『美晴』vs界
月野内小学校の3時間目。
通常ならば、生徒はみんな教室に戻り、静かに授業を受けるべき時間だ。しかし、ずぶ濡れで震えている一人の女子生徒は、誰もいない非常階段の一番高い場所にいた。
「……」
時間は少し前にさかのぼる。
小さな少女である『美晴』と、大きな少年である界が、6年2組の教室というリングで対峙した頃へと。
*
「本気でやっちゃっていいのか? 美晴ちゃんよォ」
界が指をパキポキと鳴らしながら、小馬鹿にしたように宣う。
その周囲では、「おおっ?」という期待の声が上がった。
「……!」
一方、『美晴』は今の自分が「読書好きの大人しい女子」だということを忘れて、憎きそいつの顔面にパンチを当てることしか考えていなかった。拳を震わせ、界を見上げ、そして闘争心に任せて睨みつける。
「ははっ、マジでおれとケンカする気か。じゃあ身の程を教えてやるしかねェな。お前ら、机を片付けてくれ」
界がそう言うと、界の後ろにいた男子たちが机を邪魔にならない場所へと運び、闘技場のような1vs1の空間を作った。
『美晴』と界の間に、邪魔する物はもう何もない。界は、『美晴』へと向かって歩きながら、ベラベラとしゃべりだした。
「お前、どうなるか分かってんだろうな? 何か言いたいことがあるなら、今のうちに……オブェッ!?」
トスッ。
間合いを詰められる前に、『美晴』は自分から先に詰め寄り、腹を1発殴ってやった。顔面を殴ろうとも考えたが、おそらくパンチする右手が届かない。
「うわー、やっちゃった」「ダサいよ、界ちゃん」「へへ、いきなり腹パンかよ」「美晴の反乱? ちょっと面白そうだね」
野次馬たちは、いつもと違う美晴を見て盛り上がった。
しかし、界を殴った『美晴』はそのまま攻撃を続けることができず、自分の拳をじっと見つめて戦慄していた。
(痛っっってぇっ!!? なんでパンチしたおれの手が、こんなに痛いんだ!?)
考えられる理由は三つ。
まず、美晴の身体は弱すぎた。殴った時に、小指がポキッという音を立てていた。
次に、界の腹には堅い腹筋があった。界は何かしらの格闘技でも習っているのかもしれない。
そして一番の問題は、右手で殴ったことだ。今のパンチの衝撃は、右肩にも伝わってしまっている。『美晴』は、今の自分の右肩に痛々しい青アザがあることを忘れていた。
「うぐっ……。肩……まで……」
「あ痛ててて。あー、腹が痛ェな。下痢になりそうだぜ」
不意をついたが、ダメージは無に等しい。『美晴』の渾身の一撃は、全く効いていないようだ。
界が痛がる演技をしながら腹をさすると、周囲から少し笑いが起こった。
「よーし。じゃあ、こっからは正当防衛な」
反撃が来る。
界は瞬時に『美晴』の両腕を掴み、自分の元へ引き寄せた。『美晴』は身体をよじって逃れようとしたが、界の力が強すぎて拘束を振りほどけない。
ドスッ!!!
「ぅあっ……!!」
腹部に、強烈な膝蹴りをもらった。
衝撃で一瞬、身体が宙に浮く。臓器が弾けたような痛みが、全身を貫く。たったの一撃が、とてつもなく重い。
界が手を放すと、白目を剥いた『美晴』は膝からガクンと崩れ落ち、腹を押さえてうずくまった。倒れた拍子に、長い黒髪が顔を覆い、少女の視界を暗くした。
6年2組は感動と興奮を共有し、大いに盛り上がっている。
*
同じ頃。蘇夜花と五十鈴は、職員室にいる陣野先生のデスクに来ていた。
まずは蘇夜花が、甘えた声で陣野先生に話しかける。
「せんせ。ジンちゃんせんせー」
「んー? どうした蘇夜花」
「明日の全校集会で読む原稿をチェックしてほしいんだけど……これで良いかなぁ?」
「そうだなぁ。しっかり書けてるんじゃないか?」
「もうっ、ちゃんと見てよー!」
「いや、そろそろ次の授業の準備を……」
蘇夜花の次は、五十鈴が先生に近づいた。
「じゃあ、わたしの算数をみてくれる? 計算ドリル」
「五十鈴か。でもお前、算数は得意だっただろう?」
「得意だからこそ、もっとテストで良い点をとりたいのよ。先生」
「んー、どれどれ……。あっ、ここは小数よりも分数を使えば……」
五十鈴は、上手く先生の気を引いている。
その後ろでは、蘇夜花と真実香がヒソヒソ話をしていた。真実香も、6年2組の女子生徒の一人だ。
「教室の様子はどう? 真実香ちゃん」
「界くんが美晴に殴られてたよ。やっぱり今日の美晴は、ちょっといつもと違うみたいだね。蘇夜花」
「そっか。じゃあ、生意気な美晴ちゃんには、『デメ』をやってあげて。時間も、5分くらいなら作れそうだから」
「マジ……? わたしたちだけで、美晴に『デメ』やっていいの!? あはっ、教室のみんなに伝えてくるねっ!」
状況伝達係の真実香は、嬉しそうに教室へと戻って行った。
*
6年2組の教室内では、闘技場が盛況だった。
『美晴』は立ち上がることさえできずに、その闘技場の真ん中で、未だうずくまっている。
(おえっ……。息が、つまって、苦しいっ……!)
口から唾液をボタボタ溢しながら、どうにか呼吸を続けようとしている。
「なんだよ、もう終わりかよー。つまんねー」「美晴ちゃーん。もっとがんばってよー」「しかも口からなんか出てるし。キモっ」「謝れよ。調子に乗ってすいませんって」
観衆は下劣に湧いている。
「ほら、立てよ美晴。まだ時間はあるみたいだぞ。おれァ退屈なんだよ」
そう言いながら、界は『美晴』の脇腹あたりを二度三度と軽く蹴った。
(畜生っ……! クソっ、悔しい……! 元の身体だったら、こんなバカには負けないのにっ!)
『美晴』は、涙だけは絶対にこぼさないように唇を噛みながら、ズキズキする腹の痛みに耐えていた。
虫の息のまま、左のほっぺたを床につけ、低い目線でうずくまっている。すると『美晴』は、さっき片付けられた机の下に、丸めた紙屑が一つ落ちているのを発見した。
(ん……? あっ、あれは!)
美晴の社会のノートだ。あれがあれば、少なくともノートが切り取られてぐしゃぐしゃにされたことは、証明できるハズ。
(そうだ! あれを拾えば……!)
『美晴』は紙屑のそばへと行くために、四つん這いで少し進んだ。そして、その紙屑を拾おうと左手を伸ばした……が、失敗した。
「きゃっ……!?」
突然の強い痛みに驚き、思わず『美晴』の口からは少女の悲鳴が出てしまった。
界が、『美晴』の細い左腕を、グチャッと踏みつぶしたのだ。
「おい、どうした。またいつもの弱っちい美晴に戻ったのか? お?」
イライラしている界の足元で、『美晴』は床に転がる紙屑を指さして言った。
「あ……あれを……!」
「ん? なんだ、あれ?」
界は『美晴』の左腕を踏んだまま、その紙屑を拾い上げ、近くにいる男子生徒にパスした。観衆はそれを見ようとして、受け取った男子生徒に一気に群がった。
「なんだよ、界。このゴミは」
「美晴の大事なもんらしい。読んでみろよ、冬哉」
冬哉と呼ばれた少年は、受け取った紙屑をガサガサと開き、書いてある文字を読み上げた。
「えーっと、『地頭と荘園』『墾田永年私財法』……。社会のノートか?」
チャンスだ。
『美晴』は持てる力を振り絞って、喉の奥から出せるだけの声を出した。
「美晴の……ノートだ……! そ……の……ノートから……、あいつがっ……ゲホッ、切り取って……ぐしゃぐしゃに……したんだっ……! はぁ……はぁ……、おれは……勘違い……なんて……してないっ……!」
最後の力だ。蘇夜花に言い掛かりをつけたわけではないことを、クラス中に釈明した。
(言った……! 真実を言ったんだ……! おれは間違ってないって……!)
『美晴』は希望を持って、観衆たちを見つめた。
……もしも、この戦いが「ケンカ」だったならば、『美晴』の釈明によって、流れは少しでも変わったのかもしれない。しかしこれは、勝ち負けを決めるために戦う「ケンカ」とは、まるで違う。
「ふーん」
冬哉はそう言うと、読み上げた紙屑をビリビリと破り捨てた。
観衆たちはもっと面白いものを期待していたようで、少しガッカリしてまた元の場所へと戻った。
(なっ!? なんだよ、その反応は……!?)
唖然としている『美晴』のほっぺたを、界は片手でグッと挟み、口を塞ぐような形で押さえつけた。
「お前のノート? そんなもんどうでもいいんだよ。クラス中から嫌われてるお前が悪で、お前以外のクラス全員が正義だ。みんな、早く正義が勝つところを見てェんだよ」
『美晴』はそこでやっと、この6年2組というクラスを理解した。
*
そして、『美晴』の目に入ったのは、教室の天井にある蛍光灯だった。
闘技場はまだ終っていない。抵抗する力さえなくなった『美晴』は仰向けにされ、教室の真ん中に「大の字」で寝かされていた。腹の上には界が腰を降ろし、太い両足で、『美晴』の細い両腕を踏み押さえている。
界は、周りにいるクラスメートに尋ねた。
「みんなは、どうするのがいい? こいつにどんな罰を与えてほしい?」
騒ぐ。
「脱ーがーせっ、脱ーがーせっ!」「もうカンペキに、言葉をしゃべれないようにしようぜ」「蘇夜花に土下座させなよ。蘇夜花がかわいそーだよ」「ハサミで髪の毛を切っちゃうのはどうかな?」
『美晴』は界の下で、ただ時間が過ぎるのを待っていた。行動を起こす気力や体力はなく、もう全身の痛みに耐えることしかできない。
──そして間もなく、「蘇夜花を大声で威喝し、それを止めようとした界にまで暴力を振るった、極悪少女美晴ちゃん」への刑罰が、言い渡されることとなる。
ダッシュで6年2組の教室へと入ってきた真実香は、大声でクラスのみんなに伝えた。
「みんな聞いて! 蘇夜花が、『デメ』やってもいいってさ!」




