妬みの泥沼 ~連絡~
親子……様々な付き合いがあると思うが、これから紹介させて頂く事例は、いささか特殊な例だろう。
なぜなら、そもそも親子の周辺の環境も特殊ものだったからである。
私は今、病院のベッドで寝ている。腕にはギプスをはめ、足も吊り上げられてギプスで固定されており、全身のほとんどには包帯が巻かれ、火傷がズキズキと痛む……典型的な入院患者だ。
すぐ隣の机には、アシュリンが送ってくれた海外の危なげな鎮痛剤や、カチューシャが送ってくれた怪しい薬草などがある。
自分がなぜこうなったのか……ハッキリと覚えている。
正直言うと、私はこの結果に満足している。マゾに聞こえるかしれないが、あんな目に遭ったに関わらず、結末は最低限のハッピーエンドを迎えることが出来た。あの結末のためならば、この程度のケガは大したことない。
私は改めて、自分がこのような目に遭った事件を回想した……。
※
「くあぁ~……今日も暇だなー。なんか事件起きねぇかなぁ~」
……私は鬼島警部を見るたび、いつも思う。彼女はいったい、いつ仕事をしているのかと……。
いつものソファに寝そべり、競馬中継を暇そうに見る彼女は、まるで中年ニートのようだった。
「警部っ! また――」
例によって、大倉刑事の雷が落ちる。
いい加減彼も、鬼島警部が叱って言う事を聞くような類の人間ではないことを知るべきだ。
私がそんなことを考えていた時、常用の携帯電話とは違う、多重の暗号化を施した特注の携帯端末に連絡が入った。
『児童誘拐事件発生。住所は――』
端末の最初の文字を見て、私は準備を終えて席を立った。
児童誘拐……この部署にそのような類の案件が回ってくるのは珍しい――全く無いという事は無いが……。
私は鳴海刑事と大倉刑事に今の内容を伝えて、一緒に来るように言った。
「分かりましたっ!」
「むぅ……仕方ない、先輩が行くならば」
私はソファに寝転んでいる鬼島警部にも、声を掛けた。
と言っても、捜査に付いてくるように言ったわけではない。我々が出張っている間、留守番を頼むという意味だ。
「おー、行ってらっしゃい……」
彼女は私の視界において最後の最後まで、だるそうな気配を垂れ流していた。
警視庁の駐車場に止めてある私の自家用車に乗り込み、現場へと向かう。詳細な位置情報は移動中に確認したので、あとはナビに従って移動するだけだ。
パトカーを使っても良いのだが、毎回申請をしなければいけない。
私達の部署はオモイカネ機関なんて名前だし、正式に捜査要請がきたわけでもないので、私達が現場に赴く際にはほとんど自家用車を使用している。
被害者宅のある日野市は、警視庁から車で小一時間かかる郊外のベッドタウンだ。
しばらく車を走らせていると、車窓から見える景色は無機質なビル群から緑豊かな郊外の風景へと変わっていった。
携帯端末に記された住所によると、被害者宅は閑静な住宅街にあるらしい。
私は近所の駐車場(月極ではない)に車を止め、鳴海刑事と大倉刑事と共に足早に現場へと向かった。
しばらく進んで記された住所の前に来ると、そこには立派な一軒家があった。表札には『染谷』と書かれている。
「神牙さん、本当に誘拐事件は起きてるんでしょうか?」
後ろから、鳴海刑事が不安げに聞いてくる。
正直、私も確信があってここに来たわけではない。いつものように携帯端末に連絡が入り、私はその指示通りに動いて仕事をこなす……それだけの事だ。
だが、不安に思っているのは私も同じだ。
私はその一軒家を中心に、人の気配を探ってみる……どうやら、誘拐事件はガセネタではないらしい。
一軒家の中は、家族にしてはかなりの人数の人間が滞在しており、私達から見て死角になる位置に数人の男性が待機しているようだ。おそらく、ほとんどは警察官だろう。
私は、あえて玄関に近づいた。
「おい、キミ達っ!」
案の定、玄関先に植えられた木の影から一人の男が出てきた。
「ここに何か用か?」
私の片腕を掴み、男が凄む。
私は空いている方の手で警察手帳を取り出し、その男に見せて自己紹介をした。
「同じく鳴海警部補です」
「自分は大倉巡査部長でありますっ!」
すると男は途端に態度を変えた。直立不動の姿勢で、ビシッと敬礼をする。
「失礼しましたっ!」
……何度でも言おう、階級社会マジサイコー。私はその男に、現場の指揮官は誰か聞いた。
例え事件発生の連絡を受けて現場に駆け付けたとはいえ、我々は完全な部外者だ。
警察というのは、縄張り意識が強い。本格的な捜査をする前に、我々の方から現場指揮官に挨拶の一つでもしておく方が、その後の捜査でも動きやすくなる。
「藤沢警視ですっ!」
目の前の男は敬礼をしたまま、短く答える。
私は、その者がいる場所まで案内するように頼んだ。
「はっ! こちらへどうぞっ!」
こうして、我々は染谷宅に通された。
玄関を通り、廊下を進んでリビングに入ると、男は手で一人の捜査官を示した。
「あちらが、藤沢警視です」
私はその男にお礼を言って、改めて屋内の様子を見た。
まず、この部屋の中にいる大半は捜査一課の刑事達だった。
そしてその刑事達は、ひょっこりと現場に現れた我々に対して訝しげな視線を容赦なく浴びせてくる。
「なんだ、お前達はっ!?」
妙に甲高い、ヒステリックな声が浴びせられた。
私はその声が聞こえた方向を見て、溜息をついた。
なんせ、その声を発した人物は先程の男が紹介した藤沢警視その人であったからだ。
鋭い眼光に痩せこけた頬をした男……冷たい表情と陰湿な印象は、爬虫類を連想させる……それが、藤沢警視の第一印象だった。
私が彼の部下だったら、毎日が地獄だろう。実際に配属されなくても、想像だけでよくわかる。
ふと藤沢警視の対面を見ると、三十代前半と思われる女性がソファに座っていた。
おそらく、彼女が被害者の母親だろう。
その表情は落ち着きに満ちており、ダークブラウンに染められた長髪は少々乱れていた。
身に付けているワインレッドのスーツは高級品のようだったが、無数のシワが刻まれている。
私は目線を女性から藤沢警視に戻し、敬礼をしながら自己紹介をした。
そして『捜査五課』として『捜査支援』を行うために来た、と伝えた。
「捜査五課?……呼んだ覚えはありませんが?」
当然だ。まず、『捜査五課』という組織は警視庁には存在しない。あくまで我々、オモイカネ機関の別名だ。
そして、私が捜査協力と言わずに『捜査支援』と言ったのには理由がある。
『多様化、複雑化する犯罪に対して、実働部隊に対する全般的な捜査支援を行う』……それが捜査五課の任務だ。このような建前があれば、かなり事件捜査で動きやすくなる。
最近では、警視庁刑事部の中で『公式の編成表にはない独立部署』として、何気に人気がある。
もっとも、その実態を知ったら大半の者は落胆するだろう。
「おい、所轄っ! お前が呼んだのかっ!?」
部屋の隅でしきりに脂汗を拭いていた気の弱そうな中年男性が、ブンブンと首を横に振った。
後ろで、大倉刑事が歯ぎしりする音が聞こえる。
おそらく、自分と似たような境遇だったその中年男性をいびる藤沢警視に敵意を抱いたのだろう。
藤沢警視の周りに立っている刑事達も、「聞いてません」と答える。
それを聞いて、藤沢警視は我々を睨みつけた。
「そういうわけで、一応、この事件は我々が担当することになったんで、ご退室頂けますか?」
「ですが――」
私は反論しようとする大倉刑事を制止して、その場を後にした。
どうやらこの男は、いわゆる『ナワバリ』を最重要視する人物のようだ。だとしたら、ここでイタズラに揉め事を起こすよりかは、早々に退散した方が良い。このようなタイプにいくら『被害者のため』と言ったところで、まったく聞く耳を持たない。
「……これからどうしますか? 誘拐事件は起きているようですけど……」
染谷宅の敷地を出てから駐車場へ向かう際、鳴海刑事がそう問いかけてきた。私を挟んで隣にいる大倉刑事も、どこか不満げな様子だ。
もちろん、私だって何の考えも無しに染谷家を後にしたわけではない。このような不測の事態のために、『彼女』がいるのだ。
私は携帯端末で『彼女』に短く連絡を入れると、二人を自家用車に乗せて喫茶店ロマンに向かった。
※
ロマンで『彼女』を待つこと、一時間近く――大倉刑事がチラチラと出入り口の方を見始めた時、『彼女』はフラッと現れた。
鳴海刑事と大倉刑事は、『彼女』を見て驚愕している様子だった。
無理もない。『彼女』は身長は二メートル以上、体重は百キロほどある『巨女』だ。
彼女は店内を黄金の瞳でギロッと見回し、我々の姿を見つけると笑顔で近づいてきた。
「マスターッ! クロックムッシュ一つっ!」
マスターのいるバーカウンターに向かって大声でそう注文すると、彼女は我々が空けていた対面の席にドカッと腰を下ろし、色褪せた茶色い革ジャンの懐から一本の太い葉巻を取り出して火を点けた。
私は彼女に頼んでいたモノを要求した。
「おぉっ! そうだったなっ!」
その事に今気が付いたといった様子で、彼女は葉巻を取り出した方とは反対の懐から、茶封筒に入れられた書類を私に差し出した。
「あの……これは?」
隣で鳴海刑事が、不思議そうに茶封筒を見つめる。
私は、この書類には今回の誘拐事件に関わる情報が記されていると伝えた。
「なんとっ! 情報屋まで持っていたのか!?」
私の右側で、窮屈そうに座る大倉刑事が叫ぶ。それを聞いて彼女も、嬉しそうに笑う。
彼女はこのような仕事を趣味でやっているそうなのだが、自身の事を情報屋と呼ばれて悪くない気分の様子だ。
私は大倉刑事の問いに生返事をして、書類に目を通した。
誘拐されたのは染谷悠斗。小学一年生。母親の染谷香と、母子二人で暮らしている。
事件の発生は三日前。息子が深夜になっても学校から戻らないことを不審に思った母親が、警察に通報した。
その後、誘拐犯と思われる人物から、『子供をさらった』という内容の電話がかかってきた。
誘拐事件と断定した警察は、捜査を開始。
染谷香は都内で宝石店を経営しており、裕福な生活をしている。彼女が人に恨まれるような事をした事実は、今の所は確認できない。
現在、捜査一課は身代金などの要求があることを考えて、染谷家で待機すると共に、染谷悠斗の当日の足取りを探っている。
染谷家近辺での聞き込みの結果、事件当日に悠斗の手を取って歩く女性の目撃証言が得られた。
書類の内容は以上だった。
私はすでにクロックムッシュを食べ終えた彼女にお礼を言って、札束の入った茶封筒を差し出した。
「お、毎度っ!」
茶封筒を受け取って席を立とうとする彼女を、私は引き留めた。
彼女にはもう少し働いてもらう。それは藤沢警視の動向調査だ。
彼のようなタイプは、常に現場に身を置くようなことはしない。事件の起きた所轄署に設けられた捜査本部で、長々と意味のない捜査会議をやるタイプだ。だとすれば、
必ず染谷家に彼がいない時間帯ができる。我々はその時間帯を利用して、染谷香から情報を引き出すなどの捜査をすることが出来るはずだ。
彼女は私からその依頼を聞くと、右手で三本の指をニヤニヤしながら示した……報酬は三百万円欲しいようだ。
私がそれを快諾して藤沢刑事の特徴を彼女に教えると、彼女は『んじゃ、行ってくるぜっ!』と言って店の扉をバンッと開けて通りに消えていった。
「……あの方も、神牙さんのお友達ですか?」
私は鳴海刑事の問いに、頷いて返事をした。
「しかし、彼女はいったい何者だ? とても普通の人間には見えなかったが……」
正直言って、私も彼女の事をよく知らない。
知っている事と言えば、その筋ではリズと呼ばれている凄腕の情報屋で、私の知人の妹であることだけだ。
私のそんな答えを聞いて、大倉刑事はう~んと唸った。彼は根が真面目な分、こういったグレーな部分について割り切ることが難しいのだろう。
だが、その心意気は大事だと思う。少なくとも、ブラックな部分を平然と受け入れるよりは……。
私達はその後も一時間ほど、ロマンにて昼食をしながら彼女からの連絡を待った。
そして、私がパニーニを食べ終わった時、電話が鳴った。
私は口を拭いてから電話に出ると、リズの甲高い声が聞こえた。
「おっ! ファングかっ!? 藤沢とかいう奴なら、今はいねぇぜ? どうやら作戦会議みたいなのに出るらしい」
やはり、思った通りだ。
私は彼女に礼を言って、まだアフタヌーンサービスのクロックムッシュ(こちらはリズが食べた物よりも大きい)を食べている鳴海刑事と大倉刑事を連れて、再び染谷宅に向かった。
※
染谷宅に入ると藤沢警視の姿はなく、彼の指揮下にあった特殊犯捜査係の刑事達も、大半が捜査本部に引き上げているようだった。やはり捜査会議らしい。
染谷宅に残っていたのは電話の録音機材などを操作するための捜査員と、所轄署の警官達が数人だけ。
電話のあるリビングでは捜査員が待機していたため、二階にある染谷悠斗の部屋で話を聞くことにした。
部屋は小学一年生とは思えないほどに整理整頓されていた。染谷悠斗は、かなりしっかりとした子供なのだろう。真新しい学習机の上には新品の図鑑が並んでいる。
ランドセルはない。学校帰りに誘拐されたとのことだから、まだ悠斗君と共にあるのだろう。
私や鳴海刑事達が室内を観察していると、程無くして一階から母親の染谷香がやってきた。
彼女は朗らかな笑みを浮かべ、我々の前にやってきた。
私はさっそく彼女から話を聞くことにし、私は鳴海刑事に視線を向けた。
彼は私の視線に気づくと、静かに頷いて染谷香から聞き取り調査を行った。
「突然お呼びだてして、申し訳ありません。少し聞いておきたいことがあったものですから」
染谷香は小さく頷いた。
やはり聞き取り調査や事情聴取などは、人たらしの鳴海刑事に頼むのがいい。
染谷香の表情も、少しだけ緩んだ気がする。
「捜査員がした質問の繰り返しになってしまうかも知れませんが、ご了承ください。まず悠斗君のことなんですが、誘拐されたことに何か心当たりはありませんか?」
鳴海刑事のその発言を聞いて、染谷香は顔を歪ませた。どうやら、質問の仕方がまずかったらしい。
「……ありません」
疲れた声で、彼女は鳴海刑事の質問に答える。
「そうですか……犯人からの電話は一度きりだったそうですが、身代金の要求などは無かったんですよね?」
「……はい、悠斗をさらったという以外は……」
そこまで聞いて、私の携帯電話が音を鳴らした。
私はその場にいる全員に断りを入れると、電話に出た。
「よう、ファングっ! いいネタが見つかったぜっ!」
電話の相手はリズだった……彼女は一見、サバサバした姉御肌のような人間に思えるが、貴金属、宝石類に目が無い。彼女が金に目ざといのも、その金で貴金属や宝石類を買い漁っているからだ。その業界では、赤髪の巨人として伝説になっている。
そんな彼女が私にいいネタがあると言ってきたということは、おそらくこの事件に関連するネタだろう。そのネタを、法外な値段で売りつけるつもりだ。
彼女の情報収集能力は抜群で、大金を払ったのにガセネタだったということは無いが、なんせその報酬額が馬鹿にならない。果たして聞いてよいものだろうか……しかし、私が逡巡している間に、彼女は口を開いた。
「一階のリビングに置かれた電話に、その時の会話を録音してたみたいだぜっ! 報酬は三本だっ!」
そう言って、電話は一方的に切られた。
三本……また三百万円か……貯金は大丈夫だろうか……?
私は携帯電話をしまって大倉刑事に、録音テープを持ってくるように指示した。
彼はこれ以上ないほど嫌悪の表情を浮かべたが、鳴海刑事からもお願いされるとあっさりとテープを取りに行った。
私は再び鳴海刑事と共に、聞き取り調査を再開した。
「母子二人で暮らしているそうですが……ご主人とは離婚されたということでしょうか?」
「えぇ、そうです……三年ほど前に」
私は、今その男性がどこに住んでいるかを尋ねた。
その時、彼女の目線がせわしなく動いた。
「し、知りません。離婚してからは連絡も取っていないので……」
「では、他にご家族はいらっしゃいますか?」
私からバトンを受け取るように、鳴海刑事が続けて質問した。
あまり考えたくはないのだが、怨恨の線を考えれば他の家族の事も知っておく必要がある。
「今は悠斗と二人きりです。父は私が生まれる前に亡くなり、母も去年ガンで……」
「そうでしたか……悲しいことを思い出させてしまって申し訳ありません」
そう言って頭を下げる鳴海刑事と同じように、私も頭を下げた。
私は頭を上げて、染谷香に対して当日のアリバイを聞いた。
当の本人は質問の意図に気づいたらしく、驚いたように聞き返してきた。
「まさか……私を疑っているんですか?」
私は、あくまで形式として聞くことになっていると答えた。
彼女は納得していない様子だったが、渋々答えてくれた。
「……あの日は、いつものように悠斗を学校に送り出してから家事を済ませて、職場へ向かいました。職場についてからは、閉店までずっと店にいました。従業員に聞いてもらえばわかると思います」
従業員への買収工作を行っていれば、そのアリバイは成立しないだろう。
私はさらに、自宅に帰ったのは何時頃から尋ねた。
「夜の十一時くらいだったと思います。普段から、そのくらいの時間に帰宅しますので……」
「その時に家の中を探しても、悠斗君の姿は無かった……ということですね?」
鳴海刑事が引き継ぐように話す。
染谷香は鳴海刑事の顔を見て答えた。
「はい。様子を見にこの部屋に行った時にはもういなくて……あの子には学校から帰る時は寄り道をしないように言って聞かせてありますし……私の言う事は素直に聞く子なので……おかしいと思って……」
「それで警察に通報したと」
染谷香は、その言葉を聞いて頷いた。その時、部屋の扉から大倉刑事が顔を覗かせた。
「おい、録音テープの再生準備が出来たぞ」
彼は私に向かって、ぶっきらぼうに言った。
私は染谷香と鳴海刑事に声を掛けて、一階のリビングへと向かった。
私は、染谷香に了解を求めてからソファに座った。
鳴海刑事と大倉刑事も私の両隣に座り、大倉刑事が録音機材を扱う捜査員にテープの再生を指示した。
「……何ですって?」
染谷香の声だ。普通の電話じゃないと察知して、ここから録音したのだろう。
「お前の子供……さらった」
低く重たい、くぐもった女の声が響く。
「……あなたは誰?」
「……朝の栄光が欲しければ来い……」
電話はそこで切られた。
「内容はこれだけだそうだ」
隣で大倉刑事が、プルプル震えながら精一杯の虚勢を張っている。
おそらく、電話の女性の声に恐怖したのだろう。
「電話でのやり取りは、これだけですか?」
鳴海刑事が染谷香に質問する。彼女は静かに頷いた。
「……はい。子供をさらったという言葉を聞いて、すぐに録音ボタンを押しました……」
「はぁ~、よく録音を思いつきましたな」
大倉刑事が感心したように言ったが、染谷香は表情を曇らせた。
「以前、夫は浮気をしていまして……その浮気相手からかかってきた電話を、何度か録音した経験があったんです。それで……」
「あ、や、これは失礼いたしましたっ!」
巨体を縮こませるようにして、大倉刑事は恐縮した。
私は染谷香に、この声に聞き覚えは無いか質問した。
「いえ……こんな気持ち悪い声……聞いたことありません」
「では、『朝の栄光』というのに聞き覚えはありませんか?」
鳴海刑事の質問にも、染谷香は首を横に振って否定する。
「……まったくありません。来いと言われても……覚えがないので困っているんです」
朝の栄光……そのまま聞けばなんてことはないが、『来い』というからにはどこかの地名を指すか、あるいは隠語のようなものだろうか? ただ、これらの説を肯定するには染谷香が『朝の栄光』の意味を理解していなければならない。
ということは、彼女は『朝の栄光』の意味を知っているにも関わらずに、我々に嘘をついたということだろうか?……自分の子供が誘拐されているにも関わらず? それはないだろう。
では、なぜ犯人はそのような事を言ったのだろうか……まぁ、考えてもいつものように答えは出ないんだけどね。
その時、私の携帯電話が音を鳴らした。相手はリズだった。嫌な予感がする……。
「おいっ! もうすぐ藤沢が戻ってくるぜっ!」
そう言って、リズは電話を切った。切れる寸前に『三百万なっ!』という言葉を残して……。
……彼女は私を破産させたいのだろうか? とにかく、彼女がそう言っている以上、ここに長居はできない。
私達は染谷香に頭を下げて、急いでその場を後にした。
※
住宅街の駐車場に止めてある自家用車の中で、私達は今後の捜査方針を話し合っていた。
その結果として、まずは元夫を疑うことにした。
私は携帯端末を取り出して、リズに連絡を取った。
彼女なら、元夫の基礎的な情報を与えれば瞬く間にその近況を報告してくれるだろう。金は取られるが……。
しかし、しばらくして彼女から返ってきた返事は、意外なものだった。
「ソイツなら、もうとっくの昔に死んでるぜ? 詳しく調べてみたが、ただの病死だ。事件性はないと思うぜ? じゃ、一本な。あばよっ!」
……百万か……貯金……大丈夫かな……。
私は憂鬱な気持ちを押し殺して、鳴海刑事と大倉刑事にその事を伝え、隣人宅での聞き込みに捜査方針を切り替えた。
車を降りて再び染谷宅の近くに来ると、染谷宅の隣の家に足を運んだ。
隣家は染谷の自宅と比べて、かなり小さい一戸建てだった。
表札には『宮川晴子』という女性の名前が一つあるだけ……一人暮らしだろうか?
白い押しボタン式の呼び鈴を鳴らすと、女性の声が返ってきた。
「庭よ、庭っ! ちょっと手ぇ放せないから、庭の方に回ってっ!」
我々はその声を聞いて、家とコンクリートの塀との狭い空間を抜けて、庭へと出た。
「うわ、すごいっ!」
「まったくですな~っ!」
庭を見るなり、鳴海刑事と大倉刑事は感嘆の声を上げた。
そこには小さいながらも、よく手入れされた庭園が広がっていた。
きちんと刈り込まれた樹木……白い敷石で作られた道が、鮮やかな芝を幾何学的に切り取っている。レンガで囲まれた空間に植えられた色鮮やかな花々も、また美しい。
「……どなた?」
土に汚れた軍手に園芸用のスコップを握りしめ、その女性は怪訝そうな目で我々を見た。
くすんだ金髪は肩まで伸びていたがボサボサで、上下ピンクのジャージを着ている。
化粧をしていないスッピンの状態で眉毛が薄く鋭い眼光を覗かせ、首にはタオルを巻いている。
年齢は三十代半ばくらいだろうか? タバコをくわえたまま、こちらを見ている。私が彼女に抱いた第一印象は、『元ヤンキー』だった。
そんな彼女に、鳴海刑事は怯まずに警察手帳を取り出して話しかけた。
「宮川晴子さんですか? 僕らは警察の者です。少しお聞きしたいことがありまして……」
「何? またお隣の件?」
宮川晴子は鬱陶しそうに吐き捨てた。
その気迫に鳴海刑事が怯んでしまったため、大倉刑事が話を代わる。
「はっ、その通りであります。すでに別の者に話したと思うのですが、今一度、捜査にご協力お願い致しますっ!」
「……まぁ、別にいいけど」
彼女はそう言いながらも、先程から庭いじりをしている。よほどこの庭が気に入っているのだろう。
私は彼女に対して、この庭を褒め称えた。
すると、彼女は作業の手を止めて立ち上がり、こちらをジッと見つめて微笑んだ。
「……まぁね……一応、イングリッシュ・ガーデンってやつ」
「へぇー、ご自分で勉強なさったんですか?」
持ち直した鳴海刑事が、朗らかな笑顔で質問する。
「いや、ガーデニングサークルに入ってるの。都会は緑が少なくってさ。アタシ、田舎の出身だから緑が無いとどうもね」
私もその意見に同意した。私が生まれ育った場所も、人里離れた山奥だったからだ。
「ふーん、そうなんだっ!」
彼女は嬉しそうに私を見た。自分と似たような環境の者を見つけて親近感が沸いたのだろう……私も同じだ。
「それで? アタシに何が聞きたいの?」
どうやら話をする気になったらしい。
彼女のその言葉を聞いて、鳴海刑事が本題に入る。
「お隣さんの染谷さんは、どういった家庭なんでしょうか? 宮川さんが知っている限りでよろしいので、教えてください」
宮川晴子は、少し考える素振りをしてから口を開いた。
「うーん……母子家庭だけど、お母さんはよくやってると思うよ? 女手一つで子供を育ててさ」
「ご近所の評判はどうですか?」
「悪くないんじゃない? 特に悪い噂も聞かないし」
「仕事の方はどんな感じだったか分かりますか?」
「なんでも、旦那さんと作った宝石店が順調にいっているらしいね。息子に苦労掛けないで済んだって、香さん、話してたよ。うらやましい限りだね」
最後の一言は、何となく含みのある言い方だった。
「悠斗君の事は、どう思いますか?」
「……いい子だよ。成績も良いみたいで礼儀正しいし……。小学一年生とは思えないくらい、しっかりしてるね。アタシの事も『お姉ちゃん、お姉ちゃん』って慕ってくれてね」
彼女は話しているうちに、嬉しそうな表情をする。よほど、染谷悠斗の事を気に入っていたのだろう。
「アタシの息子も生きてたら、こんななのかなぁ、って……」
宮川晴子は、うつむき加減に口を閉ざした。
「……失礼ですが、お子さんは?」
「病気で死んじゃったよ。旦那も死んで、今は一人暮らし。残ったのは借金だけだよ。だからかなぁ……他人事には思えないんだよ。早く悠斗君をお母さんの所に返してやってよ」
「はい、全力を尽くしますっ!」
そうして、私達は宮川家を後にした。