第8話 あんたの記録は、あんたのものだ
患者No.3201 ヴィルヘルミーナ・ケスラー(33歳・女性)
第四子出産後、回復せず。栄養不足と慢性疲労の複合。週二回の治癒+食事指導+夫への家事分担の助言。
備考:「先生に言われたので」と夫に伝えたところ、夫が洗濯を始めた。治癒より効いた。
◇
王立医学院の封蝋を見た瞬間、指先が冷たくなった。
朝の診療所。まだ患者の来ない静かな時間に、父から手渡された手紙だった。重い羊皮紙に、王立医学院の紋章が押されている。
「ブルーノからの返事だ。お前宛になっている」
父はそれだけ言って、書斎に戻った。
封を切った。
几帳面な筆跡が、びっしりと頁を埋めていた。
セシリア・ファルケンシュタイン殿
ヨハン殿より送付いただいた治癒記録を精読いたしました。率直に申し上げます。これは個人の診療録ではありません。三千二百名、十二年分の疾患傾向・季節変動・地域特性を網羅した、公衆衛生学の一級資料です。
当院の叢書として正式に出版を提案いたします。併せて、学術的見地から一点申し添えます。記録から推察される当該領地の現在の衛生状態は、看過しがたい水準に達している可能性がございます。王立機関の学者は、領地の重大な衛生問題を発見した場合、貴族院への報告義務を負います。これは貴殿の意向とは無関係に、職務として遂行せねばならぬ手続きです。
なお、すでにヨハン殿の書簡を受領した時点で、予備的な調査に着手しております。正式な報告は貴殿の出版の承諾を待ちますが、遠からず貴族院が動くことになろうかと存じます。
ブルーノ・ヴァイスミュラー
王立医学院 公衆衛生学教授
手紙を膝の上に置いた。
指先がまだ冷たかった。
(──貴族院への報告義務)
つまり、この記録を出版すれば、ヴァイセンベルク領の衛生崩壊が公式に問題視される。貴族院が動く。査察が入る。
あの方の領地に。
手紙をもう一度読み返した。「貴殿の意向とは無関係に」。ブルーノ教授は職務として報告する。私が望んだからではない。学術的に正当な評価を行った結果、問題が浮かび上がった。それだけのこと。
それだけのことだと、頭ではわかっている。
(──けれど)
記録を出したのは父だ。記録を書いたのは私だ。結果としてあの方の領地を追い詰めるのだとすれば──。
手紙を畳んで、立ち上がった。
◇
父の書斎を訪ねた。
ヨハンは机に向かって医学書を読んでいた。私が入ると、本を閉じて椅子を引いた。
「読んだか」
「はい」
「で、どうする」
「……お父様は、ブルーノ教授にお手紙を送られた時点で、こうなることを」
「予想はしていた。ブルーノは真面目な男だ。問題を見つけて黙っていられる性分ではない」
責めているわけではなかった。父が手紙を送ったのは、私の記録に学術的価値があると判断したから。それは正しい。正しかったのだ。
「学術的価値と政治的影響は別の問題だ」
父が言った。
「ブルーノの報告義務はブルーノのもの。お前の記録はお前のもの。出版するかどうかは、お前が決めろ」
「……出版を止めれば、報告も止まりますか」
「止まらんだろうな。ブルーノはもう予備調査に入っている。お前が出版を止めても、彼は職務として報告を上げる。ただ、出版を止めれば──お前の名前は残らなくなる」
つまり。
記録を隠しても、ヴァイセンベルク領への査察は遅かれ早かれ行われる。ブルーノ教授がすでに動いている以上、私の判断で止められる段階はとうに過ぎている。
問われているのは、私の名前を出すか出さないか。私の十二年間を、形にするかしないか。
「……少し、考えさせてください」
「ああ」
◇
昼過ぎ、エルヴィンが納品に来た。
荷を下ろしながら、こちらをちらりと見た。それだけだった。けれどそれだけで伝わったらしい。
「何かあったか」
「……おわかりになりますか」
「顔に出ている」
そうだろうか。自分では表情を繕っているつもりだったけれど、この方には通じないらしい。
診療所の奥の部屋で、ブルーノ教授の手紙を見せた。エルヴィンは黙って読み、手紙を机に戻した。
しばらく、何も言わなかった。
窓の外で鳥が鳴いていた。秋の日差しが傾いて、部屋の中が橙色に染まっている。薬草の乾いた匂いが漂っていた。
「あんたの記録は、あんたのものだ」
エルヴィンが口を開いた。
「誰かのために隠す必要はない」
「……けれど、あの領地にはまだ三千二百人の患者が」
「だからこそだ」
エルヴィンの声が、一段低くなった。
「あんたが隠したら、あの三千二百人は永遠に放置される。記録が公になれば、貴族院が動く。動けば監督官が入る。監督官が入れば、治癒師が派遣される」
息が止まった。
(──隠すことが、優しさではない)
「あんたが隠すのは、あの旦那のためだ。三千二百人のためじゃない」
それは。
その通りだった。
私が躊躇していたのは、あの三千二百人のためではなかった。レクトルのためだった。あの方の名誉を傷つけたくないという、もう妻でもない自分が抱える、十二年間の残り滓のような感情だった。
(──十二年間、あの方のために隠してきた。仕事のことも。治癒のことも。No.0001のことも。隠すのが当然だと思っていた)
隠すのが優しさだと思っていた。
けれど。
「エルヴィン殿」
「ああ」
「……仰る通りです。隠しても、あの方々は救われない」
声が少し震えた。けれど、震えたのは恐れではなかった。
「ブルーノ教授に、出版の承諾をお伝えいたします」
エルヴィンは頷いた。「そうか」と短く。それだけだった。
(──この方は、いつも正しいことを仰る)
正しくて、短くて、飾りがない。そしてその正しさは、私の仕事を隅々まで見ているからこそ出てくる言葉だった。
「三千二百人のため」。あの方は知っていた。私が何のために働いてきたのかを。私自身が見失いかけていたものを、この方が突きつけてくださった。
◇
夜。
エルヴィンが帰った後の診療所で、ブルーノ教授への返信を書いた。
出版を承諾すること。記録の利用に関して全面的に協力すること。短い手紙だった。
封をして、机の上に置いた。明日の朝、父に頼んで馬便で送っていただこう。
ペンを置いて、窓の外を見た。
秋の夜空に、星がいくつか光っている。空気が冷たくなってきた。この季節になると、ヴァイセンベルクでは呼吸器の不調を訴える方が増えた。冬に向けて予防の治癒を始める頃だった。
(──今のあの領地に、それをできる方がいらっしゃるだろうか)
監督官が入れば、治癒師が派遣される。エルヴィン殿がそう仰った。ならば、私が隠すよりも出す方が、あの方々のためになる。
そう信じて、手紙を書いた。
(──あの方は)
レクトルのことを思った。
十二年間、あの方は私の仕事を知らなかった。知ろうともしなかった。私が何をしているのか、一度もお尋ねにならなかった。
エルヴィン殿は違う。
名前で呼ばれたことはない。「あんた」としか呼ばれない。けれど、その「あんた」は、私の記録を読み、質問を投げ、品種を合わせ、納品の時間を変えて、茶葉を置いていく。私の仕事を──隅々まで見ている。
「お前」と呼ばれた十二年間と「あんた」と呼ばれるこの数ヶ月。
どちらが「見てくださっている」のかは、もう、明らかだった。
(──比べるようなことでは、ないのだけれど)
そう思いながら、比べている自分がいた。
蝋燭の芯を切った。
明日は、エルヴィン殿との共同作業の日だった。医学書の原稿はまだ途中で、薬草学の注釈をつける頁がいくつも残っている。
(──明日、お礼を申し上げなければ)
何の。手紙のことか。茶葉のことか。あの日、前に立ってくださったことか。
(──全部、ですわね)
どれか一つを取り出して言葉にするのは、なぜだか難しかった。
手紙の封蝋が、蝋燭の明かりで小さく光っていた。




