男児のプライド
「……!」
カチャカチャと音を立てながら、『美晴』は自分の足首にかけられている手錠を外した。
身体を動かすたびに、パンツを重くしている液体が、トイレの床にポトポトとこぼれた。
「くっ……!」
自分の身に起きたことが、未だに信じられなかった。
小学6年生にもなって、しかも急に他人の……女子の身体になって、その子の代わりにいじめられて、その子のパンツを浸してしまうなんて、まともに理解できるはずがなかった。
「……っ!」
しかし現実には、確かな感覚がある。太ももの辺りはびっしょりと濡れていて、不快に思わせてくれている。
『美晴』はすぐさまトイレットペーパーを手に取り、パンツをはいたまま、特にひどく湿っているところの水分を吸わせた。
そして鏡の前に立ち、現在の自分の状況を確認した。
「はぁ……はぁ……」
『美晴』がいる。鏡に映る風太は、いつも美晴だ。
胸元はびしょびしょに濡れ、着けているブラジャーの水玉模様が、うっすらと透けていた。鏡の中の美晴は悲痛な表情を浮かべていて、今にも泣き出しそうだった。
『美晴』は、今自分がはいているフリルスカートの裾をつまんで、恐る恐るめくり上げた。
「あぁっ……!」
そこには、ブラジャーと同じく白地に青い水玉模様の、パンツがあった。しかしよく見ると、股の間の辺りから色が変わっている。
『美晴』がそれを呆然と眺めていると、そこから一滴、汚いしずくが落ちた。
「うわっ……!?」
悲惨な自分の姿を見ていられなくなって、スカートの裾を伸ばして引っ張り、ぐっしょりと濡れているパンツを隠した。
しかし、もう目で見なくても、何が起こったのかは臭いで伝わってくる。『美晴』は男子としてこの上ない辱めに傷心し、苦悶の表情を浮かべた。
(こんな姿、誰にも見られたくないっ……!)
*
放課後の校舎内には、夕陽が差し込んでいる。
下校ラッシュのピークは過ぎたものの、まだ校舎内には何人かの生徒が残っており、帰宅の準備をしていた。
そんな月野内小学校の1階に、「陸に上がった人魚」が現れた。
陰気なオーラを纏って女子トイレからのっそり出てくるその姿は、まるで幽霊や妖怪のようだ。
(なるべく、人がいない道を選ぼう……)
スカートを引っ張ってパンツを隠し、太ももを擦り合わせるようにして、一歩ずつゆっくりと歩く。かなり不自然な足の運び方をしているので、「陸に上がった人魚」は一層不気味な怪異に仕上がっていた。
数歩進んでは、不安になって後ろを振り返る。
(しずく、落ちてないよな……?)
太ももをギュッと締めて、万が一にもしずくがポタポタ垂れ落ちないように、細心の注意を払う。
すると、そこへ……。
「ぼくんちはねぇ、ゴールデンウィークは、ハワイにいくんだー」
「いいなー。おれに、おみやげかってきてよ」
前方から、ランドセルを背負った低学年の男の子が、二人並んで歩いてきた。何やらぺちゃくちゃと、夢中で会話をしている。
どうやら、近くにいる6年生のお姉さんには、まだ気付いていないようだ。
(お、落ち着けっ! 自然に、すれ違うだけだ……!)
『美晴』は両手を体の横につけ、脚を少しだけ開いた。不気味さを消し、自然体でいることを強く意識した姿勢だ。
緊張して、心臓がバクバクと鳴る。一筋の冷や汗が、ほっぺたを伝う。
眼前の男の子たちは、そばに立つ『美晴』に興味を持つことなく、楽しそうに話し合っている。そして……。
(ふぅ……。通り過ぎた……)
しかし。
「あれ? なんかへんなニオイしない?」
『美晴』の背後で、並んだ二人のうちの片方の子が、突然、会話を打ち切ってポツリと言った。
「……!!」
『美晴』の足は止まり、全身が凍ったように動かなくなった。
あの子たちに気付かれてしまったかもしれないと考えると、指先の一つですら、動かすことができない。
「ニオイ? うーん。おれ、はながつまってるから、わかんないや」
「なんのニオイだろう、これ……。スンスン」
彼らは二、三度ほど鼻を動かし、悪臭の元を探している。
それにより、発臭源の『美晴』は、ガチガチに固まったまま下手に動くことが出来なくなってしまった。
「はぁっ……はぁっ……」
恥ずかしさのあまり、呼吸が速くなっていく。 眉はハの字になり、顔はどんどん真っ赤になって、『美晴』の体温は平熱を軽く超えてしまっていた。
(ああっ、やめてくれっ! 早くどこかへ行ってくれ……!)
どうすることもできずに、両目をギュッとつぶって願うしかなかった。
*
願いが届いたのか、男の子たちは何も気付かずに通り過ぎていった。
「……」
そして現在、『美晴』は階段の前に立っている。これを3階まで昇って、6年2組の教室に行かなければならない。
意を決して、『美晴』が階段を一歩踏み出そうと脚を少しあげた、その時だった。
「風太くんっ……!!」
男子の声。
『美晴』が昇ろうとしていた階段の先には、その声を発した本人である男子が立っていた。『美晴』の姿を見て、そいつが本物の風太だと分かっているのは、この世にただ一人。
「美晴っ……!?」
少年は少女を「風太くん」と呼び、少女は少年を「美晴」と呼んだ。
表情も真逆。少年は安堵したような様子だったが、少女の顔色はこの出会いが最悪なものであるということを示していた。
(だっ、ダメだっ! 今はダメだっ!!)
情けない。恥ずかしい。カッコ悪い。
『美晴』の心にある男児としてのプライドが、スカートの中にある惨状を『風太』に見られることを拒否していた。失禁したかつての「わたし」の姿を見て、『風太』はどんな反応をするだろうかなんて、考えたくもなかった。
「ふ、風太くんっ!? どこへ行くんですか!?」
『風太』が話し終わる前に、『美晴』は全速力で来た道を引き返した。
「あっ、待ってくださいっ!」
後ろから、こちらの事情を全く知らない『風太』が、階段を駆け降りてくる。
「はぁっ……はぁっ……」
もし事情を話せば、『風太』ならなんとかしてくれるかもしれない。決して『美晴』を嘲笑ったりはしないだろう。
しかし今は、この排泄物で汚れた下着は誰にも見られたくないという気持ちの方が、上回っている。現在の自分のことを本物の風太だと知ってる人物ならば、尚更「お漏らしパンツ」なんて、見られたくない。
『美晴』はどこへ逃げようとも考えずに、ただ一心不乱に走った。が……。
(くそっ……!)
行き止まりだ。
『美晴』はくるりと向きを変えて、後ろにいる『風太』と向かい合った。『美晴』を追い詰めた『風太』はスピードを落とし、5メートルほど離れた場所を呼吸を整えながら歩いていた。
「ど、どうしたんですか? 突然っ!」
不思議そうな顔をして近づいてくる『風太』に対して、『美晴』はハッキリとした言葉で叫んだ。
「来るなっ……!!!」
『風太』の足が止まる。
「えっ……?」
「そのまま……あっちに……いけよ……!」
「風太くん、何かあったならわたしに話し」
「うるさいなっ……!! 今は……どっかいってろ……!!」
少女の乱暴な怒声が、廊下に響く。
「ど、どうして……?」
「嫌いなんだよ……! 何もかも……自分勝手な……お前がっ……!」
明らかに様子がおかしい。
『美晴』が何かを隠していることぐらいは、『風太』にも簡単に分かった。
「まさか……」
拒み続ける『美晴』の姿をよく見ると、胸の辺りが濡れていて、ブラジャーが透けている。さらに、不自然にスカートの裾を両手でグッと握っている。
そこに何かある。『風太』は察知し、覚悟を決めた。
「だから……どっか行けよ……」
「……」
『風太』は『美晴』の言葉を無視して、まっすぐに向かっていった。
「うわっ……!? 来るなよ……バカっ……!」
「……」
「おい……! 来るなって……言ってるだろ……!? 聞いてるのか……美晴っ……!!」
「……」
「やめろっ……!!!」
「ごめんなさいっ」
『風太』は『美晴』のスカートを掴み、男子の腕力で精一杯めくり上げた。
「「あっ……!?」」
見えた。見られた。
スカートの中で、キツい悪臭を漂わせながら、びしょびしょに濡れている。
「あ……あぁ……」
『風太』はパッと手を放し、目を丸くしたままゆっくりと顔を上げて、『美晴』を見た。
『美晴』の顔は真っ赤になっていて、口からは力の抜けたような言葉にならない声が漏れている。
「風太くん、これっ」
「うぅっ……! ううぅっ……!!」
見られてしまった。よりにもよって、一番見られたくなかった相手に。
男児としてのプライドはもうない。ここまで守ってきた物、耐えてきた物が崩れ落ち、涙となって瞳から一気に溢れ出した。
「なんでっ……! ひぐっ、なんで……こう……なるんだよっ……! なんで……ぐすっ、お、おれが……お前のっ……!」
「……」
「返せよぉ……! 返してくれよぉ……! おれの……身体ぁ……!」
泣きじゃくる少女のそばで、少年はただ黙ってうつむいていた。
*
そして、日が暮れた。
この時間まで学校に残っている生徒は、あまり多くない。
体育館の第一用具庫。
そこには、カゴに入った各種ボールや、跳び箱と青い踏切板、何枚も積み上げられた大きな白いマットに、ダンス用のキャスター付き姿見などがある。
「……」
その場所で、一人の女の子が跳び箱を背もたれにしながら、体育座りのような姿勢で座っていた。傍らには、赤いランドセルと黒いランドセルが一個ずつ置いてある。
その少女は、目を泣き腫らしていたものの、気持ちは落ち着いていた。ひとしきり泣いたので、気が少し楽になった、というところだろう。
ガラガラガラ……。
第一用具庫の扉が、ゆっくりと開く。
「風太くんっ!」
「……」
「あの、これっ……!」
そこへ現れた『風太』は、すぐに薄水色のブラジャーとパンツを『美晴』に差し出した。
「どこに……あった……?」
「6年2組の、掃除用具ロッカーの中です」
「そう……か……。持ってきて……くれて……ありがとう……」
この下着一式と、さっき『風太』から渡されたブラウスとスカートがあれば、『美晴』は濡れた服から着替えることができる。
「あと、身体を拭くのにはこれを使ってください。風太くんのタオルですけど……」
水道水で湿らせた青いタオルが、跳び箱の上にそっと置かれた。
身体を拭くためのタオルだ。これで、汚れた身体を拭く。「服を脱いで」から、身体を拭く。
「……」
「……」
二人は互いに顔を見合わせて、少し沈黙した。
「美晴……?」
「は、はいっ?」
「おれ……、この身体の……裸……、見たこと……ないんだ……」
「はい……」
「着替え……とか……、一人じゃ……難しくてさ……! だから……その……なんていうか……」
「……」
「前……みたいに……目を……つぶってる……から……。お前が……おれに……服を……着せて……くれれば……」
「いいです。もう目をつぶらなくても」
「えっ……?」
「見てください。全部」




