クッキーがない!
キンコーン。
滞ることなく時間は流れ、4時間目までの授業が終わった。次は、給食と昼休みの時間だ。
(今朝のおむつは、ゴミ箱に捨ててやったけど……。あれ以降、奈好菜から何か仕掛けてくることはないな)
昨日と同じように一人で給食を食べ、昨日と同じように給食を半分近く残した。
何も変わらない日々のように見えて、実際は僅かながら変わり始めている。『美晴』は少し嬉しくなって、机の中からクッキーをこっそり取り出した。
(これが希望だ。ここから、変わっていくんだ……!)
ポジティブな確信をして、また遠くにいる奈好菜の方を振り向いた。
向こうもこちらを見ていたらしく、一瞬だけ目が合うと、奈好菜はあからさまに視線をそらした。
それを見た『美晴』は、満足げにフッと笑い、クッキーを机の中にしまった。
(よし。そろそろ美晴を探しに行くか)
食べるのが遅いせいで、昼休みの残り時間はあと10分ほど。この機会を逃すと、後はもう放課後しかない。
『美晴』は「二瀬風太が昼休みに行きがちな場所」を中心に、もう一度捜索してみようと決心して、立ち上がった。ただ……残念ながら、その「場所」の中に、ウサギ小屋は入っていなかった。
「へぇ……」
そして、ポニーテールの少女は、『美晴』と奈好菜の様子を、静かに眺めていた。
*
キンコーン。
昼休みが終わり、5時間目が始まった。
『美晴』が在籍している6年2組の隣には、『風太』が在籍している6年1組がある。6年1組の5時間目の教科は、国語。
「じゃあ、第一段落を宙くん。第二段落を実穂さんに読んでもらいましょうか。はい、立って」
いつものように、6年1組担任の森鍋先生は、教科書を持って教室内を巡視し、挙手をした生徒に音読指名をしている。
そんななかで、おしゃべりがしたくなった雪乃は、隣に座っている『風太』に、ヒソヒソと小声で話しかけた。
「今日もウサギ可愛かったね。風太くん」
「うん。大三元で、ウサギたちと自由にふれあえることを教えてくれた緩美ちゃ……緩美には、感謝してるよ。もちろん、誘ってくれた雪乃にもね」
「えへへっ」
「ところで、大三元って、いつからこの学校にあるの? わたしたち……お、おれたちが入学したころは、なかったよね?」
「えーっと、確か去年だったと思うよ。『小三元』がもうボロボロだって、ウワサになったのが二年ぐらい前だし」
「『小三元』?」
「うん。体育館の裏の、さらに奥へ行ったところに、まだあるハズだよ。空っぽのウサギ小屋が。それが『小三元』」
「つまり、古くなって現在は使われていない、もう一つのウサギ小屋があるってこと?」
「そうそう、そういうこと。あんまり人が通らなくて、日当たりも悪い場所に建ってるから、『小三元』はちょっぴり不気味なの。そんなところに閉じ込めるなんて、ウサギちゃんたちがかわいそうだから、大三元が新しく建てられたってワケ」
と、雪乃がそこまで言ったところで、突然、森鍋先生が叫んだ。
「ふぅうた(風太)くんっ! ゆぅきの(雪乃)さんっ! 授業中におしゃべりはいけませんっ!!」
「「は、はいっ!」」
見つかってしまった。
先生の、九官鳥みたいなかん高い声に反応して、周りの生徒たちはクスクスと笑った。
怒られている『風太』と雪乃は、必死に申し訳なさそうな顔を作ったが、そんな小細工で先生の気は収まらなかった。
「いいでしょう。第三段落を風太くん、第四段落を雪乃さんに読んでもらいます」
「「そんなっ……!」」
「ええい、問答無用ですよ! ほら、風太くんお立ちなさいっ! すぐお立ちなさいっ!」
森鍋先生に急かされ、『風太』は国語の教科書を持って立ち上がった。
笑い声が止んで静かになった教室の中で、現在クラスメートの注目は、『風太』に集まっている。
(みんな、わたしを見てるっ……! 緊張しちゃう……。うまくできるかな……)
『風太』が戸木田美晴だったころは、教科書の音読の指名を受けることなど、ほとんどなかった。
授業中に挙手はまずしないし、友達がいないので、私語の罰でやらされるという経験もない。そして先生側も、戸木田が言葉を話さない系の女子であることは、ある程度承知していた。
(声は……出せる……)
元の身体なら、こういう場面では、勝手に首が絞まって息をするのも苦しくなってしまうのだが、今は身体が入れ替わっているので、そのような異変は起きない。
(大丈夫、落ち着いて。わたしは今、男の子だから……風太くんだから、目立っても気にしなくていいの。緊張もしないし、声を出すことだって簡単にできる……!)
自分にそう言い聞かせ、喉の調子を確かめる。
「お、オホン。あ、あ、あー」
「準備はいいですね? では、六二ページの第三段落から、おぉ願いしますっっ!」
「よしっ!」
『美晴』は、いつも図書館で藤丸に絵本の読み聞かせをしている時のように、優しく感情のこもった声で、教科書の音読を始めた。
「──『陽子はペットショップに行き、クワガタを見つけると、お母さんに向かって大声で叫びました。「お母さん! 私、あれ欲しい!」「陽子、ハムスターを買いに来たんじゃなかったの?」』──」
*
第三段落が終わった。
読み終わった少年は、教科書を机に置き、二瀬風太の席に腰を降ろした。
彼の横には、先ほどとは全く違いニコニコと笑顔を浮かべた、森鍋先生がいた。
「いぃですねぇ! 素晴らしいっ! みなさん、風太くんに惜しみない拍手をぉ!」
ぱちぱちぱちぱち……。
森鍋先生はこのように、感動を与えたり素晴らしい結果を出した生徒に、クラス全員で拍手をさせる癖がある。それが、たかが国語の教科書の音読であっても。
「え? え、え!?」
教科書の中の物語に夢中になっていた『風太』は、ふと我に返って、周囲を見回した。森鍋先生の言った通りに、みんなこちらに笑顔と惜しみない拍手を送っている。
困ったような恥ずかしいような顔をしている『風太』に、一つ前の席に座っている健也が、後ろを向いて声をかけた。
「ははっ。風太、なんだそれ」
「わ、わたし、何か変だった? 一生懸命やったつもりなんだけど……」
「『わたし』?」
「あ! いや、お、『おれ』っ!」
「無意識にやってたのか? 今の音読」
「夢中……だったからっ……」
「へぇ。じゃあ、これからは今みたいに夢中になってくれよ。保育園の先生みたいで、面白い読み聞かせだったぜ」
「ほ、保育園の先生っ!?」
その後も、雪乃やクラスの友達は、『風太』の音読を褒めたりからかったりしたが、何を言われても『風太』は顔を赤くしてずっと下を向いていた。もちろん恥ずかしさはあったのだが、その中に不快な気持ちは全くなかった。
(上手くいったんだよね? みんな、わたしの音読を褒めてくれてるし。……えへへ、嬉しいな)
みんなからの注目がなくなった後、『風太』は胸に両手を重ねて、うつむいたまま小さく微笑んだ。
*
キンコーン。
ところ変わって、こちらは6年2組。
掃除と帰りのホームルームも終わったので、生徒たちは帰宅を始めていた。
週末の予定をワイワイと話し合う騒がしい教室の中で、『美晴』は一人、焦っていた。
(ない! ないぞ!? クッキーが、どこにもないっ!!)
机の中には、ない。
ランドセルの中にも、ない。
何度念入りに探しても、奈好菜からもらったクッキーが見当たらない。立ち上がり、机の周りの床を探すが、見える範囲には落ちていなかった。
『美晴』がどうしようかと悩んでいると、そいつは実にマヌケなあいさつをしながらやってきた。
「やっほー、美晴ちゃん。元気?」
「蘇夜花……!」
ポニーテールの少女は、ニヤニヤと怪しく笑っている。
「ダメだよ。学校にお菓子なんて持って来ちゃ」
「お前の……仕業……か……!」
「ひどいなぁ、仕業だなんて。もっと落ち着いて話をしようよ」
「うるさい……! くだらない……こと……するなよ……! さっさと……クッキーを……おれに……返せ……!」
「あれ? わたしに、そんな口をきいていいの?」
「は……?」
「先生に言っちゃお。『美晴ちゃんが、学校にお菓子を持ってきてます』って。証拠もあるし」
「……!!」
クッキーを持っていることが、もし先生にバレたら、おそらく好意的な受け取り方はしてもらえないだろう。
「チッ……。ど……どうすれば……いいんだよ……」
「んー? まずは言葉遣いから、かな?」
「どうすれば……いいんです……か……?」
「ふふふ、あんまり調子に乗らないでね。ほら、1個だけ返してあげる」
「!?」
蘇夜花は突然、袋に入っていない直のままのクッキーを1つ、『美晴』に向かって放り投げた。
そして『美晴』は、驚きながらも上手くそれをキャッチした。
「おー、ナイスキャッチ」
「他の……も……返して……下さい……!」
「まだダメ。まずは、そのクッキーを処理した方がいいんじゃない?」
「え……? 処理……?」
「うん! 美晴ちゃんがクッキーを持ってると、先生に言っちゃいたくなるんだよね。わたし」
「なっ……!?」
「まずは証拠写真を撮りまーす」
「わっ……! や……やめろっ……!」
蘇夜花はスマートフォンをサッと取り出し、『美晴』にカメラを向けた。
いきなり被写体にされた『美晴』は、白いパウダーがかかった四角いクッキーを、慌てて口の中へと「処理」した。
「うっ……! むぐっ、ゴクリ……」
「あーあー、のどに詰まっちゃうよ。噛まなきゃ」
「はぁ……はぁ……」
「面白いね、美晴ちゃんは。口に入れずに、窓の外にでも捨てれば良かったのに」
「そんな……こと……できるかよ……! このクッキーは……!」
「このクッキーは?」
「と、とにかく……大事なもの……なんだ……!」
「へぇ、そうなの? じゃあ、残りのクッキーも大事?」
「当たり前……だろ……! だから……返せ……!」
何の迫力もない可愛い声で『美晴』が凄むと、蘇夜花は納得したようにニッコリと笑い頷いた。
「もちろん返すよ。ここにはないけど」
「はぁ……!?」
「探してみてね。隠しちゃったから」
「ふざけんなっ……!」
「おっと、わたしに怒りをぶつけてるヒマは無いよ。急がないと」
「な……何を言って……」
「クッキーは、校舎の外に隠したんだ。今は下校時間だし、誰かが先に見つけちゃうかな? それとも、鳥や虫に食べられちゃうかも? そろそろ雨も降ってきそうだし、急いだ方がいいよ」
「バカ野郎っ……!」
一言ぶつけたものの、これ以上罵倒の言葉を並べているヒマはない。
『美晴』はフレアスカートを翻えしながら、荷物も持たずに教室の外へと全力で駆け出した。
去っていく『美晴』を眺めた後、蘇夜花はスマートフォンで誰かに電話をかけた。
「そっちも準備は大丈夫? じゃあ、新しい刑『バニーガール』を始めるよ」




