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Alice in Abyssal Oblivion  作者: エスティ
第1章 天魔の一角獣
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chapter 1-28 解放

 王都ムウニ・ディンロの酒場パブランドンは、今日も人々の人生が少しばかり交わっている。


 常連たちにしては珍しく、木製ジョッキを片手に酒を飲み交わすこともなく、行方を晦ましたアリスのことだけを心配し、ヴィオラは途方に暮れ、思わず息を吐いた。


 ダリルがヴィオラの様子に気づくと、妖艶な横顔に思わず目をやった。


「どいつもこいつも、魔障院の掃除番が余程心配のようだな」

「赤薔薇の女王と公爵夫人、どちらに見つかるかで処遇が決まるのよ。王都民たちは全面的に公爵夫人の味方みたいだけど、赤薔薇の女王に従順な人たち、それと魔障に対する偏見を持つ人たちに、アリスを引き渡すわけにはいかないわ。私たちはアリスに救われた恩があるでしょ」


 パブランドンのドアベルが来客を伝えるように鳴る。


 甲冑の靴音が気の板を踏みしめるように刺激する。入ってきたのはトランプ兵長であった。


 通常、トランプ兵が公共の場所を利用することは滅多にない。来るのは専ら遠征を終え、王都へ帰郷した記念の時くらいである。多くの場所を見張り、治安を守るトランプ兵もまた、酒に入り浸ることが楽しみの1つであった。レイモンドとも親しみがある者も少なくない。


「いらっしゃい――あれっ、兵長さんが来るなんて珍しいな。今日はどうしたんだ?」

「飲みに来た。ルベルバスウイスキーを頼む」

「はいよ。このごろずっとアリスの話題で賑わってるみたいでな。あんたも捜してるのか?」

「ああ。兵士としてこれほど歯痒い立場を経験したことはない。かつて私たちトランプ兵もアリスに救われたのに、今度は指名手配犯としてアリスを探せと命じられた。女王陛下の命令は絶対だ。しかし、命令を遂行すれば恩を仇で返すことになる。この世の正義がまた1つ失われる気がしてならない……今のは独り言だ。聞き流してくれ。私も仕事なんでな」


 聞き入るようにヴィオラとダリルが耳を傾けた。


 赤茶色の輝きを見せる液体が注がれ、氷入りでトランプ兵長の目の前に置かれた。


 取っ手を掴み、過去を忘れようとせんばかりに飲み干した。


 兜を脱いだ顔は真っ赤に染まり、喉越しが鳴り、ため息を吐く。ブランドンはトランプ兵長の中に確かな良心を見た。何度も目の当たりにした光景だ。アリスが見つかることと同じくらいには、いっそアリスが戻ってこない方が幸せなのではないかと、常連たちは考えるのだった――。


 魔古城(ディアボロア)最上階、玉座に腰かけるダイモニアが盃を手に持った。


 左右から上下に別れた牙を覗かせ、アリスとマルアスを魔鏡越しに眺めている。


 体にはスラッジオが纏わりつき、黒き汚泥が床に垂れ、カーペットを汚している。幹部の悪魔たちが黒いローブを着用しながら佇み、ダイモニアの一挙手一投足を窺っている。


「魔王様、アリスとマルアスが侵入し、こちらに向かっておりますが……」

「心得ておる。全兵力を天のお告げがもたらした少女にぶつけるのだ」

「畏まりました、魔王様」


 扉の奥が音を立てながら勢い良く開き、悪魔兵が慌ただしく入った。


「魔王様っ! 大変ですっ! アリスが妙な魔法を使い、城中を綺麗に掃除しながらこちらへ向かっております! 早くお逃げください! ここにいては――があっ!」


 ダイモニアの指から先端の尖った蔓状の黒い触手が飛び出し、悪魔兵の胴体を貫いた。赤い血が漏れ出るも、黒い触手は瞬く間に悪魔兵の全身を引き寄せて飲み込み、自らの養分とした。悪魔は同胞を甚振ることはあれど、食らうことはない。魔王ダイモニアが意図した行動でないことは明らかであった。スラッジオは魔王ダイモニアの体を飲み込み、棘の生えた玉座から重い腰を上げた。


 周囲に立つ悪魔たちは全身を震え上がらせ、肝が冷え、手には動揺の汗をかいた。


 再び魔鏡越しにアリスを見れば、マルアスが角を光らせながら悪魔兵に向かって突撃し、アリスは箒の魔力を使い、スラッジオを次から次へと浄化していく。


聖水掃除(ウォータースイープ)】によって聖水をばら撒き、アンゲロアに来襲した悪魔兵を再び城内へと撤退させ、壁や床にこびりついている黒き汚泥を綺麗に掃除し、光沢が目に映る。


 魔鏡を机の上に置き、開いた扉からアリスとマルアスが闊歩するように入場する。


 悪魔の幹部たちが立ち上がろうとすると、すぐにダイモニアから制止の手が伸びた。


「お前たちは手を出すな」

「あなたが魔王ダイモニアね?」

「いかにも。待っていたぞ、天のお告げに導かれし者……いや、アリス・ブリスティア」

「名前を知っているようで光栄だわ。今すぐ降伏しなさい。さもないと、お掃除するわよ」

「ふふふふふっ……はははははっ! こいつはお笑いだ。スラッジオの力を得た我に挑むとは愚かなり」

「どうやらスラッジオは、あらゆる世界に出現しているようね」

「少し前のことだ。地上に黒き汚泥が現れ、悪魔たちの体を乗っ取り、城を占拠したかと思えば、我に強大な力を与えてくれたのだ。天使共を薙ぎ倒すほどの力をな。お前さえいなければ、今頃アンゲロアが我が手に落ちていただろうに。何故天使共に味方する?」

「争いのない世界を作るためよ。私が住む人間界でもスラッジオが各地で暴れているわ。存在を確認した以上、お掃除しないわけにはいかないのよ」


 穂先をダイモニアに向けながらアリスが言った。


「争いのない世界だと。そんなものは幻想にすぎない。現に天空界エンジェリアも、天使共が大戦争に勝ってからついた名前だ。今度は天使共を地上に追いやり、いや、生ぬるい。全員を八つ裂きにした上で攻め滅ぼし、我らが支配者となった暁には悪魔界デーモニアと改名し、異界への進出を果たす。我ら悪魔が全世界を制覇するのは時間の問題だ。アリス、お前は我に大いなる貢献をした。全宇宙に多種多様な異界があることを教えてくれたのだからな」

「天のお告げは天使にしか聞こえないはずよ。どうしてあなたが知っているのかしら?」

「それならお前の隣にいる一角天魔が知っているだろう」

「……」


 マルアスが後ろめたそうに目線を落とした。


「マルアス、どういうことなの?」

「天のお告げは天使にしか聞こえない。確かにそうだが、俺は天魔の一角獣だ。天魔が夢魔の力を使ってお告げをアリスに伝えれば、天使と悪魔の両方に伝わる」

「だから幽閉されていたのね」

「ああ。天のお告げが悪魔側にも伝わっていたことは、セラフィア様にだけ伝えた。悪魔側から攻撃を受けるようになったのも丁度その頃だ。魔王ダイモニアに伝わってしまったことが知れたら、天使側に処罰される危険があったからな。俺はメメントの森で静かに死を待つだけだった。なのにお前さんは、そんな俺を仲間と呼んでくれた」

「あなたは何も悪くないわ。決着をつけましょ」

「ああ、天のお告げはハズレじゃなかった。アリスに出会えたのは、他でもないお告げのお陰だ」


 アリスは思わず口角を上げ、マルアスの横顔を見届けた。


「ふふふふふっ……ぐうっ! があああああっ! どういうことだっ!?」

「「「「「!」」」」」


 突如、スラッジオが魔王ダイモニアの体を蝕むように食らい、全身に激痛が襲い始めた。


 いくつもの触手が背中から左右不均等に生え、牙がより獰猛に生え変わり、巨大化しながら直立から前傾姿勢に変わっていく。理性を失い、ただひたすら眼に映る異物を排除するように、悪魔の幹部たちを薙ぎ払っていく。断末魔が響き渡り、生き残った悪魔の幹部がアリスの後ろを過ぎ去っていく。


 黒いカーペットは乱れながら赤く染まり、周囲には血祭りに上げられた悪魔たちの痩せこけた死骸が骨格を見せるようにしながら無残に横たわっている。悪魔たちは腕から魔力の塊を発射し、必死の抵抗を続けるが、汚れた暗黒の魔力はスラッジオの力を増幅させるばかりであった。


 無駄と分かり、魔古城(ディアボロア)から多くの悪魔が立ち去っていく。


 逃げ惑う姿は、権威の失墜を象徴しているようにも見えた。


 住民たちは落胆し、流れに沿うように避難を始めた。もはや敵も味方も関係なく生命を食らい、無尽蔵に魔力を増していくスラッジオは、天使と悪魔の両方にとって共通の敵となりつつあった。


 ようやく目が覚めた悪魔兵の1人がアリスの足元に跪く。


「たっ、頼むぅ! 我らとダイモニア様を助けてくれぇ~!」

「随分と都合が良いわね」

「我らにできることなら何でもする。どうか我らを救ってくれぇ~。我ら悪魔にも……家族がいるのだ」

「……」


 一瞬、アリスの手元が緩んだ。家族の記憶がないアリスには響くはずもない。


 哀れにも涙声で訴える悪魔兵の姿を前に、気が滅入るように呆れ果てた。


 しかし、悪魔でさえ大切にする家族がどれほど大きな存在であるかを感覚的に理解したアリスが一歩前へ出ると、スラッジオに穂先を向けながら口を開いた。


「今起きていることを天使に伝えなさい」

「わっ、分かった。すぐに向かおう」

「それともう1つ、天使と和平を結ぶことね。永久に」

「もちろんだ。こんなことになるなら、あんな黒き汚泥に従う理由はない」

「天使と悪魔と意見が一致するとはな」

「天魔の思し召しかもね」


 悪魔兵が翼を広げ、天井に空いた穴から外に出ようと浮遊する。


 魔王ダイモニアを取り込んだスラッジオが蔓状の汚泥を飛ばした。


 マルアスが咄嗟に空を飛び、長く尖った一角を光らせ、蔓状の汚泥に食い込ませた。捩じ切るように分断すると、悪魔兵の足を掴もうとした蔓の先が僅かに届かないまま落下していく。


「【浄化掃除ピューリファイスイープ】」


 穂先から聖なる光が放たれると、スラッジオの全身を直撃する。


 藻掻き苦しむスラッジオであったが、すぐに汚泥の防壁を作り出し、浄化作用を封じ込めた。聖光の力をもってしても倒すことはできなかったが、アリスは至って冷静であった。


 魔王ダイモニアの体からは、鏡のような光沢を帯びた黒い鉱石とも呼べる物体が全身を囲い込むように出現し、さながら変色した魔石の鎧であった。


「アリス、浄化の力が全部跳ね返されているぞ」

「心配ないわ。浄化できないなら叩き割ればいいのよ」

「叩き割る? 簡単には奴に近づけないぞ」

「やってみれば分かるわ。スラッジオを引きつけて。一撃で決めるわよ」

「しょうがねえな。分かったぜ」


 マルアスは雄叫びを上げながら4本の足を動かし、駆け抜けるようにスラッジオに近づいた。


 蔓状の汚泥が一斉にマルアスに襲い掛かる。一角で切断するが、横から入った蔓がマルアスの体に巻きつくと、身動きが取れなくなり、全身の自由を奪われた。


 動けなくなったマルアスを汚染するように包み込み、抵抗しながらも黒く染まっていく。


「アリスっ! 今だっ!」


 アリスはマルアスがスラッジオを惹きつけている間に穂先を鉄槌へと変え、絶大な魔力を集中させながら時を待ち、触手がマルアスに集中している今、胴体はがら空きだ。


 箒に跨り、穂先を真上に上げながら力を込め、振り下ろした。


「【粉砕掃除(クラッシュスイープ)】」


 鉄槌となった穂先がスラッジオの頭部に直撃する。


 ガラスが割れたような音がすると、頭部からは魔王ダイモニアの頭が姿を見せた。


 スラッジオは態勢を維持できなくなり、声を張り上げながらよろめいた。


 アリスは箒から降りると、スラッジオの体を鉄槌で何度も砕き始めた。すると、穴の開いた桶のように体からボロボロと汚泥が垂れていった。


「お掃除の時間よ。【蒸気掃除(ヴェーパースイープ)】」


 今度は鉄槌の穂先を吸い込み口に変形させると、中から蒸気を噴出させ、スラッジオの体のみを溶かしていく。中からダイモニアの体が現れ、スラッジオが逃げるように脱出する。


 追いかけながら蒸気をぶつけると、殺菌消毒の如く小さくなり、やがて蒸発していく。本体が消滅すると、部屋中に聖水を撒き散らし、残りの汚泥を掃除していく。


 汚れが消えてなくなると、魔王ダイモニアの体に蒸気を噴射する。


「ぐわあああああっ! ……何故聖光の力を使わん! 我を倒せたはずだ」

「あなたを倒したところで、別の悪魔が首を挿げ替えるだけよ。これに懲りたら、二度と戦争なんて考えないことね。もっとも、いくら私でも汚れきった心まではお掃除できないから、あなた次第だけど」

「――お前のような輩は初めてだ……天のお告げか……我の憎しみは……間違っていたというのか」

「そんなことないわ。あなたも大変だったんでしょ? セラフィアは悪魔とも仲良くすることを大戦争時代の子供たちに教えるべきだったと悔やんでいたわ。一度話し合ってみたら?」

「今更話し合いなど……」

「悪魔たちは本当に戦争を望んでいるの?」

「いや、我らが望むべきは平和だ。だがスラッジオに意識を乗っ取られ、内心に閉じ込めていた憎しみが解放されたのは不覚の極み」

「不思議よね。天使と悪魔って、真っ向から反発し合っている存在と思っていたけど、平和を願う気持ちだけは全く同じだもの」

「……」


 指摘を受け、ダイモニアは返す言葉がなかった。


 終戦を告げるように箒の召喚魔法を解き、静まり返った城に悪魔兵が再び戻ってくる。ダイモニアに戦意などない。肩を落とし、自らの弱さが招いた取り返しのつかない事態を悔いた。


 アリスが後ろを振り返ると、セラフィア率いる天使兵たちが佇んでいるのだった――。

 ソルカリガ帝国指揮官として海へと進出した時、黒き汚泥とも呼べる謎の粘液が目に入った。新手のクリーチャーかと思ったが、特に害を成すこともなく我々の目の前を横切った。しかし、帝国が北方進出を図った途端、踵を返すように迫り来るや否や、兵士たちを飲み込み、撤退を余儀なくされたのだ。


 アゴスブルク家創始者ルドルフ・フォン・アゴスブルクの著書『政略の伝承者』より

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