再会の保健室
『二瀬風太』が『美晴』の顔を、不思議そうに覗き込んでいる。
「……」
「……」
お互いに一言もしゃべらず、見つめ合っている。大きく見開いた目で、『美晴』は『風太』をじっと見ている。そして『風太』も、『美晴』をじっと見ている。
しばらくの沈黙の後、『風太』は無言のまま、『美晴』の長い前髪にそっと触れた。右手の指で優しくかき分け、おデコを露出させようとしている。
そこには、痛々しい傷痕がある。
「……っ!」
ビクッと、『美晴』の身体が反応した。『風太』が指でなぞるように、その傷痕に触れたのだ。
(痛ってぇ……!)
『美晴』が眉間にシワを寄せると、目の前の『風太』は驚いて、伸ばしていた手をサッと引っ込めた。
『美晴』は少しイラつき、静かに身体を起こした。そして、『風太』の頭からつま先までを、にらみつけながら確認した。
(こいつが、風太……)
さっきまでの自分。男子の体操服を着た、二瀬風太が立っている。
しかし、こちらこそが本物の風太だ。
(いや、風太はおれだ。誰がなんと言おうと、おれが二瀬風太なんだ。こいつは偽物だ。ニセ風太め……!)
言いたいことはたくさんあったが、上手く声を出すことができない。そうしてるうちに、『美晴』よりも先に、ニセ風太が口を開いた。
「風太くん……ですか?」
「……!」
『美晴』は「そうだ。おれが風太だぞ」と言わんばかりに、小さく首を縦に振った。
ニセ風太は、本物の風太が美晴の姿になっていることを知っている。前髪で隠れたおデコに、傷痕があることも知っている。
(つまり、このニセ風太の正体は……)
予感は的中した。
「わ、わたし……美晴ですっ」
風太の姿、風太の声で、そいつは美晴だと名乗った。さっきぶつかった時とは違い、ハッキリと聞こえるように言葉を話している。
これで、美晴の身体には風太の心が、風太の身体には美晴の心が入っていると、証明された。
「わ、わたしのこと、覚えてますっ? さ、さっき、廊下でぶつかって。えっと、し、しゃべったことは、ありませんけどっ」
『風太』は、どこかしゃべり慣れていないような感じで、少し早口になったり、大声になったりした。
『美晴』が上手く言葉を話せないことを知っているのか、『風太』は無言の間を埋めるかのように、さらに一方的に話した。
「わたしと、ふ、風太くんの身体が、入れ替わってるんです、ね」
「わたしは、目が覚めたら、そこのベッドに、い、いたんですっ!」
「さっきべ、ベッドから抜け出して、トイレの鏡で、じっ自分の身体を見たら、あ、あなたになっててっ」
「そ、それでっ! 戻ってきたら、わたしが、いえ、今は風太くんが、ここで寝ててっ」
話しかけてくる『風太』を見て、『美晴』は「うわ……」と顔をしかめた。
女っぽい言葉遣いといい、モジモジした仕草といい、まるでオネエ系タレントだ。オネエになった自分を、目の前で見せつけられている。
(おい、やめろよ! ほっぺたに手を添えるな! こんなところ、誰かに見られたらどうするんだ!)
心の中で大騒ぎしながら、『美晴』はそいつに対して、違和感を覚えていた。
突然、赤の他人と入れ替わってしまったという非常事態のハズなのに、『風太』からはあまり焦りや不安を感じない。やけにあっさりとこの状況を受け入れてるような、不自然な態度だ。
「ど、どうすればいいのかなっ? わたしたち」
『風太』は言葉の最後に、『美晴』に尋ねた。
しかし、「どうすればいいか」なんて決まっている。答えは一つだ。『美晴』は息を吸って、言葉をひねり出した。
「元の……身体に……、戻りたいっ……!」
それを聞いた『風太』は、一瞬ハッとして、少し悲しそうにうつむいた。
「そ、そうですよね。元に戻らないとダメですよね……」
これもまた、『美晴』が予想していなかった、おかしな反応だ。
(元の自分に戻りたいと思うのが、普通じゃないのか? 美晴だって、突然おれと入れ替わって困ってるハズだろ……?)
なんとなく、噛み合わない。
「美晴……は……?」
『美晴』がそう言いかけたところで、保健室の入り口からパタパタと誰かが入ってくる音がした。
「あっ! ま、またあとでっ」
『風太』はヒソヒソ声でそう囁くと、『美晴』のベッドのカーテンを手早く閉め、こっそりと自分のベッドへと戻っていった。
*
「先生、早く来てっ!」
雪乃の声だ。せわしなく保健室に入ってきたのは、雪乃だった。校医の先生を引き連れてやってきた。
「春日井雪乃さんっ、ちょっと待って」
校医の柴村先生だ。性別は女性。
二人の足音は、まず『美晴』が寝ているベッドへと近づいてきた。
「ほら、ここだよ!」
雪乃が、勢いよくベッドのカーテンを開けた。
続いて、その後方にいる柴村先生が保健室の戸棚を開け、そこから何かを取り出した。
「とりあえず、熱があるかどうかをみましょうか。春日井さん、これを渡してあげて」
そうして雪乃が受け取った物は、体温計だった。ごく一般的な、脇に挟むタイプのものだ。
「おはよう、美晴ちゃん。ピピッって音が鳴るまで、挟んでおいてね」
雪乃は体温計を『美晴』に手渡すと、ベッドのカーテンを勢いよく閉めた。
さすがに熱はないかなと思いつつも、『美晴』は雪乃に言われるがまま、体操服の臙脂色の襟を引っ張り、ひんやりと冷たい体温計を脇へ挟もうとした。
「あ……」
そこでようやく、『美晴』は自分の胸に何かが巻かれていることに気がついた。サポーターのような、コルセットのような、布でできた何か。
(これ、まさか美晴の……)
だいたいの察しがつくと同時に、風太はあまり自分の胸を見すぎないように、顔を上げた。
(あ、あれか……?)
エロだ。
しかし、エロはダメだということは、風太も分かっていた。男子がこういう物を見ようとすると、女子からの好感度が下がると言われている。例えば雪乃なんかは、男子の下ネタやエロい考えなどが大っ嫌いだ。
周囲のカーテンは閉まっているので、雪乃や『風太』にその様子を見られることはないが、『美晴』は襟元をしっかり押さえながら、きょろきょろと左右を見回した。そして、意識すればするほど気になってしまうので、『美晴』はこれについては一旦忘れることにした。
(ふぅ……。何も見てない、何も見てない)
頭を切り替え、体温計がピピッと鳴るのを静かに待っていると、カーテンの外から雪乃の騒ぐ声が聞こえてきた。
「あっ! 柴村先生、風太くんってここにいるんだよねっ!?」
「フウタくん? ああ、二瀬風太くんね。そっちのベッドで休んでるはずよ」
「ほんとっ!? ちょっと見てきてもいい?」
「そうねぇ。じゃあ、起きてるかどうかを確認してきてくれる? もし起きてたら、体温計を渡してあげて。もし寝てたら、そのまま静かに寝かせてあげてね」
「はーいっ!」
『美晴』がいる場所からはカーテンで見えないが、話し声は届いてくる。
「風太くんっ! 起きてるー?」
向こうのベッドの、カーテンが開く音がした。
「あーっ! 起きてるーっ!!」
「え、えっと、その……」
「どーしたの? わたしが分かる? ほら、この顔だよーっ! やわらかほっぺの雪乃だよー」
「あの……こんにちは」
おそらく、あの二人にも面識はない。
「風太くん、ひょっとして記憶喪失? こんにちはって、おかしくない?」
「えっ、いや、そのっ! ごめんなさいっ、雪乃ちゃん」
「なーんか、しゃべり方も変じゃない? わたしのこと、雪乃『ちゃん』って」
「あっ……! ち、違うよ。雪乃」
「あーっ! 分かった!!」
「えぇっ!? な、なにがっ?」
「わたしの本、返すの忘れたから、悪いと思ってるんでしょ? だから、記憶喪失のふりしてるんだ!」
「本……? 何の話?」
「いいよ、気にしなくて。体調が悪かったんだね。無理させてごめんね」
「う、うん……」
『風太』は雪乃に詰め寄られたが、なんとか上手くごまかしているようだ。
確かに今の『風太』が、「わたしは実は美晴なんです」なんて言っても、信じてはもらえない。雪乃や柴村先生を混乱させないためにも、今は身体に合わせた演技をした方がいい……ハズ。
「はい、これ! 風太くんも!」
「体温計……?」
「ピピッって、音がなったら終了ねっ。はい、よーいドンっ」
「え? 雪乃?」
「風太くんが不正をしないように、わたしが見張ってまーすっ」
「体温計で、不正……?」
『風太』の困惑をよそに、雪乃はなんだか嬉しそうに話をしている。意識的に差を付けているわけではないのだろうが、今の雪乃の声はさっきより少し高く、そして大きい。
(そいつはおれじゃない。美晴なんだ。お前が心配してくれている「風太」は、おれなんだよ……!)
そんな想いが、伝わるはずもなく。『美晴』はとても惨めな気持ちになり、疎外感を強く感じていた。
右手で襟元をぎゅっと掴み、自分に言い聞かせる。
(いや、大丈夫だ。身体さえ元に戻れば、雪乃はおれを間違わない。身体さえ……元に戻れば……)
ピピッという音を聞き、『美晴』は体温計を脇から取り出した。それと同時くらいに、向こうのベッドでも『風太』が計り終わった。
「よし、OK! 風太くん、体温計貸して!」
「はい……」
「36.6……かな。うん! これなら先生も、家に帰っていいよって言ってくれるよ!」
「えっ!? か、帰るのっ!?」
「そうだよ? もしかして、まだここのベッドで寝るつもりー? 健康な人は、帰らなきゃダメだよ」
雪乃はそう言ったが、まだ帰るわけにはいかないだろう。と、『美晴』は思っていた。
(まずは元に戻らないとな。美晴だって、自分の身体をおれに預けたまま帰るなんて、絶対に嫌だろうし……。とにかく、雪乃を先に帰らせて、またこっちへ来てくれないかな)
まだまだ話し合いが必要だ。今は雪乃の相手をしている場合じゃない。と、『美晴』は思っていた。
が……。
「い、いや……。帰るよ」
「じゃあ、一緒に帰ろっ! 風太くんっ!」
「うんっ。帰ろう」
想定外の返答に、『美晴』は慌てた。
(は……!? 帰る!? 美晴が、おれの家に!? そんなの、どう考えてもおかしいだろっ! だって、そんな……身体が入れ替わってるんだぞ!? この状況をおかしいと思ってないのかよっ! このまま帰れるわけないだろっ!?)
嫌なイメージが、次から次へと頭に湧いてくる。
(まさか……。あいつ、元に戻る気がないのか!? このまま、風太になるつもりなのか!?)
最悪の展開。
「ダメ……だ……!」
か細い声でそう呟くと、『美晴』はベッドから降りて、爪先を雪乃たちがいる方へと向けた。