Episode4―Last Thursday―
木曜日は、実家に寄ってから出社した。
伊原さんの顔を見るのが怖かったということもあるけれど、遺産相続の書類を母にも読んでもらおうと思ったからだ。
まずはコスモグループの会社概要を拝見しましょう。
ええと、グループ全体の総資産は・・・っと。
いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、じゅうまん、ひゃくまん、せんまん、いちおく、じゅうおく、ひゃくおく・・・・
「2500億円!?」
書類を握りしめ、私は叫んだ。
「こら、みっちゃん。はしたないわよ」
母はローテンションな突っ込みを入れた。
「結婚しようかな」
「そんなあぶく銭を受け取ったら人生めちゃくちゃになるわよ」
「でもさ、2500億円だよ?すごくない?」
「みっちゃ~ん。世の中そんな甘くはないわよ。ちゃんと教えたでしょ」
十代で結婚と離婚を体験した母は、養女に自分と同じ失敗をさせないと決意し、20年以上かけて世間の世知辛さを私にみっちりと教え込んだ。
でも、セレブな若奥様っていうのも楽しそうじゃない。
私なんか、会社では必要とされていない人間だし、伊原さんには嫌われちゃったし。
「でもでも、東間さんて、かっこいいよね」
釣書の写真を見せても、母は不満そうな顔つきをしていた。
私は、母をハワイに連れて行ってあげたいとか、毎週エステに通わせてあげたいとか、ル○・ヴィトンのバッグを買ってあげたいとか思っているのに。
悲しき薄給娘だからさ。
「とにかく、よおお~~~く考えるの。みっちゃんは面倒くさがりやだから、嫌なことがあるとすぐに考えるのやめちゃうけど、今回だけは絶対にダメ。結婚は受験より就職よりずっと複雑な問題だから」
母に言われて、少しどきっとした。
東間さんを怪しいと感じていたのは確かだった。
だけど、2500億円の前には些細な事のような気がしてて。
「大体、みっちゃんには、気になっている人がいるでしょう」
母が釣書をごみ箱に押し込みながら言った。
容赦ない母は、人が思い出したくないことを思い出させる。
「無理だもん。昨日、すごい怖い目で睨まれた。絶対嫌われた」
思い出したら、涙が出てきた。
母はティッシュで私の顔をごしごし拭いた。
「ホントにガッツない子ね」
「バブル期を知っているお母さんとは違うんです」
メイクが取れてしまったので、母がメイク直しをしてくれた。
桃栗三年眉描き二十年というが(←いわない)、メイク歴30年のテクニシャンの腕は一味違う。
母にメイクをしてもらったのは大学の入学式以来だった。
サークル勧誘の上級生にしつこくつきまとわれ、呪いじみたものを感じた私は、母にメイクを頼むのをやめた。
母のメイクの魔力をすっかり失念していた私がそのまま会社に向かったら、皆変な顔をしてこちらを振り向いてくる。
エレベーター前で伊原さんに出くわした。
私を見た瞬間、伊原さんは、前日よりさらに凶悪な目つきになる。
よっぽどメイクが似合わないのかと思い、落とそうとトイレに向かったけれど、途中で伊原さんに捕まった。
「似合いません」
腕をがっちり掴まれて、開口一番に酷い台詞を言われた。
「ええ。だから、今から落とそうと」
見ないでくれと両手で顔を覆った。
「全然似合っていません。あの男もそのメイクも」
幻聴が聞こえたような気がして、顔を上げたら、伊原さんがじっと私を見つめていた。
瞬きを繰り返していたら、伊原さんがもう一度言った。
「あの男もそのメイクも藤野さんには似合いません」
「メイクが似合わないのは自分でも承知していますが、あの男とはどなたですか?」
「昨日の昼休みに藤野さんがカフェで会っていた男です。恋人なんでしょう?そのメイクも彼のためなんですよね?」
「まさか。ほとんど初対面です」
伊原さんが「えっ?」という顔をした。
それから「しまった。やっちまった」みたいな表情になる。
胸がどきどきして、何か言おうと口を開きかけたところで、受付嬢の木田さんに声をかけられた。
「藤野さん、お客様です。コスモグループの東間さんがいらっしゃってます」
一階では東間さんが待っていた。
インテリ眼鏡装備中の東間さんは私を見つけると爽やかに微笑んだ。
「私の正体がバレたと聞きました。あなたには自分の口から説明しておきたくて、朝から押しかけてしまいました」
東間さんがいきなり大きな花束を差し出したので、嫌な予感がした。
「藤野未知さん。私と結婚を前提にお付き合いしてください」
展開が速すぎて、ついていけません!




