第10話 これからの十二年
患者No.0001 エルヴィン・グリューネヴァルト(38歳・男性)
右手の古い刀傷による鈍痛。薬草を運ぶ際に右手を庇う癖あり。本人は申告しない。
備考:今度は、私が気づく番。
◇
インクの匂いがする原稿を、最後の一頁まで確かめた。
診療所の作業部屋。机の上に積まれた紙の束は、もう原稿と呼ぶには厚すぎた。表紙の仮綴じまで終えて、あとは著者名を入れるだけ。
羽根ペンにインクを含ませて、表紙の空欄に向かった。
「セシリア・ファルケンシュタイン」
自分の名を書いた。その横に、もう一つ。
「エルヴィン・グリューネヴァルト」
「待て」
向かいの椅子に座っていたエルヴィンが、声を上げた。声を上げた、といってもこの方のことだから、ほんの少し語気が強くなっただけだったけれど。
「俺の名前はいらない」
「いりますわ。薬草学の注釈は全てエルヴィン殿がつけてくださったのですから」
「俺は薬草を届けただけだ。あんたの十二年だ」
首を振った。大きな手で原稿の表紙を押さえて、ペンが近づくのを阻んでいる。
「では──薬草学の監修として、お名前を入れさせてくださいませ」
「……」
「監修ですもの。著者ではなく。これなら事実に即しておりますわ」
エルヴィンは口を開きかけて、閉じた。
「……好きにしろ」
視線を逸らした。
窓の方を向いたその横顔の、耳の先が赤かった。
(──あら)
小さく笑ってしまった。声が漏れたのか、エルヴィンがこちらを見た。慌てて口元を押さえたが、遅かった。
「何がおかしい」
「いいえ、何でもございません」
何でもなくはなかった。けれど、言わない方がいいこともある。
表紙に、二人の名前を並べて書いた。
セシリア・ファルケンシュタイン 著
エルヴィン・グリューネヴァルト 薬草学監修
インクが乾くのを待つ間、窓から差し込む秋の光が、二つの名前の上に落ちていた。
◇
三日後、ブルーノ教授から手紙が届いた。
王立医学院叢書としての出版を正式に決定いたしました。初版は来春を予定しております。
短い文面だった。それだけで十分だった。
十二年間の記録が、本になる。安い帳面に略記法で書き殴った患者の記録が、王立医学院の叢書として。
(──あの十二年は、無駄ではなかった)
頭ではとうに分かっていた。父が言ってくださった。エルヴィン殿が言ってくださった。ブルーノ教授が認めてくださった。それでも──活字になると知った瞬間、胸の奥で何かがようやくほどけた。
手紙を畳んで、しまった。
◇
その日の夕刻。
エルヴィンが最後の原稿確認に来て、注釈の修正を二箇所ほど入れて、帰ろうとした。
玄関先で、足が止まった。
私は扉を押さえたまま、見送ろうとしていた。秋の夕暮れの風が、薬草の匂いを運んでくる。エルヴィンの背中は、いつも通り大きかった。
振り返った。
(──あ)
この方が振り返ることは珍しかった。いつもは手綱を取って、一度も振り返らずに帰っていく。
沈黙が落ちた。
長かった。
エルヴィンは何か言おうとして、口を閉じた。もう一度開いて、また閉じた。
(──何を仰りたいのかしら)
待った。この方の言葉は、いつも待った先にある。
「あんたの十二年は、あんたのものだ。それは変わらない」
「……ええ」
一拍。
「だが、これからの十二年は──隣にいてもいいか」
不器用だった。短くて、飾りがなくて、美しい言い回しなど一つもなかった。
けれど、これまで聞いたどんな言葉よりも──。
目が熱くなった。
三度目だった。この方の前で涙を見せるのは。
(──泣かない、と決めていたのに)
先生は泣かない。患者の前では泣かない。それが十二年間の決め事だった。
けれどこの方は患者ではなかった。取引先でもなかった。もう、そういう名前で呼べる人ではなくなっていた。
「……ええ」
声が震えた。震えたまま、言った。
「今度は、ちゃんと覚えていてくださいね」
──一人も覚えていない、と言われた十二年間への、最後の答えだった。
エルヴィンの目が見開かれた。ほんの一瞬。すぐに戻った。
「忘れるわけがない」
短い声だった。低くて、かすれていて──けれどどこか、震えていた。この方の声が震えるのを、初めて聞いた。
そして。
「──セシリア」
名前を呼ばれた。
十二年間、一度も名前で呼ばれなかった。「あんた」としか呼ばれなかった。
その方が、初めて。
「……はい」
涙を拭った。手の甲で。一度だけ。
微笑んだ。今度の笑顔は、侯爵夫人のものではなかった。
◇
数日後の昼下がり。
診療所で患者の記録を整理していると、ドアが開いた。
杖の音がした。
とん、とん、と。ゆっくりとした歩調で、板張りの床を踏む音。
顔を上げた。
小柄なお婆さんが、杖をつきながら入口に立っていた。皺だらけの顔。丘の中腹の家に住む、あのお婆さん。
「先生、膝が」
マルタさんだった。
息を呑んだ。
(──どうやってここまで)
ヴァイセンベルク領から男爵領まで。この膝で。この杖で。
「マルタさん──」
「遠かったよ。馬車に乗せてもらってね、途中からは歩いて。膝が痛くて何度も休んだけど」
杖をついた手が震えていた。旅の疲れだろう。顔色は悪くない。けれど膝が──半年以上、治癒を受けていなかった膝が、どれほど辛かったか。
立ち上がった。
椅子を回って、マルタさんの前に膝をついた。
「お久しぶりです、マルタさん」
皺だらけの手を握った。骨ばった、土仕事で荒れた手。あの日と同じ手。
「……先生」
「はい」
「リーゼがね。学校に慣れたの」
「そうですか」
「毎日、一人で学校に通ってるの。私が見守ってるの。膝は痛いけど──先生に治してもらった膝で、ずっと立ってたの」
握った手に、力がこもった。あの日と同じ力だった。
「……よく来てくださいました」
それしか言えなかった。
マルタさんの膝に手を当てた。関節の奥に、半年分の炎症が溜まっていた。ゆっくりと、丁寧に、治癒をかけた。
あの頃と同じように。
◇
夕方。
マルタさんを父の客間に案内して休んでいただいた後、一人で診療所に戻った。
机の上に、新しい台帳がある。
開いた。
最初の頁。
患者No.0001 エルヴィン・グリューネヴァルト(38歳・男性)
右手の古い刀傷による鈍痛。薬草を運ぶ際に右手を庇う癖あり。本人は申告しない。
備考:今度は、私が気づく番。
この記録を書いたのは数日前。エルヴィン殿が原稿の修正を入れている時、左手ばかりで頁をめくっていたことに気づいた。右手で木箱を持ち上げる時、わずかに顔をしかめていたことにも。
本人に訊いたら「なんでもない」と仰った。
なんでもないはずがなかった。
(──十二年間、あの方は私の仕事を見てくださっていた)
(──今度は、私が見る番)
台帳を閉じた。
窓の外を見た。
秋の空が高い。雲が薄く伸びて、夕日が薬草園の方角を橙色に染めている。
その方角から、音が聞こえた。
轍の音。
馬車の車輪が土の道を踏む、あの重い音。砂利に変わって、少しずつ近づいてくる。
十二年前に聞いた音と同じだった。薬草を積んだ馬車が、診療所に向かってくる音。
けれど意味は、まるで違う。
あの頃は、顔も知らない取引先の荷馬車だった。
今は──。
台帳を棚にしまった。
エプロンの皺を伸ばして、前髪を手で整えて、それから自分が何をしているのか気づいて──少しだけ、笑った。
診療所のドアに手をかけた。
轍の音が止まった。荷台から誰かが降りる気配。砂利を踏む足音。
ドアを開けた。
新しい十二年が、始まる。
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