あなたの寝顔にしか聞かせられない言葉
「お、おはようございますっ、風太くんっ」
「美晴……!」
そこには、『風太』がいた。
最後に会ったのが、ちょうど一週間前の日曜日。おデコをくっつけたりしたあの日から、一度も会っていない。二人は、やっと出会えたのだ。
しかし、そこに喜びはなく、『美晴』はテンションを来客用から『風太』用へと切り替えた。
「お前、一人……か……?」
「はいっ。一人ですっ」
「何しに……来た……?」
「えっと、その……あなたの様子を見に。一応、昨日も会いに来たんですけど、その時は留守だったので」
『美晴』は、今の『風太』のセリフを聞いて、なんとなく釈然としない気持ちを抱えた。
(なんだこいつ。昨日会えなかったのは、おれのせいだって言いたいのかよ。おれはその前も、その前の日も、美晴に会おうとしたんだぞ。おれが会いたい時は、いつも会えないクセに……!)
もちろん、『風太』は嫌味を言ったわけではない。
平常なら、『美晴』もそんなささいな言葉に突っかかったりはしないが、心の奥にある苛立ちが、感情を暗い方へと刺激していた。
「昨日は……寝てたんだよ……。悪かったな……寝てばかりで……」
「そ、そんなっ! 悪くはないですよ。わたしの身体、疲れやすいですからっ」
「そうだな……。お前の……身体は……、相変わらず……不便だと……思う……」
「きょ、今日も寝てたんですかっ? パジャマ姿ですしっ」
「いや、これは……その……」
ここで、「風邪を引いてしまった」と正直に『風太』に伝えると、また面倒くさいことになるだろう。『美晴』は瞬時に察して、言いかけた言葉を変えた。
『バニーガール』のことを、そいつは知らないハズだ。わざわざ経緯を説明するのは手間だし、できれば言いたくないことでもあった。
「その通りだ……。休みの日だから……ゆっくり……寝てたんだよ……。ごほっ、ごほっ!! あっ……!」
「えっ? 咳?」
「違うっ……! むせたんだよっ……! で、他に用は……? 無いなら……もう……帰れよ……!」
「いえ、お変わりなく元気そうなら、特に用は無いですけど……。でも、せっかく来たんですし、掃除やお洗濯ぐらいは、やってから帰りますよっ!」
「あのな……。前にも……言っただろ……! それは……おれがやるから……、お前は……しなくていいって……!」
「あのっ、でも、何かわたしに伝えておきたいこととか、ありませんかっ!? 風太くんから、わたしに言いたいことはっ!?」
「言いたい……こと……?」
そんなものは、山ほどある。昨日爆発した気持ちの残骸を、全部そいつにぶつけてやりたかった。
しかし、怒りや苛立ちが恐ろしく高まっている今、それを言葉にして全部吐き出すと、きっと『風太』を深く傷つけてしまう。そう思い、『美晴』はさらに自制をかけた。
「おれの……身体を……返せ……! それしか……お前に……言うことは……ないよ……!」
「あの、本当に何もないんですか!? この数日の間に、風太くんの身には何も起こってないんですか!?」
「うるさいな……!! なんで……そんなに……おれに……話させようと……するんだよ……! おれから……何を……聞きたいんだ……!? お前……なんだか……変だぞ……!」
「変なのは、あなたの方ですよっ! まるで、さっきから何かを隠してるみたいっ!」
「あぁ……!? だいたい……なんで……こんな時に、ゲホッ!! ゴホッ!!」
「えっ? ふ、風太くん……?」
「くそっ、ゲホゲホッ! と、止まらな、ゴホッ! ゴホッ!」
感情の昂ぶりに身体が反応し、首がギュッと絞まっていく。それがさらに気管支にも影響し、肺の違和感を吐き出そうとする咳が、止まらなくなってしまった。
苦しみに耐えながら、『美晴』は玄関の壁に手をついて、うずくまってしまいそうになる身体を必死に支えた。
「はぁっ、はぁっ……ゲホッ!」
「だ、大丈夫ですかっ!?」
「やめろっ、ゴホッ! 触る、な、オエッ」
身体に触れようと近寄ってきた『風太』を、『美晴』は追い払おうとした。
しかし、病人の抵抗などに力はなく、あっさりと手首を掴まれ、異常な体温を感じ取られてしまった。
「熱い……! 風太くん、もしかして熱があるの!?」
「ゴホッゴホッ、違うっ!!」
「確か、咳止めの薬が、キッチンにあったはずですっ! ここで待っててくださいっ! わたし、すぐ持ってきますから!」
「は、入るなっ、ゲェホッ、ゲホッ! 出てけっ、か、帰れよっ!!」
声だけの制止は無視され、『風太』は家の中へと侵入してきた。
『美晴』はゲホゲホと咳込みながら、「家に入るな!」「早く出ていけ!」と、しばらく子犬のように喚き立てていたが、『風太』に無視されていることを知ると、全身の力を抜いてその場でぐったりとしていた。
*
「お薬、飲み終わりましたか?」
「ゴホッ! あぁ……苦いな、これは……」
「とにかく一度、ぐっすり眠ってください。何か話すのも、わたしを追い出そうとするのも、その後で」
「分かったよ……。お前……、ヒマなら……勝手に……帰っても……いいからな……?」
「帰る気はありません。お昼ご飯ができるころに、起こしますね」
「……」
「……」
「寝る……」
「はい。おやすみなさいっ」
『美晴』は枕にボフンと頭を置き、すぐに目をつぶって、くるりと背を向けた。
『風太』はそんな『美晴』にそっと布団を掛け、嬉しそうに微笑んだ。
「あなたが元気になれるまで、わたしが頑張りますね」
*
「ふぅ……」
戸木田家の娘としての家事を終えた『風太』が、再び『美晴』が眠っている部屋へと戻ってきた。
静かに部屋のドアを閉めた少年は、なるべく物音を立てないように気を付けながら、ベッドで熟睡している少女のそばへと近づいた。
「終わりましたよ。もう少ししたら、お昼ご飯の用意をしますからね」
「……」
呟くように話しかけてみても、すぅすぅと寝息が聞こえるだけで、返答はない。完全に、夢の中にいるようだ。
「風邪を引いたのって、一昨日の雨が原因だよね。風太くん……」
看病をするため、ベッドの横にイスを置き、眠りに堕ちた少女の顔をじっと見つめる。
「一昨日のこと、風太くんはわたしに話してくれないのかな。エアガンのこととか、奈好菜ちゃんたちのこととか、いろいろ気になってるのに……」
ここへ来た本来の目的だ。
『風太』は、蘇夜花と奈好菜がエアガンを手に入れた後のことを知らず、あの後どうなったかをずっと気にしていた。もしも、『美晴』がケガをしているなら、その手当てもするつもりで、ここへ来たのだ。
「でも、あの場にいなかったハズのわたしから、話を切り出すわけにもいかないし……」
エアガン受け渡しの現場を目撃したが、怖くなって逃げだした。でも、続きが気になるから、その後の様子を教えてほしい。……などと、『美晴』に言えるハズがない。今でさえ気が立っているのに、火に油を注ぐようなものだ。
「はぁ……。イジメを受けるたびに、風太くんのわたしへの恨みは、深くなっていくのかな。イジメが続く限りずっと、わたしを恨んで、恨み続けて……」
膝に置かれた『風太』の両手が、ズボンをギュッと掴む。
「『おれはお前なんかになりたくなかった』、って言われるのは、本当はとっても辛いけど、でも、わたしにそんなこと言う権利はないしっ……! これも乗り越えないと、わたしはまた、最悪な人生に逆戻りだから……!」
『風太』の独白も、眠っている『美晴』の耳に届くことはない。
「ねぇ、風太くん……? もしあなたが『美晴』じゃなくて、例えば、あなたの好きな……大好きな『雪乃ちゃん』だったら、その身体で生きることも受け入れてくれた? 入れ替わったのがわたしじゃなくて、雪乃ちゃんだったら、少なくとも今よりは幸せだった……?」
問いかけに返答はなく、『風太』自身も返答に期待をしていなかった。
そして『風太』は、また小さく溜息をつき、手に込めた力をフッと抜いた。
「……なんて、起きているあなたに伝える勇気すら、わたしにはありません。入れ替わったのが、雪乃ちゃんみたいに可愛くもないわたしで、ごめんなさい」
『風太』はイスから立ち上がり、静かに部屋を出て、キッチンへと向かった。
*
時刻は12:00。日曜日の正午。
『美晴』が眠る部屋に戻ってきた『風太』の手には、ささやかな「お昼ご飯」があった。
「風邪を引いた時は、こういうものがいいよね。きっと、まだ食欲はないだろうしっ」
お盆の上に、お皿が二つ。『風太』が昼食に用意したのは、リンゴだった。食べやすいように、ウサギの形にカットされ、爪楊枝が刺さっている。
「風太くん、起きてますか?」
お盆を学習机の上に置き、ベッドにいる『美晴』の様子を窺う。
「……」
すぅすぅと、相変わらず。体勢は先ほどとは少し違うものの、未だにぐっすりと眠っていた。
「病気よりも、疲労が酷いのかな? 昨日もずっと、ここで寝てたらしいし。明日の学校はどうするのかな、風太くん……」
ひとりごとを言いながら、『美晴』が寝返りを打った時にめくった布団を、丁寧に掛け直してあげたところで、『風太』はふと、動きを止めた。
「自分の寝顔、初めて見るかも。わたし、いつもこんな顔して寝てるんだ」
手を止めたまま、後ろを振り返って、鏡を見る。
当然そこには、ベッドで静かに眠っている少女に、優しく布団を掛けてあげている少年が映っている。
「なんだか、不思議な感じ。『美晴』のそばに『風太くん』がいるけど、本当は風太くんのそばに美晴がいる、なんて……」
鏡を見るのをやめ、再び『美晴』の寝顔を覗き込む。
「こんな風に入れ替わったりしなかったら、ここまで近づけることもなかったよね。ずっと憧れたまま、ガラス越しのまま、一言もまともに会話することなく、終わってた……」
少年の右手は、無意識のうちに、少女のキレイな黒髪を撫でていた。
「ずっと、この入れ替わりが続けばいいのにって、思っちゃダメなのかな。風太くんになったわたしも、わたしになった風太くんも、二人だけのヒミツを共有できるこの時間も……全部、終わってほしくないのに」
「うっ……。ん……?」
さっきから髪を弄られ続けて、ついに『美晴』は目を覚ました。
しかし『風太』はそれに気付かず、ウットリとした表情を浮かべたまま、今度は力の入っていない『美晴』の左手を、両手で包み込んだ。そして、瞳をスッと閉じ、祈るように言葉を紡いだ。
「風邪、早く治るといいね。もしかしたら、前みたいにわたしとおデコをくっつけてみれば、治りが早くなるのかもしれないけど……」
「えっ……? 美晴……?」
「ごめんね、風太くん。わたし、すっごく怖がりだから、自分から動く勇気がないの。だからね、お姫様をエスコートするみたいに、あなたが手を引いてくれれば……わたしはきっと、あなたから勇気をもらって」
勝手に手を包まれた『美晴』は、思わず叫んだ。
「うっ、うわあああああああ……!!!!! み、美晴っ!! 何してるんだ、お前ぇっ!!!!」
「えっ?」
顔を上げた『風太』の目前には、恥ずかしさか怒りからか、とにかく顔を真っ赤にした寝起きの『美晴』がいた。
「ひゃっ、あっ、きゃあああっ!!!!」
『風太』の脳の回路は、フル回転した後ショートし、小さな破裂音と共に爆発した。
「あばっ、アッ、風っ、おはようございますっ!! あのっ、これは、違うんですっ! ね、寝てると思ってたからっ、こ、これは、わたしのひとりごとでっ!」
「手っ、手を握るなっ……! まず、放せよっ……!」
「はいっ! 放しますっ! すみません、すみませんっ!! ごめんなさいっ! あの、り、リンゴありますっ! リンゴ食べてっ! 早く元気に、あの、その、間違いで、すいませんでしたっ!!!」
ドタドタドタ、バタンっ!
ペコペコと頭を下げながら、『風太』は扉の向こうへと消えた。
「な……なんだったんだ……? あいつ……さっきの……」
ワケが分からないまま、『美晴』はのそのそとベッドから降り、渇いた喉を潤すために、机の上にあったウサギリンゴを一つ、口へと運んだ。
「あ……。これ……おいしいな……。美晴が……用意して……くれた……のか……」
*
リンゴが乗った皿と食べ終わった皿を盆にのせ、『美晴』はキッチンへとやってきた。
一眠りしたおかげか、顔色は先程より幾分かマシになっている。
「おい……美晴……、何……やってるんだ……?」
「お、お昼ご飯を……!」
「食パン……食べたのか……。この……リンゴは……食べない……のか……?」
「い、いただきますっ。ここに置いておいてくださいっ」
「おれの……身体……だから、たくさん……食べないと……腹が……減る……だろ。ちゃんと……食べとけ……よ……」
「はい。大丈夫ですっ」
「じゃあ……、おれ……もう少し……寝てくる……。今日一日で……風邪を……治して……しまいたい……しな」
「……」
去り際に一言。
『美晴』は振り返り、『風太』の背中を見て、言おうとした。
「あのさ、お前……さっき……」
「言わないでっ! さっきのは、見なかったことにしてくださいっ! お願いしますっ!」
「ああ……。うん……。分かった……」
遮られ、『美晴』はそれ以上何も言わずに、部屋へと戻った。
*
「いや……これじゃあ……ダメだ……」
枕を背もたれ代わりにして、『美晴』はベッドの上で座っていた。
横になるわけでもなく、悔しそうに自分の身体を見下ろしている。
(だから嫌だったんだ。あいつの世話になるのは)
優しい『風太』が、身を尽くして看病してくれたおかげで、『美晴』はずいぶん心が穏やかになってしまった。
あいつは、身体を奪いやがった敵なのに、あいつに対する恨みがどんどん弱くなっていく。それが嫌だった。
(はっきり言ってやろうと思ったのに。「お前のせいで、おれはひどい目にあった」って)
しかし、心はどんどん冷静になっていく。
(今はなんだか、あいつへの悪口とか、そういうのが、上手く出てこない……。ダメだ、ダメだ! どうしても、美晴のことを傷つけたくないって気持ちが出てくる……!)
顔を上げ、何もない空間を見つめて、『美晴』はぼんやりと考えを巡らせた。
(でもやっぱり、奈好菜や『バニーガール』のことは、美晴に言わないでおこう。おれが受けたイジメの話なんてしても、美晴は元に戻る気をなくすだけだろうしな。それは一旦忘れて、元に戻る方法……「ノート」について、美晴に聞いてみよう)
ガチャリ。
タイミングとしてはばっちりと言うべきか、『風太』が部屋へと入ってきた。向こうも落ち着いた様子で、右手には何かをもっている。
「風太くん?」
「美晴……か……? 何か用……か……?」
「眠ってしまう前に、これをどうぞ。た、体温計ですっ」
「ああ……、悪いな……。ありがとう……」
また『風太』の優しさに触れ、『美晴』の気持ちは穏やかになった。
(やっぱり美晴は、悪いやつじゃない。蘇夜花にいじめられたせいで、美晴もちょっとおかしくなってただけだ。おれが元に戻るために必要なのは、美晴と正面から向き合うこと……なのかも)
ほんの少し、これからの見通しが良くなった気がして、『美晴』は自然に笑みを浮かべていた。
(大丈夫。美晴はおれの敵じゃない)
体温計を受け取り、パジャマのボタンを開けて、襟を開く。体温計を脇に挟む準備はできた。
熱を計りながら、今考えていたことを『風太』に話そうとしたところで、先に『風太』の方から声をかけてきた。
「あの、風太くん? それは、どうしたんですか?」
「えっ……? なんだ……?」
『風太』が指差したのは、『美晴』の鎖骨の下あたりだ。ちょうどそこには、赤黒い血豆ができていた。
「あっ……!」
一瞬で、察しが付いた。この血豆は「一昨日、エアガンで撃たれた痕だ」と。
『美晴』はすぐに襟をグッと引っ張り、『風太』に見られないように隠した。が……。
「今の……もしかして、ケガですか?」
見られてしまっていた。
「ち、違うっ……! これは……その……!」
「見せてください。それ、以前はなかったケガですよね?」
「は、はぁ……? ケガじゃないよ……! 別に……痛みとか……も……ないし……!」
「ウソ! あんなもので撃たれて、なんともないハズがないっ!」
「あんなもの……?」
言葉の違和感に、『美晴』の動きが止まった。
「だから、エアガンをあなたに向けて撃ったから……!」
「どうして……おれが……エアガンで……撃たれたこと……知ってるんだ……? おれ……美晴には……話してない……のに……」
「あっ!」
『風太』は、慌てて両手で口をサッと塞いだが、時すでに遅く、覆水は盆に返らなかった。
「まさか……お前……見てた……のか……? 一昨日の……『刑』を……全部……!」
火がついた。




