男女入れ替わり大激戦
おデコにある傷口が開いた。
そして、そこから流れる赤い血が、『美晴』をもう引き返せない場所へと誘っていた。
「はぁー……、はぁー……、ゴホ、ゴホッ。よえー……な……。お前の……身体……」
「風太くん、早く止血してっ!」
「こんなぐらいで……涙が……出そうになってきた……。お前……よく泣く女……だっただろ……。独りで……めそめそ……泣いたりとか……さ」
「そ、それが何っ!? 何が言いたいの!? そんなことより、早く血を」
「このケンカ……! 先に泣いた方が……負けにしよう……。泣き虫女の……身体で……男のお前に……勝ってやる……!」
「……!」
『美晴』は、目元を覆う前髪の隙間から、『風太』を睨みつけた。
見た目は根暗陰キャ女子でも、その眼から放つ気迫は正真正銘、二瀬風太のもの。その威圧感に、偽物の『風太』は大きな身体を萎縮させた。
「そ、そんな、勝ち負けなんてっ! わたしっ……!」
「お前が……勝ったら……!! その……おれの身体は……好きにしろよ……」
「えっ!?」
「もう……返せなんて……言わない……。自由に……使ってくれて……構わない……」
「ほ、本当?」
「ああ……。おれが……美晴で……お前が……風太……。それで……いい……」
「じゃあ、あなたが勝ったら……!?」
「おれが……二瀬風太に……戻るために……協力しろ……! 『ノート』のこと……全部……おれに話せっ……!」
「『ノート』!? 風太くん、どこでその話をっ!?」
「へへっ……。やっぱり……何か関係が……あるんだな……?」
「あ……!」
「とにかく……、協力して……もらうぞ……。約束……だ……!」
「そ、そんなっ」
少しだけ、美晴の心は揺れた。
(もし、風太くんにケンカで勝てば……)
目の前にいる身体ボロボロでフラフラな女の子を、「泣かす」ことさえできれば、入れ替わりが永遠になる。この数日間、嬉しくて何度も鏡で見たこの肉体が、完全に自分のものになる。リスクはあるが見返りも大きく、決して悪い話じゃない。
(でも……!)
しかし『風太』は、『美晴』なんかよりもまだ冷静だった。
「ご、ごめんなさい……」
「は……? 何を言って……」
「わたし……そんな理由で、風太くんとケンカなんて、できないから……。あ、謝ることしか、できません……!」
「まだ……そんな甘いことを……!」
「あのっ、わたしはっ!!」
「……?」
「自分が『風太』になったことと同じくらい、あなたが『美晴』になってくれたことが嬉しいんですっ! その身体で、わたしができなかったことを、あなたは何でもやりとげてくれるからっ!」
「やめろ……美晴っ……!」
「物語の主人公みたいな『美晴』を、あなたはいつも見せてくれるの……。だから、イジメだって、あなたならきっと乗り越えられるって、信じてるっ! だって、あなたはわたしの」
「それ以上は、何も言うなっ……!!!」
「……!」
ばさっ。
『美晴』はそばにあった図書館の本を投げつけ、無理やり『風太』の言葉を遮った。命中こそしなかったものの、本はページを広げながら床を跳ね、『風太』はそれにビクッとして、話すのをやめた。
『美晴』にとって、今はどうしても聞きたくない言葉を、『風太』は言おうとしていたのだ。
(こいつ、また「憧れ」って言おうとしていたな……! 畜生っ、こいつの言う「憧れ」ってなんだよっ! おれは、美晴の何なんだよっ……!!)
惑わされそうになる自分に、首を振って否定する。肺に確実に空気を入れ、緩んでいく拳にグッと力を込め、いつでも「相手」を殴り倒せるように、気持ちを整える。
「相手」とは、ベッドの上で女の子座りをしている、そいつのことだ。男のクセになよなよと気色悪い座り方しているそいつを、今から泣かせてやるのだ。
「風太くん、あのねっ」
「黙って、ろっ……!!」
床を思い切り蹴って、『美晴』は跳び上がった。
今度は防御態勢をとる隙を与えずに、もう一度全身で突進する。
「あぁっ! 痛っ!!」
激突。
「早く……泣けっ……! この野郎っ……!」
二人はボフンと布団の中に沈み、ホコリを舞い上げながら滅茶苦茶に暴れた。誰が殴っているのか、誰が蹴っているのか、分からないくらいに暴れた。
ベッドはギシギシと激しく軋み、少女の荒い呼吸と少年の短い悲鳴が、布団の擦れる音と共にしばらくその部屋に響いた。そして音が止んだ時、二人の動きもやっと止まった。
「はぁっ、はぁっ、ふぅ……」
「はぁー……はぁー……、くそっ……!」
ベッドで仰向けの『美晴』と、その腹の上に乗っかった『風太』。揉みくちゃの戦いは、『風太』が制した。細い手首をがっちりと押さえつけられてしまい、『美晴』に攻撃する術はない。
「放せ……よ……。バカ美晴……」
「やだっ! 放さないっ!」
「重いんだよ……お前……。早く……どけ……」
「どかないっ!」
「じゃあ……おれを……殴れよ……。ほら、ぶん殴ってみろ……」
「そんなことしたくないっ! 『もうケンカはやめる』って、言って!!」
「くそぉ……!」
『美晴』の苛立ちは、最高潮に達した。
……まだこのケンカをやめることができると、『風太』は言っている。それは、しっかりと戦う覚悟を決めた『美晴』にとって、この上ない侮辱だった。
「げほっ、ゴホゴホッ! はぁ、はぁ、ケホッ!」
「!?」
突然、『美晴』が咳込みだした。
「ゲホッ! い、息が、できなっ、ゴホッ!」
「風太くんっ!?」
「はぁ、苦しいっ、ゴホゴホッ!」
「ご、ごめんなさいっ! ちょっと待って!」
『風太』は『美晴』の拘束を解き、マウントをとるのをやめ、さらにベッドから降りた。
「やっぱりまだ、体調が悪いんですね……!」
「みっ、美晴っ……! コホッ、コホッ!」
「なにか、わたしにできることはありますかっ!?」
「こ、こっちに……来て、ゲホッ、く……れ……! 顔を……見せて……くれ……! ゴホゴホッ……!」
「はいっ」
事態は急変した。……と、『風太』は思っていた。「今こそ、苦しんでいる風太くんを助けなきゃ!」と。この流れのまま、和解にまで持っていくことができる、と。
こちらを向いて何か伝えようとしている『美晴』に、『風太』はそっと顔を近づけた。
ゴンッ!!!
「んぐっっ!!」
頭突きが決まった。上体起こしの動きを利用した、大きな頭突きだ。
『風太』の鼻に、クリーンヒット。
「い゛っ、たぁい……!」
激痛に顔を歪ませ、鼻を押さえながら二歩三歩と後ずさりして、頭突きの発射砲台から距離をとる。ギュッとつぶった目が開かず、『風太』はまだ何が起こったのかを理解していない。
「はぁ、はぁ……やった……。やっと……まともに……一発……」
そう言うと、『美晴』はのそのそとベッドから降り、未だに苦しむ『風太』の前に立ちはだかった。
「どうだ……! お前の……頭は……固いだろ……! 必殺……『幽霊女・不意討ちヘッドロケット』だ……!」
ビシッと指をさし、今お見舞いした技の名前を、敵にプレゼントする。カッコよく決まった技に名前をつけたくなるのは、男子としてのサガだ。
『風太』はそのどうでもいいセリフを聞かずに、自分の手のひらを見て、愕然としていた。
「これは、わたしの血……!?」
鼻を押さえていた手に、べっとりと赤い血が付いている。『美晴』のおデコから流れる血が、そこに付着したわけではなさそうだ。おそらく、その出処は……。
「鼻血っ!?」
少年の鼻の穴からは、だらだらと血が流れ続け、口の周りを真っ赤に染めていた。
「風太くんの頭突きで、わたしが鼻血を……?」
「へへっ、血……じゃ……ダメだな……。涙を……流して……くれないと……」
「これは、あなたの身体なんですよ?」
「今は……関係ない……。お前に……勝てるなら……、なんでも……いい……」
「風邪は? 咳は、もう止まったんですか……?」
「バァカ……! 演技だよ……今のは……。風邪なんて……とっくに治ってる……さ……」
「……」
確認するようにポツリポツリと質問し、そして状況を全て理解した時、『風太』は『美晴』に言い放った。
「卑怯者っ!!」
「あ……?」
「だまし討ちなんて、そんなの、卑怯すぎますっ!! わたしは、本当にあなたが苦しんでいると思って……!」
「知るかよっ……! このケンカは……人生が……賭かってるって……言ったろ……!」
「あなたは、そんな卑怯なことをできる人じゃないのにっ! 無理をしてっ!」
「なんなんだよ……お前っ……! おれのことなんか……何も知らないだろっ……! ちょっと入れ替わったぐらいで……全部分かったような口……きくな……!」
「でもっ、でも、わたしの知ってる風太くんはっ!」
「おれはっ……! お前の憧れなんかじゃないっ……!!」
「!!」
絶句。
今の『風太』の状態を一言で表すならば、その言葉だった。
色鮮やかな名画のパズルがバラバラと崩れ、剥がれ落ちたピースが暗い闇へと沈んでいく。その様子をただ呆然と見ているような、そんな精神状態。
固まったままの『風太』に対し、『美晴』はさらなる追い討ちをかけようとした。
「それに……、卑怯なのは……お前も同じだろ……」
「えっ……?」
「『ごめんなさい』って……何度言った……? 何度……おれに謝った……? そう言っとけば……済むと思って……」
「ち、違うっ! わたし、そんなこと思ってないっ!」
「ウソつけ……。それで……やり過ごそうとしてた……だろ……。適当に褒めて……適当に謝れば……『風太くん』はバカだから……それで騙されると……思って……」
「やめてっ……!」
「お前も……連中と同じなんだ……! 蘇夜花たちと……同じっ……!! 6年2組は……お前も含めて……クズばっかりだ……!!」
(あっ……)
そこから先は、まさに一瞬だった。
「えっ……!?」
バチンッ!!!
『風太』が『美晴』の肩を掴み、右手を振り上げ、ほっぺたに力強い平手打ちを叩き込むまでの、一瞬。『美晴』は防御も抵抗もできずに引っ叩かれ、その勢いのまま床にドサッと崩れ落ちた。
「!??」
「はぁっ、はぁっ……」
「なっ……!? み……美晴っ……!? お前っ、いきなり……!」
「それだけは、絶対に違うっ!!!」
「は、はぁ……?」
「取り消して、今すぐっ!! 『今のは間違ってた』って!!」
「な、何を……!」
「わたしが、蘇夜花ちゃんたちと、同類のハズがないっ!! あんな人たちと、一緒にしないでっ!!」
「う、うるさいぞ……! 喚くなっ……!」
「お願いっ! 今の言葉だけは取り消してっ!! 一言だけでいいから、わたしに謝って!!!」
「……!」
『美晴』は床に倒れ込んだ姿勢のまま、チラリと『風太』の右手を見た。
(もう一発、来る……!)
大きく振り上がって、次のビンタをかます準備をしている。
激昂して我を見失っているので、行動がより分かりやすく単純になっているのだ。『美晴』の謝罪の言葉がなければ、その手は1秒もかからずに飛んでくるだろう。
(マズいな……。本気の『おれ』の一撃が来るぞ。今の美晴を止められるのは、おれの次の言葉だけ……)
『美晴』はジンジンと痛むほっぺたに手を添えながら、ゆっくりと立ち上がった。
気持ちが落ち着けば落ち着くほど、肉体の損傷が想像以上に激しいことが脳に伝わり、恐怖と絶望に包まれていく。
(でも、やっとこいつの「地雷」を見つけたんだ……! ここで引くわけにはいかないっ! ケンカ、してやるっ……!!)
瞳孔の開いたそいつを睨み据え、自分を奮い立たせるつもりで、拳をギュッと握りしめる。
「美晴……」
「風太くん……」
冷や汗を垂らし、ニヤリと不敵に笑いながら。
「本当に……蘇夜花と一緒だな……お前……。いじめる方も……クズで……いじめられる方も……同じく……クズなんだ……! クズ同士……仲良くやれよ……!」
心にもないことを言った。
「許さないっ……!!」
「かかって来い……!! お前を……倒して……、おれは……元の身体に……戻るっ……!!!」
*
────
数年前。とある日の二瀬家。
幼稚園児くらいの男の子と、その母親が、リビングで会話している。
「フウくん! 春日井のおじいちゃんとおばあちゃんのところに、ごあいさつに行くわよーっ!」
「なんで?」
「『なんで?』って、あなたねぇ。今日は春日井さん家に家族が増える日だって、前に話したでしょ?」
「そうだっけ?」
「そーよ! とっても可愛い女の子がやってくるらしいわ。フウくん、女の子好きでしょ?」
「おんなのこよりも、ちーたーとかくろひょうのほうがすき」
「もうっ! とにかく行くわよ! 『ユキノちゃん』に会いに、レッツゴー!!」
「ゆきのちゃん……??」
────
*
そして、現在。
「はぁ、はぁ……」
少女の傍らに、少年が立っている。
そして彼は、死骸のように床に横たわった少女を、見降ろしている。
立っているのは『風太』で、倒れているのが『美晴』だ。『美晴』は激闘の末、ものの見事にぶっ倒されてしまった。やはり肉体による力の差は大きく、一撃の重さが勝負を分けた。
しかし、互いにまだ涙は一滴も零していない。敗者は決定していなかった。
「もう、立たないで……」
「……」
「そのまま、動かなければ、わたしはもうあなたを殴らないから」
「……」
「さようなら。お互いに冷静になれたら、また会いましょう……。今度会ったときは、あなたが喜ぶようなお話を、聞かせてあげます」
そう言うと、『風太』は立ち去ろうとした。
ケンカの勝ち負けなど、『風太』にとってはどうでもいいことだ。今ここで、『美晴』と決別する気もなかった。しかし……。
「待て……」
「……!」
桃色のパジャマは肩まではだけ、おデコからは血を流し、髪はボサボサで、目は虚ろ。腕はだらりと垂れ下がり、脚はガクガクと震えている。
ゾンビのような姿になってもなお、少女は立ち上がった。
「わかった……ぞ……。やっ……と……」
「風太くん、おかしいよっ……!」
「今まで……ずっと……『守る』……って……、何から……? って……感じ……だった……けど……さ……」
「あなたの瞳はもう、前を見ていないのっ! 会話だって噛み合ってない……! これ以上は、本当にダメっ!!」
「お前……みたいな……やつから、守るんだ……! 雪乃をっ……!!」




