第1章 壽康斎 響く鳴き声
「翁主チャガ、翁主チャガ、お分かりになりますか?」
一見して70歳以上に見える老女が布団に横になったもう一人の老女に話しかけています。
「翁主」というのは朝鮮王・大韓皇帝の娘のうち、後宮の側室から生まれた女児の呼称で、正室である王后から生まれた女児は「公主」と呼ばれます。「チャガ(またはチャギャ)」というのは結婚した公主、翁主への尊称です。(結婚前の公主・翁主は「アギシ」と呼ばれます。)
朝鮮王朝では独特の儒教規範にもとづき、長幼の序は勿論、嫡庶(嫡子と庶子)の区別が非常に厳然として存在していました。支配階級だった両班でさえ正妻でない妾が生んだ男子は役職に就く権利さえ与えてもらえなかったのです。そうした差別は細かい名称からでも分かるように社会システムとして整っていました。
さて、話しかけられた「翁主」と呼ばれた老女… やわらかそうな布団に身を横たえ、髪は後ろに結び、広い額に大きな目を見開き、ずっと天井を見たまま何も話しません。幼い頃だったら可愛いと言われただろうと想像出来るその女性。
彼女こそがこの物語の主人公である
徳恵姫です。
老女は心配そうな顔をしながらさらに呼びかけます…
「翁主チャガ、ヨンアですよ。お分かりになりますか。ミン・ヨンアです…」
朝鮮の王宮の鮮やかな色使いとは異なった少しうす暗い色遣いの部屋。白い韓紙で覆われた襖と扉に外からの光が部屋の内部を照らしています。暖かくなり始めたとは言え、風が吹き込むと少し冷えるため徳恵姫は厚手の布団をかけられたまま動きません。
ここは昌徳宮楽善斎の奥にある「壽康斎」と呼ばれる建物の中の一室。李方子が最後まで守った楽善斎の一帯には、軒を連ねるようにして手前から、楽善斎・錫福軒・壽康斎と3つの建物が現存しています。またこれら母屋の裏にはそれぞれの裏庭に上涼亭・閒静堂・翠雲亭という東屋が裏の崖に造作を施し、奇石を配した朝鮮式の庭園を眺めるように配置されています。「壽康斎」と書かれた額の前には広くはないものの内庭があり、母屋の向かい側には昔は宮女が控えていたであろう小部屋が並びます。
壽康斎
楽善斎一帯の建物はプロローグで述べたように朝鮮王朝の第24代憲宗王がその後宮である慶嬪金氏との生活を迎えるために建てたものですが、詳しく説明すると楽善斎の建物は憲宗の燕寝(ヨンチム、くつろいで過ごすための御殿)として作られたもので、その奥に連なる錫福軒が慶嬪金氏の住処として、最奥の壽康斎は憲宗時代の大王大妃であった純元王后金氏(憲宗の祖父である純祖の妃)が滞在するために作られました。朝鮮王朝後期の勢道政治(外戚による政治)安東金氏の実力者として王宮で権力を振るった金氏の意に反する形で慶嬪金氏を後宮に迎えた若い憲宗(22歳で亡くなりました)はその祖母に対して敬意を払わなければならなかったのでしょう。こうした理由で王が時間を過ごす楽善斎が一番大きく、壽康斎が一番小さくなっています。宮殿の内部、といえば広い部屋をイメージしますが王や王后らの居所の一部屋一部屋はそう大きくはなく、壽康斎の部屋も奥行きが凡そ3メートルで長さが4メートルくらいでしょうか?そのような部屋が壽康斎にはいくつかあります。床にはオンドルが通り、石製の床の上に油紙を貼ってあります。
この日は1987年5月25日。徳恵姫の75歳の誕生日。
世が世であれば多くの王侯貴族が集まる絢爛豪華な宴会が開かれたことでしょう。しかし多くの韓国民でさえ彼女のことを忘れている中では、ここに集まったわずかな関係者以上に望めなかったでしょう。徳恵姫が韓国に帰国した際に涙を流して迎えてくれた乳母辺福堂もすでに数年前に亡くなりました。
「おいたわしや… おいたわしや…」
変わることなく無言の徳恵姫を見つめながら嘆いたヨンアと名乗る女性。
急に何を思いついたのか徳恵姫の手を握りしめ、姫の耳元で
「阿只氏、覚えていますか… 一緒に歌ったこの歌を…」
と囁くと、一遍の歌を歌い始めました。
その歌はなんと韓国語ではなく日本語の歌で、空から飛行機が振りまいたびらとそれを欲しがる作者の気持ちを歌った歌でした。
居並ぶ人たちは目を見合わせて首をかしげました。そして声を潜め…
「あの歌、日本語か?」
と囁き合います。聞いても意味は分からず、ただところどころの単語に聞き覚えのある人がいるくらい。
その時…
徳恵姫の目が動き、ヨンアの方に少し動きました。
ヨンアはもう一度繰り返して歌います。
とその時!!!
徳恵姫の唇が動いたのです。はっきりとした言葉にはなりませんでしたが、確かに、ヨンアの歌に合わせるように…
「ううう… あううう… いおおおいがあ…」
驚いたヨンア…
「おわかりになりますか? アギシ、『飛行機』ですよ。 アギシの御作りになった童謡『飛行機』ですよ!」
思わず昔懐かしい日本語で語りかけます…
「ああああ…」
徳恵姫の促すような声に誘われて、ヨンアは『飛行機』と彼女が呼んだ歌をくりかえしました。
かすかに目に涙を浮かべた徳恵姫がうめくように歌う?のを見た周囲の人は皆感極まり嗚咽してしまいました。そのすすり泣く声はずっと壽康斎に響き続きました。
この時徳恵姫は何を言いたかったのか… あるいは
「あの頃に戻りたい…」
とヨンアに伝えたかったのではないでしょうか。
ヨンアが咄嗟に呼んだ「アギシ」とは漢字では「阿只氏」と書き、朝鮮の王女の結婚前の敬称で、徳恵姫は生まれてから9歳になる直前までずっと「福寧堂阿只氏」と呼ばれていました。日本語新聞の京城新聞では「阿只姫」と書いています。(『京城新聞』1921年4月2日)
何故、ヨンアが「アギシ」と呼んだのか?それはヨンアこそが徳恵姫が徳寿宮内即祚堂に作られた幼稚園時代から、1925年3月に徳恵姫が日本の女子学習院に転入するまでの凡そ9年間の行動を共にしてきた
閔龍兒(韓国語でミン・ヨンア)
その人だったからです。
閔龍兒は日韓併合時代に朝鮮総督府中枢院参議にまで上り詰めた閔泳瓚(1874~1948年)の娘で、日本の貴族院議員にまでなった韓相龍の娘である韓孝男と共に徳恵姫の学友として通学から行を共にし、当時恐らく最も徳恵姫と親しかった人物でした。(ただし学年は1つ上でした。)
前列右から2人目が徳恵姫、3人目が閔龍兒
そんな閔龍兒だからこそ咄嗟に思いつき昔の呼び名で徳恵姫をよび、そして二人の思い出の歌を歌って聞かせたのです。
閔龍兒が徳恵姫に『飛行機』という歌を歌って聞かせたこのエピソードは1987年11月に徳恵姫や韓孝男と京城日出公立尋常小学校(以下、日出小学校)で同級生だった有田栄一に手紙に書いて送ったものが京城日出小学校の創立100年を記念して出版された『わが赤煉瓦の学び舎:京城日出小学校百年誌』(以下、『日出小学校百年誌』)に掲載されています。おかげでこの感動的エピソードが後世に伝わることになったのです。有田によれば閔龍兒は配偶者を亡くした後アメリカに渡って約20年間過ごして1988年に韓国に戻ったそうですが、その前年の1987年に一時帰国していた際の出来事だったそうです。
この『日出小学校百年誌』には、徳恵姫についてエピソード、そして特にこの『飛行機』という歌について何人もの同窓生が寄稿しており、いかに徳恵姫の小学校時代に広く繰り返し歌われた歌だったか、ということがよく分かります。その中で『飛行機』という歌は本当の名前は『びら』という名前だと言うことが、これまた徳恵姫らと同窓生だった小牧民子(旧姓は武田)によって指摘されています。(この童謡『びら』については追って詳しく書くことになります)
しかし、残念ながらこれらのエピソードはほとんど伝えられることがありませんでした。先に挙げた徳恵姫について書き記した一級資料と言われる本馬恭子著『徳恵姫』でさえこのエピソードは勿論、徳恵姫が童謡を作詞したと言うこと自体がすっぽり抜けているのです。これは本馬恭子が徳恵姫の朝鮮時代について韓国側の研究者の指摘を鵜呑みにし、当時の日本側による肯定的な評価を無視したために生じたように思います。それでは徳恵姫の一面のみを記したに過ぎません。韓国でベストセラーとなった権不暎の小説『徳恵翁主』では巧みにこの歌『びら』の内容をストーリーに紛れ込ませているものの、日本の統治を否定する内容にすり替えているのでこれまた参考にはなりません。
この小説の主な舞台は閔龍兒が徳恵姫と一緒に過ごした日出小学校時代が中心となりますが、
病床にあった徳恵姫が閔龍兒のこの歌に反応を示した
このことこそが徳恵姫の生涯の中で、最も光り輝いた時代であったことの証左だと思います。
王族の姫として父母は勿論日本からも大切にされ、その文才を認められて朝鮮はもちろん日本にまで宣伝された『童謡の姫君』…
一方で徳恵姫自身とその周囲の不幸の芽はその誕生の時から内包されていたように思います。次回から時をさかのぼって徳恵姫の生涯を追ってみましょう。
続く