序章 発端
夕暮れの赤い光が会議室を斜めから照らし出す。
「なるほど……これ以上は予算増額でもしないと運営不可能だと?」
メガネをかけた三十代の男が聞き返すと、白いキッチンコートを着た四十がらみの女性が申し訳なさそうにうなずく。
「ええ……最近は材料費が高騰していますし、あの値段では限界です……」
女性の言葉にその場にいた全員が息をつく。
ここは私立桜稜高校の会議室。現在彼らは学生食堂の運営改善会議を行っていた。
桜稜は首都圏にある私立校の中でも特に規模の大きな学校である。この少子化の時代に総生徒数は三千人を越え、プールやナイター設備付き球場など施設の充実度では全国一と言っても過言ではない。
その設備のひとつ学生食堂は、全校生徒の昼の胃袋を満たす大食堂であった。寮生が多いため、弁当を持参する生徒は少なく、常時千人単位の生徒が出入りする巨大施設なのである。
それだけに経費がかさむ。生徒の頭脳だけでなく胃袋もいっぱいにするという理事長の方針で、この学食は異常に安く設定されている。ラーメンが百五十円、チャーシューメンでも二百円という値段は、もうけがほぼゼロというギリギリの数字だった。
その上、相手は腹をすかせた高校生たちである。ひたすら食い続ける。カツ丼とラーメンにサンドイッチを一瞬で平らげる剛の者までいるのだ。採算など合うはずが無い。
「かと言って料金値上げは理事長がうんと言わないだろうし」
「寄付金に頼ると言うのもねぇ」
桜稜は良家の子女も多く通い、それなりの寄付金が期待できる。しかし、そこに頼り続けるのも問題がある。赤字は毎日垂れ流されているのだ。臨時収入では意味が無い。
「質問があります」
会議室で唯一詰襟の学生服を着た少年が手を上げる。短く切りそろえられた柔らかな髪と、底の見えないアルカイックスマイルが目を引く少年である。彼の名前は遠山シオン。この桜稜高校の生徒会を率いる少年だった。
この桜稜では校内の問題に限っては生徒自治が尊重されるという校風がある。そのため、学校の方針会議には生徒会長の出席が認められているし、生徒生活に関する事項は生徒会長の発言が優先される。
「学食で一番採算が取れないメニューは何でしょうか?」
シオンの問いに栄養士がしばし考え込む。シオンは両手を組んだまま、悠揚とした笑顔で答えを待つ。
「カツ丼かしら? それとカツカレーかな? どちらも売れば売れるだけ赤字です」
桜稜のカツ丼とカツカレーは、もっとも人気の高いメニューである。豚のロース肉を使ったジューシーなトンカツは肉汁があふれ、それが卵とじやカレーと合わさった時に生まれる味の桃源郷は筆舌につくしがたい。
その上、値段は二百円だ。カツカレーには福神漬けとラッキョウがのせ放題だし、カツどんにはタクアンと味噌汁がついてくる。注文しないほうがどうかしている。
教師たちもそれら二つの料理を思い浮かべうっとりした表情をする。シオンはその雰囲気の中で一人冷静な空気をまとって口を開いた。
「では、簡単な話です。採算の取れないメニューを廃止してはどうでしょうか?」
「!」
一同がシオンのほうを向く。桜稜高校二大人気メニューを廃止する? 教師たちは戸惑いと驚きの混じった目で彼を見つめる。
それは困る。どちらもなくなるなんて困るのだ。学食は教師も利用するのだから、カツがなくなるのは絶対に困る。
日本人の現代食文化において、トンカツというのは特別な意味を持つ。トンカツはご褒美なのだ。ステーキほどワイルドでも、寿司ほど上品でもない。ちょっとした昼食の楽しみとしてのぜいたく。それがトンカツである。彼らの視線はそうシオンに訴えかける。
「……では、どのような対策があるのですか?」
シオンは教師たちの子供じみたプレッシャーを内心であざ笑っていた。たかがトンカツごときに何をムキになっているのか。そんな侮蔑を表に出さず、シオンはアルカイックスマイルを崩さずに、優等生然とした態度で言葉を続ける。
「先生方のほうで案が無いようでしたら、この問題は生徒会が処理します。とりあえず、不採算メニューのいくつかは廃止します。例えばホッケの塩焼き定食とか」
アウッと会議室の片隅で声があがる。ファンがいたらしい。
「しかし、カツ丼とカツカレーのどちらかを無くすというのは……」
「それならばいい案を出してください」
微笑みながらもシオンの言葉は硬く冷たい。教師たちは反論できずに黙ってしまう。
どうにしかしてカツは残したい。カツが無くなるのは困る。
「まあ、学生生活に関わることですからね。生徒全体で答えを見つけますよ。まあ、見ていてください」
教師たちの視線がシオンに集まる。居並ぶ教師たちを自分のペースにもっていったことを確信し、シオンは自信に満ちた表情で立ち上がり、会議室を後にした。




