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私が十二年間、夫の代わりに治し続けた領民を、夫は一人も覚えていませんでした  作者: 九葉(くずは)


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第1話 役目は終わりましたね

「──実家に帰れ、セシリア」


 銀の燭台が三本、食卓の上で揺れていた。


 向かいに座る夫──ヴァイセンベルク侯爵レクトルは、スープ皿に手もつけぬまま、そう仰った。前髪の奥の瞳がまっすぐにこちらを見ている。迷いのない目。決裁書類に署名をなさるときと同じ目だった。


「ナターシャが治癒魔法を学んだ。お前の代わりは務まる。──離縁だ」


 代わりは務まる。


 その言葉が、燭台の炎のようにちらちらと胸の内側を灼いた。


(──ああ、やはり)


 驚きは、なかった。驚かない自分がいることにも、もう驚かなかった。三年前からかすかに変わった上着の匂い。五年前から別になった寝室。一つひとつを「気のせい」と片づけなくなったのは、いつの頃だったか。


 私はカトラリーを置いた。


 銀の器が、かちりと小さな音を立てた。その音だけが食堂に残って、やけに長く響いた。


「──そうですか」


 声は震えていなかった。確かめるまでもなかった。震える余地など、とうに残っていなかった。


「では、引き継ぎをいたしましょう。患者が三千二百名おりますので、一週間ほどお時間をいただけますでしょうか」


 レクトルの眉が動いた。


「患者?」


「ええ」


 微笑んだ。十二年の間に、この笑い方だけは随分と上手くなった。侯爵夫人の笑顔は、どのような場であっても崩してはならない。──それだけは、きちんと身につけたと思う。


「領内の巡回治癒でございます。慢性の腰痛、膝の関節痛、産後のお母様方の回復、季節の変わり目の熱病、子供たちの発育不良──三千二百名分の病歴と服薬記録を台帳にまとめてございます」


 レクトルの顔から血の気が薄く引いていくのが見えた。


(──ご存じなかったのですね)


 知らなかったのだ、この方は。十二年間、毎朝私が何をしていたのか。夕刻に疲れきって戻る私の手が、なぜ冷たかったのか。何一つ。


 けれど、それを責める言葉は浮かばなかった。


 知らせなかったのは私だ。地味な仕事だから。わざわざ申し上げるほどのことでもないから。あの方の武勇に比べれば、腰痛の一つや二つ、取るに足らぬものだから。──そう判断したのは、私自身だった。


「……三千二百、だと?」


「はい。台帳はわたくしの私費で購入した帳面に記録しておりますので、写しをお渡しいたします。ナターシャ様には、季節の変わり目に悪化なさる方が多いとだけお伝えくだされば」


 レクトルが何か言いかけて、口を閉じた。喉仏が上下する。食卓を挟んで、沈黙が落ちた。


 この方は、今、初めて計算なさっているのだろう。三千二百という数を。一人の治癒師が十二年かけて積み上げた数を。


「セシリア」


「はい」


「……お前は、なぜそれを一度も言わなかった」


(──なぜ、ですか)


 それをお聞きになりますか。十二年間、あなたは一度もお尋ねにならなかったでしょう。「今日は何をしていた」と。「疲れたか」と。


 言葉が喉元まで昇って、飲み込んだ。


「お尋ねになりませんでしたので」


 それだけを返した。微笑んだまま。これ以上は、口にしても詮のないこと。


「引き継ぎの段取りは明日お持ちいたします。──お食事、冷めてしまいますわ」


           ◇


 自室に戻り、帳面を出した。


 十二年分の台帳。革表紙が手の脂で飴色に変わっている。角は擦り切れ、背の糸がほつれかけていた。私費で購入した安価な帳面だったが、十二年の歳月がそれなりの重みを与えている。


 荷造りの木箱に、一冊ずつ積んでいく。


 最初の一冊を手に取ったとき、表紙がぱさりと開いた。


 最初の頁。


> 患者No.0001 レクトル・ヴァイセンベルク


 あの方の名前。


 嫁いだ夜のことを思い出す。寝息を立てる夫の眉間に、深い皺が刻まれていた。古い頭痛だと直感した。触れると──微かに熱の偏りがある。


 治した。


 翌朝、あの方は侍従に「昨晩はよく眠れた」と仰っていた。私の名前は出なかった。


 十二年間、一度も。


 台帳を閉じて、木箱に入れた。


 次の一冊。その次。そのまた次。


 十二年は──思っていたよりも、重い。腕に伝わる帳面の重みがそのまま歳月の嵩だった。


           ◇


 荷造りを終えた頃には、窓の外が暗くなっていた。


 この部屋──五年前から一人で使っている寝室の窓から、領地が見える。夜の闇に沈んだ農地の向こうに、ぽつりぽつりと灯が点いていた。あの灯の下に、三千二百人がいる。腰の悪い鍛冶屋のギュンターさん。膝の痛むマルタお婆さん。先月産まれたばかりの赤ん坊を抱えた若い母親。


 名前を知っている。顔を知っている。季節ごとに悪くなる箇所も、ご家族の事情も、好む茶の種類も。


 レクトルは、一人もご存じない。


(……十二年。長うございましたね)


 涙は出なかった。出るものと思っていたけれど、出なかった。


 枯れたわけではないと思う。ただ、泣く代わりに台帳を書いた。泣く代わりに巡回に出た。そうやって十二年を過ごしたものだから、今さら泣こうにも、その場所にはもう帳面が詰まっている。


(──私がいなくなっても、どなたかが代わりに務まるのかもしれない)


 そう思った。思おうとした。


 けれど。


 三千二百名。


 木箱の中の帳面が、その数の重みで蓋を押し上げている。


 窓を閉めた。


 明日は早い。最後の巡回がある。あの方々のお顔を見て、手を握って、「しばらく来られなくなります」とお伝えしなければ。


 木箱の蓋を押さえた。帳面の角がわずかに蓋を持ち上げて、きちんと閉まらなかった。


 十二年分の台帳は、小さな木箱に収めるには──少しだけ、多すぎた。


           ◇


 翌朝。


 いつもの刻限に目が覚めた。いつもの手順で身支度を整えた。


 巡回用の鞄に、治癒に使う軟膏と、書きかけの台帳と、ギュンターさんに頼まれていた腰用の湿布を入れた。


 廊下を歩く。朝日が石畳に斜めの線を引いている。使用人が二人、すれ違いざまに頭を下げた。


「おはようございます、奥様」


 奥様。


 その呼び名を聞くのも、あと数日のこと。


 玄関の扉に手をかけた。朝の冷気が指先を打つ。


 石段を下りながら、背筋を伸ばした。


(──まだ、先生と呼んでくださる方々がいる)


 最後の一日を、泣いて過ごすつもりはなかった。


 鞄の中で、台帳の角がかたりと鳴った。

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― 新着の感想 ―
「戦に比べたら地味な仕事だから黙ってた」から、ほんの数行で「私1人が12年で3200人の患者を治療してました。凄いでしょ?後任の人は抱えきれねえだろうなあ!?」って思考になるのが同じ人類とは思えません…
何を召し上がろうとしていたかわかりませんが、お箸で食事をされる文化圏ですか?
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