。雪乃の心を傷つけるような男には、絶対になってはいけないのだ。
(すごく悔しいし、すごくムカつくけど、美晴は殴れない……!)
『美晴』は『風太』の胸ぐらを掴んだまま、それ以上何もできなかった。そして、何もせずにいると、今度は『風太』の方から行動に出てきた。
「風太くん……!」
『風太』は、自分の胸ぐらを掴んでいる『美晴』の手首を、ギュッと掴み返した。
(痛っ……!?)
『風太』は男子なので力が強く、『美晴』は女子なので手首が細い。軽く握られただけなのに、『美晴』の手首には激痛が走った。
さらに身体を引き寄せられ、もう一方の手首も捕まり、両手の自由を封じられた。現在の『美晴』は、無理やり直立させられた犬みたいな、マヌケなポーズをしている。
「お願いっ! 美晴ちゃんも風太くんも、ケンカはやめてーっ!!」
見ていられなくなり、雪乃は大声で叫んだが、もう二人にその声は届いていない。
『美晴』は、自分の呼吸が荒くなっていくのを感じていた。反撃をするべく、拘束を振りほどこうと身体をひねってみたが、『風太』は『美晴』の両手首を強く握ったまま、決して放さなかった。
「風太くん、聞いてっ……!」
『風太』が何か言おうとしているが、『美晴』は聞こえないふりをして、顔を伏せた。
「あの……! あのっ、わたしっ!」
『風太』は、目の前の相手にしか聞こえないくらいの声で話している。
「風太くんのこと、ずっと前から知ってて……! 風太くんは、わ、わたしの憧れでっ……!!」
「そんなの、おれの知ったことじゃない」と、『美晴』は心の中で『風太』に反論した。
こちらからすれば、さっきぶつかっただけの女子だ。別に仲良くないし、一緒に遊んだ想い出もない。「ずっと憧れていました!」なんて言われても、ずいぶん自分勝手な話だ。
さらに『風太』は続けた。
「どうして身体が入れ替わったかなんて、わたしにも分からないけど、風太くんならきっと、わたしを……!」
(やめろ、やめろ! もう一言もしゃべるなっ! お前がおれをどう思ってるかなんて、聞きたくないっ……!!)
怒りの火が、消えてしまいそうになる。
『美晴』は語りの声を遮り、全身の力を振り絞って、ハッキリと『風太』に伝えた。
「この……、お前の……身体っ……!!」
「えっ……?」
「全然……うまく……しゃべれない、しっ……! 力も、弱いしっ……」
「……」
「お前の……気持ちは……知らないけどっ……! おれは……お前なんか、に、なりたく……なかった……!!」
*
「ちょっと、何をしてるの!? あなたたちっ!!」
校医の柴村先生が、間に割って入ってきた。
先生の後ろでは、雪乃が泣きそうな顔で『美晴』と『風太』を見ている。どうにか二人のケンカを止めたくて、先生を呼んだのだろう。
先生は、落ち着いた口調で言った。
「どちらが悪いのかは知らないけど、ケンカはいけないわ。お互いに、頭を冷やしなさい」
『美晴』はもう一度、雪乃の様子をうかがった。
雪乃は、ケンカをしていた二人に目立った外傷がなくて、ひとまず安心している様子だった。
(そうだ……。雪乃は常に、おれたち二人の心配をしてくれてたんだ……)
『美晴』は少し、雪乃に申し訳ない気持ちになった。
「二瀬風太くん。あなたは熱もないし、体調も悪くないみたいだから、今日はそのまま帰って、自宅で安静にしてなさい」
先生がそう言うと、『風太』は黙ったまま、黒いランドセルを肩にかけた。それを背負って、「赤の他人の家」に帰るつもりらしい。
『美晴』としては、このまま『風太』を帰すわけにはいかないという気持ちがあるものの、これ以上はどうすることもできない。
「返せっ……!」
「ごめんなさいっ……」
『美晴』の悪あがきのようなセリフにはそう答えて、『風太』はそそくさと保健室から出て行った。そして、雪乃もピンク色のランドセルを背負い、こちらにひと声かけてから、『風太』の後を追った。
「風太くんと仲良くしてね。じゃあね、美晴ちゃん」
*
保健室には、『美晴』と柴村先生だけが残った。
先生は、『美晴』の頭や首をペタペタと触り、一通り体調の確認をした後、最後におデコのことについて触れた。
「熱はないみたいね。だけど……あなた、この『おデコ』どうしたの?」
間違いなく、あの傷痕のことだ。しかし、この傷については、おデコに最初からあったものなので、聞かれても分からない。
先生にウソをつくわけにもいかないので、『美晴』は正直に首を横に振った。
「そうねぇ。最近できた傷には見えないし。戸木田美晴さんは何か……私に相談したいこととか、あるかしら?」
(戸木田美晴……? ああ、美晴のフルネームか)
相談したいことなら、確かにある。「おれは戸木田美晴じゃなくて、二瀬風太なんです! 元に戻るには、どうすればいいですか?」だ。
しかし、誰かに相談したところで、こうなるだけだと『美晴』は思った。
①
風太「おれ、美晴じゃないんです! 風太なんです! あいつと身体が入れ替わってるんだ!」
柴村先生「あらあら、それは大変ね。入れ替わった相手にも、お話を聞いてみましょう」
②
美晴「知らないよ。おれが本物の風太だ。こんな女の子は知らない」
柴村先生「そうよね。そりゃあ、そうよね」
③
風太「違う! おれが風太なんだ! あいつが美晴なんだ!」
柴村先生「そうね、そうね。病院を紹介してあげるわ」
④
風太「おれは病人じゃない! ここから出してくれー!」
美晴「さようなら。『美晴ちゃん』」
……。
考えすぎかもしれない。
しかし、さっき雪乃に真実を話そうとして失敗しているだけに、どうしても慎重になってしまう。もし強制入院なんてさせられたら、今度こそ本当に終わりだ。
『美晴』はじっくり考えてから、また首を横に振った。
「そう。それならいいのよ。でも、何か悩み事があるなら、いつでも私に相談してね?」
先生のその言葉をあまり気に留めずに、『美晴』は保健室を後にした。
*
外はすっかり日が落ちていて、校舎内でも電灯がついていない教室は真っ暗だった。
風太は、この身体の家へ帰ることにした。……というより、そうするしかなかった。今日だけは『美晴』として、美晴の家に帰るしかなかった。
(とりあえず、体操服から着替えよう……)
まずは更衣室を目指した。
3階にある女子更衣室までは問題なくたどり着いたが、そのドアを開けることには、少しだけ抵抗があった。
(この中か……!)
雪乃たち女子が、いつも着替えている場所。普通の男子なら、6年間入ることのない場所だ。
『美晴』は意を決してドアを開けたが、当然、中には誰もいなかった。
(いやいや、誰かいる方が困るけど……)
薄暗い女子更衣室の中で、美晴の私服を探す。
昼間ぶつかった時に見たので、美晴の服装は覚えている。確か、女子トイレのおばけが着ているような服だ。「学校の怪談コーデ」だ。
(もしも、トイレの個室から美晴が「うらめしやー」なんて言って出てきたら、みんなチビるだろうな。あいつ髪の毛も長いし、おばけとしての才能があるよ)
そんなくだらないことを考えながら、美晴の服を探したが……ない。更衣室の全てのロッカーを開けても、どこにも服が見当たらない。
(あれ? おかしいな)
女子更衣室の電気をパチンとつけ、もう一度よく探そうとすると……あった。ずっと探していた美晴の服が、そこに落ちていた。
(なっ……!?)
服があった場所は、更衣室の床。キレイに畳まれておらず、ぐちゃぐちゃのまま、ほったらかしで。美晴がだらしなく脱ぎ散らかした……というわけではなさそうだ。
(間違いない……! 誰かがこれをやったんだ……!)
そうとしか考えられなかった理由は、その服の惨状にあった。
チョークの粉だ。
黒板の下に溜まっているようなチョークの粉が、美晴の服にぶちまけられている。